57 / 65
【57】
「お早う。何だか随分と物騒な目に会ったらしいね。」
「まあ、ロジャー様。お早うございます。」
件の事件のあった後、アリアドネはその週は学園を休んでいた。
『君は休んでいるんだ。良いな。』
両親からも休む様に言われていたし、何よりハデスが登校する事に反対した。
学園は、噂の女生徒とそれに追随する男子生徒による恫喝事件に混乱するだろうし、学生達も騒がしい事だろう。
厄災の源であるファニーが捕らえられて、アリアドネの不安の種は払拭された。
ハデスはこれまで通りにフランシスに侍るから、下校は元のようにアリアドネとは別々となる。
僅か三日ばかりを、ハデスと下校を共にした。これまでの不毛な二年間が無かったかのように、学園から邸宅までの短い時間、ハデスといろんな話しをした。
ファニーという不穏分子があったが為に、それが二人を結びつけたのは、何とも皮肉な事である。
週明けの月曜日、多少の好奇の視線を浴びるも、フランシス殿下とアンネマリーに帯同するアリアドネに、直接何かを尋ねてくるツワモノは居ない。
けれども、ここにそのツワモノが一人いた。
席に着きながら、アリアドネはロジャーの気さくな物言いに思わず笑みが溢れてしまった。
邸で休んでいた数日間、アリアドネは夢の出来事を思い出していた。
半月以上も前に見た夢の記憶は、日を追う毎に薄らいで曖昧になって来る。
その中で、鮮烈な印象を残した場面が幾つか思い出された。ファニーをダンスに誘うハデスであったり、ファニーの舞う妖精の様な可憐な姿であったり、図書室の角席でロジャーと密かに報告会をする場面であったり、夕闇に立ちはだかる三人であったり。
最後は決まってハデスの泣き出しそうな笑みであった。
現実に起こった事、起こらなかった事。
時系列で並べて見れば、驚くほど符号する事があったかと思えば、全く夢とは変わった事もある。
一番変わったのは、自分自身であった。
胸の奥で燻っていたハデスへの想いを、漸く認めて心を開いた。
それはもしかしたらハデスも同じだったかも知れない。
ハデスは変わった。
そして、アリアドネも変わった。
ロジャーは夢の中での戦友である。
ハデスへの恋心を手離したのも、男子生徒達との事件から救ってくれたのも、前に進む勇気を起こさせてくれたのもロジャーだった。
全てはアリアドネが見た長い夢の話。
現実のロジャーは、そんなのは知りもしない事である。けれども何故だかロジャーには、アリアドネは気安く話せてしまうのだった。
私室で一人過ごしながら、ふと考えた。
あの夢の続きがあるのなら、アリアドネは帝国でどんな暮らしをしたのだろう。
ハデスとの婚約を破棄してアンネマリー達からも離れてしまって、行き場を無くしたアリアドネは帝国へ渡った。
ロジャーが誘ってくれて帝国へ留学して、もしかしたらそのまま帰国する事なく残ったのだろうか。
ロジャーは学者になるのが夢だと言った。
であれば彼は帝国で大学まで進んだのだろう。ではその後は?学者になったとしたなら、彼は帰国をしたのだろうか。
ハデスは泣き顔の様な笑みを浮かべて、乗船するアリアドネを見送りに来た。
まるで今生の別れのような場面であった。
アリアドネとの婚約を破棄されたからと、優秀なハデスの功績に然程疵は付かなかっただろう。ファニーとの噂のお陰で多少の居心地の悪さはあったろうが、美しく有能な侯爵令息であるハデスは、あの後も殿下の側で輝いていたに違い無い。
長い長い夢の中。ファニーを巡って三者三様の結末であった。
現実にもファニーは騒動を巻き起こしたし、それをハデスと一緒に乗り越えた。
今のアリアドネは独りではない。
席に着いて鞄を仕舞う。
教科書を出して、休んでいた間に授業は何処まで進んだのかを確かめる。
土曜日に、ハデスが授業のノートを届けてくれた。そんな事も初めての経験だった。
ふと視線を上げて前を見れば、ハデスが振り返って視線が合った。
アリアドネは最近漸く解った事がある。
ハデスの笑み。笑っているのかいないのか、よくよく見ねば分からぬほどの小さな笑みである。ほんの僅かに口角を上げて、瞳を細める事は無いから、あの神秘的な翠の瞳のままである。けれども僅かに目尻が赤く染まって、それがハデスの照れた笑みなのだと解った。
