アリアドネが見た長い夢

桃井すもも

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【60】

学園からハデスに送られる馬車での帰り道。二人きりで過ごせる僅かな時間。

婚約してから二年も経ってから、恋する心の拗れた糸を漸く解いて、共に恋愛初心者の恋人達は互いに頬を染めたまま向かい合う。
向かい合ってその瞳を見つめるだけで、心の奥からふつふつと熱が生まれて、胸の中いっぱいに溢れてしまう。

見つめ合うだけで頬が染まって、それでも視線を外せずに、再び互いに見つめ合う。

確かにそんな初々しい頃があったのだ。



「ハ、ハデス様、もうお仕度をしなければ、」
「まだ大丈夫だ。」

先ほど熱を放ったばかりなのに、その手は未だ熱を持ってアリアドネを翻弄する。

大きな手の平がするりと背中を擦り、そのまま腰までなぞって降りてくる。剣を握る手の平は、ザラリとした感触を与えるも男に教え込まれた身体はそれさえ快楽と憶えてしまって、アリアドネはふるりと小さく身震いした。

両の手で腰を捕らえられて何処にも逃げられる筈はないのに、更に楔を埋められてハデスの身体と繋がれる。
幸せな楔、幸福な痛み。

目眩がするほど揺さぶられ、アリアドネは思わずその首にしがみついた。自分と同じ漆黒の髪が汗でしっとり濡れている。

アリアドネの心を奪う翠の瞳。中心が榛を帯びて泉の奥底を思わせる神秘な色。
その瞳に見入っていると、やがて焦点が合わなくなるほど近付いて、目を瞑る暇も無く唇を塞がれた。

息も付けぬほどの圧迫に上からも下からも満たされて、目尻に生理的な涙が滲む。

腰を捕らえていた手の片方が外されて、自由な手は今度はアリアドネの太腿を抱え込んで持ち上げた。

朝の日差しが窓から注ぐ。二人の巻き上げる小さな埃が朝日を受けてキラキラ光って舞っている。
その中に、日を浴びたことの無い真っ白な脚が浮かんで、肉付きの良い柔らかな肌を晒しているのが見えた。

自分の内腿が見えたかと思うと、それは直ぐにハデスの肩に担がれた。深まる圧迫に思わず声が漏れる。
苦しい姿勢から更に揺らされる。只管ひたすら揺らされそのうち極まってどちらが先かも分からぬままに果ててしまった。


「ハデス様、もう、」

あれほど純情な男であった筈なのに、ハデスは過去の自身をすっかり忘れてアリアドネの豊かな胸に顔をうずめる。目線だけでこちらを見上げてくる。

汗で濡れた前髪を優しく梳いてやりながら、アリアドネはもう一度声を掛けた。

「もうお仕度をしなければ。殿下にお叱りを受けますわ。」

「柔らかいな...」

アリアドネの言葉が聞こえないのか、絶対聞こえているだろう筈の男は、アリアドネの柔らかな胸に頬を預けてその感触を楽しんでいる。

それから漸く仕方が無いと云う風に頭を上げれば、もう一度唇を押し当てるのを忘れずに、やっとの事でその身を起こしてくれた。

忘れられない、秋の初めの学園で起きた出来事。それからきっちり一年と半年の後、アリアドネはハデスの妻となった。

手を繋いだだけで、教室で視線が合うだけで頬を染めた二人であったが、純情であった筈の青年は、今では夜毎アリアドネを翻弄する。
観劇で感極まって涙するアリアドネに、泣かれると胸が痛むと言ったじゃないか。それなのに、誰よりもアリアドネを鳴かせているのはハデスである。

あの夜会の帰りに、頬を染めてつっかえつっかえアリアドネの胸を豊かだ豊満だと目元を赤らめ言ったのが、それも今では我がものと思う様であった。

夫はアリアドネの身体をすっかり暴いて、アリアドネ以上にアリアドネの身体を知っている。

胸も肩も腕の太さもあの頃よりも一回り厚みを増した。中性的な魅力が令嬢達の心を焦がした美しい青年ハデスは、王太子殿下の若き側近の一人となって│政《まつりごと》の世界に身を置いている。

「今日は早く戻る。」
「昨日もそう仰っておられました。」
「...。」

ハデスは多忙である。
王族に仕える身であるから当然だろうが、朝に登城すれば大抵夜半まで戻って来ない。
朝に登城したまま翌朝同じ衣服のまま戻って来るのも珍しく無い。

学友達より一足先にアリアドネとの婚姻を結んだハデスは、来月にアンネマリーとの婚姻の儀を控えるフランシス殿下に馬車馬のように働かされているらしい。

彼奴等あいつら、全く人遣いが荒い。」

彼奴等あいつらが誰であるのかは聞かない事にしている。


身支度を整えた夫を見送るために玄関ホールで待つ間、アリアドネはふと思い出す。
あの長い夢を見たのも、丁度今頃であった。

夏の終わり。熱に魘され寝込んだ折りに、長い長い夢を見た。

確かな恋心を得ていると云うのに、上手く行かない婚約者との仲。王族の婚約者の側に侍る為に、いつも何処か遠巻きに見られて、令嬢らしい華やかさとは程遠い学園での日々。

夏休みに不穏な令嬢の存在を耳にした。新学期それは確かに目の前に現れて、とんでもない衝撃を齎した。
心が通わぬ仲だと思っていたのが、一体何が切っ掛けだったか、気付けばハデスとは離れ難い程に惹かれ合っていた。

不穏な事や物騒な事が幾度かあって、摩訶不思議な令嬢に心底驚かされた。
そんなアリアドネの側にはいつだってハデスがいてくれて、アリアドネを信じていると言ってくれたのだ。

それからあれは、ハデスがロジャー様との距離が近いと焼き餅を、

「アリアドネ。」

そこまで思い出したところで、仕度を整えたハデスがホールに現れた。

「行ってらっしゃいませ、私の旦那様。」

全然乱れていないハデスの襟元を、指先でなぞり直してやる。

「ああ。」

相変わらずの二文字で答えてから、ハデスは襟元を触れる妻の手を掴んだ。
そうしてその指先に唇を押し当ててキスを一つ落としたのだった。






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