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【63】
ハデス・レックス・グラントンは、グラントン侯爵家の嫡男である。
濡羽色の漆黒の艶髪に翠色の瞳。
抜けるような白い肌は御令嬢方からも羨ましいと思われている。
細身の体躯で然程大柄でもない事から、何処か中性的な色香があって、巷で流行りの歌劇の様に、女優が男装をしたような麗しさを漂わせている。
彼は正しく嫡男であるが、長子ではない。
彼の前には兄が二人いた。
けれども、悲しい事にその兄達は揃いも揃ってこの世の生を僅かしか生きられなかった。
子には恵まれるのに育たない。
傷付き悩んだ両親は、古から語られる迷信紛いの事すら頼みにした。
ハデスは七歳までを女の子として育てられた。
男児が育たないのは、その美しい見目が冥界の女神様に気に入られ冥府へ連れて行かれてしまうからだと、母は何処から聞いて来たのかそれを真と信じて疑わなかった。
そうしてハデスは、その幼少期を女の子として育てられた。だがそれは見目ばかりの事で、ハデスが嫡子であるのに変わりはなかったから、幼い頃より後継教育を施されて育った。
幾度かの妊娠と出産に、母は次の妊娠を望めなかった。
ハデスはグラントン侯爵家の唯一人の嫡男として、姿ばかりは女の子のドレスを着せられて、その実は厳しい当主教育を受けて成長したのである。
女の子として育てられたからか、家を挙げて大切にされたからか、ハデスは無事に七歳の誕生日を迎える事が出来た。その日より男児として生きる事を許されたのである。
まだ男児となる前、幼子ばかりの茶会に連れられて行った事がある。
ハデスは当時から、自分が男の子であると自覚していた。けれども同時に、何故自分が女の子の姿であらねばならぬのかも幼いながら理解していた。
父を、何より母を悲しませないように、ふわふわのドレス姿は嫌で仕方が無かったが、それも七歳になれば終わるのだと我慢をして茶会に出た。
そこで彼女に会った。
貴族の中で黒髪は珍しい。
だから直ぐに目が行った。
自分と同じ黒髪の、瞳は真っ青な女の子。
「アリアドネというの。おばあさまはアリーってよぶのよ。あなたは?」
「わ、わたしはハリーよ。」
ハデスは咄嗟に嘘をついてしまった。家族も誰もハリーだなんて呼ばないが、アリアドネに倣いたかった。
アリーとハリー。お揃いの黒い髪。
お茶会の間、二人はずっと手を繋ぎ、ずっと一緒に過ごした。
ハデスがうっかりミルクを溢してしまって手が濡れたのを、アリアドネはハンカチを出して拭ってくれた。
「ハリーだいじょうぶ?ぬれちゃったわ。」
ガーゼの柔らかな感触とアリアドネのふっくらした指先。
ハデスは胸がとくんとくんと鳴って驚いた。それから、自分の指先が小さな手に掴まれ拭かれているのがとても嬉しくなって、
「アリー、だいすき。」
思わず言ってしまった。
「わたしもよ。ハリー。」
アリアドネはそう言って、にっこりと笑ってくれた。
嬉しくて堪らなくて、ハデスはアリアドネの手を取って椅子から降りた。アリアドネも一緒に降りてハデスに向き合う。
ハデスは跳ねる心を小さな身体に収め切れず思わずスキップした。
「なあに、それ。」
「ふふ、スキップよ。ほら、こう。」
アリアドネの前でぴょんと跳ねて見せる。
「こうして、ぴょんってはねるの。」
「こう?こう?」
片足で一歩ぴょん、足を替えて一歩ぴょん。すっかりスキップをマスターした二人はぴょんぴょん跳ねた。
そうして二人は大の仲良しになったのだ。
お茶会が終わって解散するのに、アリアドネが泣き出した。
「ハリーとおわかれしたくない。」
「アリーとおわかれしたくない。」
双子の様な女の子達は、揃いも揃って盛大に泣き出した。
互いに同じ侯爵家の子女であるから、ハデスはあの後もアリアドネの事を気に掛けた。忘れられずに憶えていた。
ダンスが上手いと聞いたから、父にダンス教師を強請ったりもした。我が儘どころが無駄口一つ言わないハデスの願いであったから、侯爵は国有数のダンス教師を充てがってくれた。
いつか再び会えたなら、君とダンスを踊りたい。君にダンスを教えたい。