ハデスの向けた笑みに、アリアドネもまた笑みで返す。
「良かったね。婚約者殿と仲直りして。」
「え?」
「何だっけ、会話があるとか無いとか言ってたじゃない。」
そうだわ。確かにハデスとはほんのちょっと前までそんな間柄であった。
「君ってやっぱり鈍いよね。」
「まあ、失礼な。お鈍さんのロジャー様には言われたくありません。」
「残念。僕はもう鈍くは無いよ。なにせダンスの教師を付けたからね。」
「ええっ!本当に?」
「本当だよ。ほら夜会の時に君達踊ったろう?アレを見てね思ったのさ。」
「えっ、何を?」
そこでロジャーは声を潜めた。
釣られる様にアリアドネまで前屈みの姿勢でこしょこしょ話の体制になる。
「ここだけの話だよ(小声)」
「ええ(小声)」
「婚約話しが来たのさ。」
「えっ!」
「しっ!そんな大事でも無いだろう。寧ろ遅いくらいだよ。」
「確かに(小声)」
「で、婚約したなら夜会や舞踏会でエスコートするじゃない。ファーストダンスは必須だろう?」
「確かに(小声)」
「それで。教師を付けたって言う訳。」
「まあ。それはお目出度うございます。」
「返事は未だだけどね。」
「良い結果を聞けるのを楽しみにしております。」
ほらほらほら。夢と現実ってやっぱりこんなに違うのね。
アリアドネは新たな衝撃を受けながら、漸く新しい一歩を踏み出せたような清々しい気持ちになった。
「まあ、ロジャー様。お早うございます。」
件の事件のあった後、アリアドネはその週は学園を休んでいた。
『君は休んでいるんだ。良いな。』
両親からも休む様に言われていたし、何よりハデスが登校する事に反対した。
学園は、噂の女生徒とそれに追随する男子生徒による恫喝事件に混乱するだろうし、学生達も騒がしい事だろう。
厄災の源であるファニーが捕らえられて、アリアドネの不安の種は払拭された。
ハデスはこれまで通りにフランシスに侍るから、下校は元のようにアリアドネとは別々となる。
僅か三日ばかりを、ハデスと下校を共にした。これまでの不毛な二年間が無かったかのように、学園から邸宅までの短い時間、ハデスといろんな話しをした。
ファニーという不穏分子があったが為に、それが二人を結びつけたのは、何とも皮肉な事である。
週明けの月曜日、多少の好奇の視線を浴びるも、フランシス殿下とアンネマリーに帯同するアリアドネに、直接何かを尋ねてくるツワモノは居ない。
けれども、ここにそのツワモノが一人いた。
席に着きながら、アリアドネはロジャーの気さくな物言いに思わず笑みが溢れてしまった。
邸で休んでいた数日間、アリアドネは夢の出来事を思い出していた。
半月以上も前に見た夢の記憶は、日を追う毎に薄らいで曖昧になって来る。
その中で、鮮烈な印象を残した場面が幾つか思い出された。ファニーをダンスに誘うハデスであったり、ファニーの舞う妖精の様な可憐な姿であったり、図書室の角席でロジャーと密かに報告会をする場面であったり、夕闇に立ちはだかる三人であったり。
最後は決まってハデスの泣き出しそうな笑みであった。
現実に起こった事、起こらなかった事。
時系列で並べて見れば、驚くほど符号する事があったかと思えば、全く夢とは変わった事もある。
一番変わったのは、自分自身であった。
胸の奥で燻っていたハデスへの想いを、漸く認めて心を開いた。
それはもしかしたらハデスも同じだったかも知れない。
ハデスは変わった。
そして、アリアドネも変わった。
ロジャーは夢の中での戦友である。
ハデスへの恋心を手離したのも、男子生徒達との事件から救ってくれたのも、前に進む勇気を起こさせてくれたのもロジャーだった。
全てはアリアドネが見た長い夢の話。
現実のロジャーは、そんなのは知りもしない事である。けれども何故だかロジャーには、アリアドネは気安く話せてしまうのだった。
私室で一人過ごしながら、ふと考えた。
あの夢の続きがあるのなら、アリアドネは帝国でどんな暮らしをしたのだろう。
ハデスとの婚約を破棄してアンネマリー達からも離れてしまって、行き場を無くしたアリアドネは帝国へ渡った。
ロジャーが誘ってくれて帝国へ留学して、もしかしたらそのまま帰国する事なく残ったのだろうか。
ロジャーは学者になるのが夢だと言った。
