アリアドネが見た長い夢

桃井すもも

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【57】

「お早う。何だか随分と物騒な目に会ったらしいね。」

「まあ、ロジャー様。お早うございます。」


件の事件のあった後、アリアドネはその週は学園を休んでいた。

『君は休んでいるんだ。良いな。』

両親からも休む様に言われていたし、何よりハデスが登校する事に反対した。

学園は、噂の女生徒とそれに追随する男子生徒による恫喝事件に混乱するだろうし、学生達も騒がしい事だろう。

厄災の源であるファニーが捕らえられて、アリアドネの不安の種は払拭された。
ハデスはこれまで通りにフランシスに侍るから、下校は元のようにアリアドネとは別々となる。

僅か三日ばかりを、ハデスと下校を共にした。これまでの不毛な二年間が無かったかのように、学園から邸宅までの短い時間、ハデスといろんな話しをした。
ファニーという不穏分子があったが為に、それが二人を結びつけたのは、何とも皮肉な事である。


週明けの月曜日、多少の好奇の視線を浴びるも、フランシス殿下とアンネマリーに帯同するアリアドネに、直接何かを尋ねてくるツワモノは居ない。

けれども、ここにそのツワモノが一人いた。
席に着きながら、アリアドネはロジャーの気さくな物言いに思わず笑みが溢れてしまった。

邸で休んでいた数日間、アリアドネは夢の出来事を思い出していた。

半月以上も前に見た夢の記憶は、日を追う毎に薄らいで曖昧になって来る。

その中で、鮮烈な印象を残した場面が幾つか思い出された。ファニーをダンスに誘うハデスであったり、ファニーの舞う妖精の様な可憐な姿であったり、図書室の角席でロジャーと密かに報告会をする場面であったり、夕闇に立ちはだかる三人であったり。
最後は決まってハデスの泣き出しそうな笑みであった。

現実に起こった事、起こらなかった事。
時系列で並べて見れば、驚くほど符号する事があったかと思えば、全く夢とは変わった事もある。
一番変わったのは、自分自身であった。

胸の奥で燻っていたハデスへの想いを、漸く認めて心を開いた。
それはもしかしたらハデスも同じだったかも知れない。

ハデスは変わった。
そして、アリアドネも変わった。

ロジャーは夢の中での戦友である。
ハデスへの恋心を手離したのも、男子生徒達との事件から救ってくれたのも、前に進む勇気を起こさせてくれたのもロジャーだった。

全てはアリアドネが見た長い夢の話。
現実のロジャーは、そんなのは知りもしない事である。けれども何故だかロジャーには、アリアドネは気安く話せてしまうのだった。

私室で一人過ごしながら、ふと考えた。

あの夢の続きがあるのなら、アリアドネは帝国でどんな暮らしをしたのだろう。
ハデスとの婚約を破棄してアンネマリー達からも離れてしまって、行き場を無くしたアリアドネは帝国へ渡った。
ロジャーが誘ってくれて帝国へ留学して、もしかしたらそのまま帰国する事なく残ったのだろうか。

ロジャーは学者になるのが夢だと言った。
であれば彼は帝国で大学まで進んだのだろう。ではその後は?学者になったとしたなら、彼は帰国をしたのだろうか。

ハデスは泣き顔の様な笑みを浮かべて、乗船するアリアドネを見送りに来た。
まるで今生の別れのような場面であった。
アリアドネとの婚約を破棄されたからと、優秀なハデスの功績に然程疵は付かなかっただろう。ファニーとの噂のお陰で多少の居心地の悪さはあったろうが、美しく有能な侯爵令息であるハデスは、あの後も殿下の側で輝いていたに違い無い。

長い長い夢の中。ファニーを巡って三者三様の結末であった。

現実にもファニーは騒動を巻き起こしたし、それをハデスと一緒に乗り越えた。
今のアリアドネは独りではない。

席に着いて鞄を仕舞う。
教科書を出して、休んでいた間に授業は何処まで進んだのかを確かめる。
土曜日に、ハデスが授業のノートを届けてくれた。そんな事も初めての経験だった。

ふと視線を上げて前を見れば、ハデスが振り返って視線が合った。

アリアドネは最近漸く解った事がある。
ハデスの笑み。笑っているのかいないのか、よくよく見ねば分からぬほどの小さな笑みである。ほんの僅かに口角を上げて、瞳を細める事は無いから、あの神秘的な翠の瞳のままである。けれども僅かに目尻が赤く染まって、それがハデスの照れた笑みなのだと解った。

ハデスの向けた笑みに、アリアドネもまた笑みで返す。

「良かったね。婚約者殿と仲直りして。」
「え?」
「何だっけ、会話があるとか無いとか言ってたじゃない。」

そうだわ。確かにハデスとはほんのちょっと前までそんな間柄であった。

「君ってやっぱり鈍いよね。」
「まあ、失礼な。お鈍さんのロジャー様には言われたくありません。」
「残念。僕はもう鈍くは無いよ。なにせダンスの教師を付けたからね。」
「ええっ!本当に?」
「本当だよ。ほら夜会の時に君達踊ったろう?アレを見てね思ったのさ。」
「えっ、何を?」

そこでロジャーは声を潜めた。
釣られる様にアリアドネまで前屈みの姿勢でこしょこしょ話の体制になる。

「ここだけの話だよ(小声)」
「ええ(小声)」
「婚約話しが来たのさ。」
「えっ!」
「しっ!そんな大事でも無いだろう。寧ろ遅いくらいだよ。」
「確かに(小声)」
「で、婚約したなら夜会や舞踏会でエスコートするじゃない。ファーストダンスは必須だろう?」
「確かに(小声)」
「それで。教師を付けたって言う訳。」
「まあ。それはお目出度うございます。」
「返事は未だだけどね。」
「良い結果を聞けるのを楽しみにしております。」

ほらほらほら。夢と現実ってやっぱりこんなに違うのね。
アリアドネは新たな衝撃を受けながら、漸く新しい一歩を踏み出せたような清々しい気持ちになった。




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