だから、ハデスはその十年後に、アリアドネとの婚約話が持ち上がると、それがあのアリーであると直ぐに分かった。
ハデスはアリアドネとまた会えるのを待っていた。
忘れてしまったのは君の方だ。
アリアドネとの婚約が整って、二人の初見の場で、ハデスは少なからず衝撃を受けた。自分は忘れていなかったのに、君はこの黒髪を見ても思い出さない。
ハリーが女の子だと思っているのだから、アリアドネがハデスに気付かないのは仕方の無い事である。ましてハデスはハリーと名乗って、自分の真名を教えていなかった。
青く未熟な青年は、がっかりするあまり少しばかり憮然となった。
そうしてそれが、婚約者の心に小さな傷を付けたことを気付く事が出来なかった。
元来無口で不器用なのに、初手を間違えてしまったあまり、それ以降も上手く取り繕う事が出来なかった。
なのに心は確かに惹かれて、あのサファイアの瞳をもっと見つめていたいのに、彼女はハデスと向かい合っても直ぐに俯いてしまう。
ハデス様と自分を呼ぶ声には、いつかの溌剌とした響きを失って、そうしてあの眩しい笑みを見せてはくれなかった。
母から勧められて観劇に誘った事がある。
話題の恋愛小説を元にした演劇に、ハデスはそれがアリアドネの好みに合うのか甚だ疑問であったが、母親達がセッティングした機会に乗せられるように彼女を誘った。
ルーズベリー侯爵邸へ迎えに行けば、アリアドネの弟のヘンドリックも出迎えてくれて、アリアドネに良く似た弟にハデスはほっと心が和んだ。
二言三言弟と言葉を交わして、可愛い奴だなと笑みが漏れた。
結局その日、アリアドネは少しも楽しそうでは無かった。
観劇に行く途中の馬車内でも、劇場に着いてからも、演劇を観る間も、アリアドネは唯の一度も笑みを見せる事は無かった。
彼女は成熟した令嬢で、こんな恋愛劇など好まないのだろう。
そうして、多分、ハデスとの婚約も望んで受けた訳では無いのだ。
ハデスの青く未熟な心に傷が付いたのは、間違いの無い事実であった。
それでもハデスは思う。
君に見つめて欲しい。
君の笑顔を見せて欲しい。
あの幼い日のように、一緒に笑って、そうしてもっと側にいてほしい。
君にもっと、好きになって欲しいんだ。
濡羽色の漆黒の艶髪に翠色の瞳。
抜けるような白い肌は御令嬢方からも羨ましいと思われている。
細身の体躯で然程大柄でもない事から、何処か中性的な色香があって、巷で流行りの歌劇の様に、女優が男装をしたような麗しさを漂わせている。
彼は正しく嫡男であるが、長子ではない。
彼の前には兄が二人いた。
けれども、悲しい事にその兄達は揃いも揃ってこの世の生を僅かしか生きられなかった。
子には恵まれるのに育たない。
傷付き悩んだ両親は、古から語られる迷信紛いの事すら頼みにした。
ハデスは七歳までを女の子として育てられた。
男児が育たないのは、その美しい見目が冥界の女神様に気に入られ冥府へ連れて行かれてしまうからだと、母は何処から聞いて来たのかそれを真と信じて疑わなかった。
そうしてハデスは、その幼少期を女の子として育てられた。だがそれは見目ばかりの事で、ハデスが嫡子であるのに変わりはなかったから、幼い頃より後継教育を施されて育った。
幾度かの妊娠と出産に、母は次の妊娠を望めなかった。
ハデスはグラントン侯爵家の唯一人の嫡男として、姿ばかりは女の子のドレスを着せられて、その実は厳しい当主教育を受けて成長したのである。
女の子として育てられたからか、家を挙げて大切にされたからか、ハデスは無事に七歳の誕生日を迎える事が出来た。その日より男児として生きる事を許されたのである。
まだ男児となる前、幼子ばかりの茶会に連れられて行った事がある。
ハデスは当時から、自分が男の子であると自覚していた。けれども同時に、何故自分が女の子の姿であらねばならぬのかも幼いながら理解していた。
父を、何より母を悲しませないように、ふわふわのドレス姿は嫌で仕方が無かったが、それも七歳になれば終わるのだと我慢をして茶会に出た。
そこで彼女に会った。
貴族の中で黒髪は珍しい。
だから直ぐに目が行った。
自分と同じ黒髪の、瞳は真っ青な女の子。