であれば彼は帝国で大学まで進んだのだろう。ではその後は?学者になったとしたなら、彼は帰国をしたのだろうか。
ハデスは泣き顔の様な笑みを浮かべて、乗船するアリアドネを見送りに来た。
まるで今生の別れのような場面であった。
アリアドネとの婚約を破棄されたからと、優秀なハデスの功績に然程疵は付かなかっただろう。ファニーとの噂のお陰で多少の居心地の悪さはあったろうが、美しく有能な侯爵令息であるハデスは、あの後も殿下の側で輝いていたに違い無い。
長い長い夢の中。ファニーを巡って三者三様の結末であった。
現実にもファニーは騒動を巻き起こしたし、それをハデスと一緒に乗り越えた。
今のアリアドネは独りではない。
席に着いて鞄を仕舞う。
教科書を出して、休んでいた間に授業は何処まで進んだのかを確かめる。
土曜日に、ハデスが授業のノートを届けてくれた。そんな事も初めての経験だった。
ふと視線を上げて前を見れば、ハデスが振り返って視線が合った。
アリアドネは最近漸く解った事がある。
ハデスの笑み。笑っているのかいないのか、よくよく見ねば分からぬほどの小さな笑みである。ほんの僅かに口角を上げて、瞳を細める事は無いから、あの神秘的な翠の瞳のままである。けれども僅かに目尻が赤く染まって、それがハデスの照れた笑みなのだと解った。
ハデスの向けた笑みに、アリアドネもまた笑みで返す。
「良かったね。婚約者殿と仲直りして。」
「え?」
「何だっけ、会話があるとか無いとか言ってたじゃない。」
そうだわ。確かにハデスとはほんのちょっと前までそんな間柄であった。
「君ってやっぱり鈍いよね。」
「まあ、失礼な。お鈍さんのロジャー様には言われたくありません。」
「残念。僕はもう鈍くは無いよ。なにせダンスの教師を付けたからね。」
「ええっ!本当に?」
「本当だよ。ほら夜会の時に君達踊ったろう?アレを見てね思ったのさ。」
「えっ、何を?」
そこでロジャーは声を潜めた。
釣られる様にアリアドネまで前屈みの姿勢でこしょこしょ話の体制になる。
「ここだけの話だよ(小声)」
「ええ(小声)」
「婚約話しが来たのさ。」
「えっ!」
「しっ!そんな大事でも無いだろう。寧ろ遅いくらいだよ。」
「確かに(小声)」
「で、婚約したなら夜会や舞踏会でエスコートするじゃない。ファーストダンスは必須だろう?」
「確かに(小声)」
「それで。教師を付けたって言う訳。」
「まあ。それはお目出度うございます。」
「返事は未だだけどね。」
「良い結果を聞けるのを楽しみにしております。」
ほらほらほら。夢と現実ってやっぱりこんなに違うのね。
アリアドネは新たな衝撃を受けながら、漸く新しい一歩を踏み出せたような清々しい気持ちになった。
あなたにおすすめの小説
皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
すれ違う思い、私と貴方の恋の行方…
アズやっこ
恋愛
私には婚約者がいる。
婚約者には役目がある。
例え、私との時間が取れなくても、
例え、一人で夜会に行く事になっても、
例え、貴方が彼女を愛していても、
私は貴方を愛してる。
❈ 作者独自の世界観です。
❈ 女性視点、男性視点があります。
❈ ふんわりとした設定なので温かい目でお願いします。
【完結】20年後の真実
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。
マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。
それから20年。
マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。
そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。
おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。
全4話書き上げ済み。
【完結】妖精姫と忘れられた恋~好きな人が結婚するみたいなので解放してあげようと思います~
塩羽間つづり
恋愛
お気に入り登録やエールいつもありがとうございます!
2.23完結しました!
ファルメリア王国の姫、メルティア・P・ファルメリアは、幼いころから恋をしていた。
相手は幼馴染ジーク・フォン・ランスト。
ローズの称号を賜る名門一族の次男だった。
幼いころの約束を信じ、いつかジークと結ばれると思っていたメルティアだが、ジークが結婚すると知り、メルティアの生活は一変する。
好きになってもらえるように慣れないお化粧をしたり、着飾ったりしてみたけれど反応はいまいち。
そしてだんだんと、メルティアは恋の邪魔をしているのは自分なのではないかと思いあたる。
それに気づいてから、メルティアはジークの幸せのためにジーク離れをはじめるのだが、思っていたようにはいかなくて……?
妖精が見えるお姫様と近衛騎士のすれ違う恋のお話
切なめ恋愛ファンタジー
【完結】仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
大好きなあなたを忘れる方法
山田ランチ
恋愛
あらすじ
王子と婚約関係にある侯爵令嬢のメリベルは、訳あってずっと秘密の婚約者のままにされていた。学園へ入学してすぐ、メリベルの魔廻が(魔術を使う為の魔素を貯めておく器官)が限界を向かえようとしている事に気が付いた大魔術師は、魔廻を小さくする事を提案する。その方法は、魔素が好むという悲しい記憶を失くしていくものだった。悲しい記憶を引っ張り出しては消していくという日々を過ごすうち、徐々に王子との記憶を失くしていくメリベル。そんな中、魔廻を奪う謎の者達に大魔術師とメリベルが襲われてしまう。
魔廻を奪おうとする者達は何者なのか。王子との婚約が隠されている訳と、重大な秘密を抱える大魔術師の正体が、メリベルの記憶に導かれ、やがて世界の始まりへと繋がっていく。
登場人物
・メリベル・アークトュラス 17歳、アークトゥラス侯爵の一人娘。ジャスパーの婚約者。
・ジャスパー・オリオン 17歳、第一王子。メリベルの婚約者。
・イーライ 学園の園芸員。
クレイシー・クレリック 17歳、クレリック侯爵の一人娘。
・リーヴァイ・ブルーマー 18歳、ブルーマー子爵家の嫡男でジャスパーの側近。
・アイザック・スチュアート 17歳、スチュアート侯爵の嫡男でジャスパーの側近。
・ノア・ワード 18歳、ワード騎士団長の息子でジャスパーの従騎士。
・シア・ガイザー 17歳、ガイザー男爵の娘でメリベルの友人。
・マイロ 17歳、メリベルの友人。
魔素→世界に漂っている物質。触れれば精神を侵され、生き物は主に凶暴化し魔獣となる。
魔廻→体内にある魔廻(まかい)と呼ばれる器官、魔素を取り込み貯める事が出来る。魔術師はこの器官がある事が必須。
ソル神とルナ神→太陽と月の男女神が魔素で満ちた混沌の大地に現れ、世界を二つに分けて浄化した。ソル神は昼間を、ルナ神は夜を受け持った。