「アリアドネというの。おばあさまはアリーってよぶのよ。あなたは?」
「わ、わたしはハリーよ。」
ハデスは咄嗟に嘘をついてしまった。家族も誰もハリーだなんて呼ばないが、アリアドネに倣いたかった。
アリーとハリー。お揃いの黒い髪。
お茶会の間、二人はずっと手を繋ぎ、ずっと一緒に過ごした。
ハデスがうっかりミルクを溢してしまって手が濡れたのを、アリアドネはハンカチを出して拭ってくれた。
「ハリーだいじょうぶ?ぬれちゃったわ。」
ガーゼの柔らかな感触とアリアドネのふっくらした指先。
ハデスは胸がとくんとくんと鳴って驚いた。それから、自分の指先が小さな手に掴まれ拭かれているのがとても嬉しくなって、
「アリー、だいすき。」
思わず言ってしまった。
「わたしもよ。ハリー。」
アリアドネはそう言って、にっこりと笑ってくれた。
嬉しくて堪らなくて、ハデスはアリアドネの手を取って椅子から降りた。アリアドネも一緒に降りてハデスに向き合う。
ハデスは跳ねる心を小さな身体に収め切れず思わずスキップした。
「なあに、それ。」
「ふふ、スキップよ。ほら、こう。」
アリアドネの前でぴょんと跳ねて見せる。
「こうして、ぴょんってはねるの。」
「こう?こう?」
片足で一歩ぴょん、足を替えて一歩ぴょん。すっかりスキップをマスターした二人はぴょんぴょん跳ねた。
そうして二人は大の仲良しになったのだ。
お茶会が終わって解散するのに、アリアドネが泣き出した。
「ハリーとおわかれしたくない。」
「アリーとおわかれしたくない。」
双子の様な女の子達は、揃いも揃って盛大に泣き出した。
互いに同じ侯爵家の子女であるから、ハデスはあの後もアリアドネの事を気に掛けた。忘れられずに憶えていた。
ダンスが上手いと聞いたから、父にダンス教師を強請ったりもした。我が儘どころが無駄口一つ言わないハデスの願いであったから、侯爵は国有数のダンス教師を充てがってくれた。
いつか再び会えたなら、君とダンスを踊りたい。君にダンスを教えたい。
だから、ハデスはその十年後に、アリアドネとの婚約話が持ち上がると、それがあのアリーであると直ぐに分かった。
ハデスはアリアドネとまた会えるのを待っていた。
忘れてしまったのは君の方だ。
アリアドネとの婚約が整って、二人の初見の場で、ハデスは少なからず衝撃を受けた。自分は忘れていなかったのに、君はこの黒髪を見ても思い出さない。
ハリーが女の子だと思っているのだから、アリアドネがハデスに気付かないのは仕方の無い事である。ましてハデスはハリーと名乗って、自分の真名を教えていなかった。
青く未熟な青年は、がっかりするあまり少しばかり憮然となった。
そうしてそれが、婚約者の心に小さな傷を付けたことを気付く事が出来なかった。
元来無口で不器用なのに、初手を間違えてしまったあまり、それ以降も上手く取り繕う事が出来なかった。
なのに心は確かに惹かれて、あのサファイアの瞳をもっと見つめていたいのに、彼女はハデスと向かい合っても直ぐに俯いてしまう。
ハデス様と自分を呼ぶ声には、いつかの溌剌とした響きを失って、そうしてあの眩しい笑みを見せてはくれなかった。
母から勧められて観劇に誘った事がある。
話題の恋愛小説を元にした演劇に、ハデスはそれがアリアドネの好みに合うのか甚だ疑問であったが、母親達がセッティングした機会に乗せられるように彼女を誘った。
ルーズベリー侯爵邸へ迎えに行けば、アリアドネの弟のヘンドリックも出迎えてくれて、アリアドネに良く似た弟にハデスはほっと心が和んだ。
二言三言弟と言葉を交わして、可愛い奴だなと笑みが漏れた。
結局その日、アリアドネは少しも楽しそうでは無かった。
観劇に行く途中の馬車内でも、劇場に着いてからも、演劇を観る間も、アリアドネは唯の一度も笑みを見せる事は無かった。
彼女は成熟した令嬢で、こんな恋愛劇など好まないのだろう。
そうして、多分、ハデスとの婚約も望んで受けた訳では無いのだ。
ハデスの青く未熟な心に傷が付いたのは、間違いの無い事実であった。
それでもハデスは思う。
君に見つめて欲しい。
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