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学園の入学式に、アテーシアは子爵令嬢シアとして出席した。
新入生の挨拶は、当然ながら王太子であるアンドリューで、演壇に立つ彼を座席から眺めながら、ほぼ半年ぶりに正面から見る彼の姿を確かめた。
艶のある金髪は豊かで青い瞳は夜空の濃紺よりも澄んでいる。
絶妙な間合いを取りながら眼差しを皆に向け朗々と挨拶を述べる姿は、既に為政者の片鱗を窺わせる。
美しい男性だと思う。尊敬の念もある。対面が叶わないからと、彼の為人が耳に入らない訳では無い。
父から母から王妃から、時には弟王子である第二王子殿下からも聞かされていた。
彼が何を学んでいるか、どんな風に政に関わり始めているのか。
それらは、王国が誇る賢明な王太子の姿を伝えてくれるも、実体の伴わない婚約者の話しは何処か空虚でアテーシアとは交わることの無い人物の話しに思えた。
こうして目の前で彼の姿を認めても、開いてしまった距離は直ぐには縮まる事はない様に思えた。
今日、アテーシアが子爵令嬢として入学するのにも、王家からは何の問い合わせも無い。
父がどこまで陛下に打ち明けているのか解らないが、建前では、アテーシアは王都郊外にある淑女学院に入学する事になっている。
寄宿制の女子学院で、令嬢にとっての教育機関としては国内最高峰に位置する学院である。
アテーシアは、その旨を文にてアンドリューに伝えた。
二人の会合は無くとも、文の交流は月に一度はあった。王妃との茶会の後にアンドリューとの会合が設けられるかについては、大体がこの文のやり取りで告げられていた。
先週、剣の稽古をするアンドリューを遠目に見て、アテーシアは、建前ではあるが女子学院に入学することを未だ伝えていないのに気が付いた。邸に戻って慌てて送った文に、アンドリューは直ぐに返信を送って来て、それには「お互い良き学びの時を過ごそう」と書かれていた。
学園に入学する直前である。その一週間前になって漸く、当然同じ学園に入学すると思われた婚約者は、文にてそうならなかった事を伝えている。王家と公爵家の間で、こんな大切なことがこれ程放置されるのだろうか。
もしかしたら父も王家も、この二人に既に匙を投げているのかもしれない。形骸的な形ばかりの婚姻という契約を全うすれば十全と、そう思っているのかもしれない。
王族とは公人であるから、それも当然の事であろう。自身の幸福を彼等は自由に望める立場にはないのだから。
演壇のアンドリューを見つめながら、アンドリューにとっての自分とは、彼の治世を形作る歯車の一つであるのだと、アテーシアはそう改めて思うのだった。
真っ直ぐに前を見据えるアンドリューの青い瞳を見つめていると、ふと視線が交わった。大勢いる生徒達の全体を漏らすこと無く視線を向けたその一瞬に、アテーシアがいたのだろう。数秒視線が合わさったが、それも直ぐに流れて行った。
アテーシアの今の姿を知る者は、この学園には一人もいない。何せ架空の人物である。ルース子爵家がモールバラ公爵家の従属爵位だと気付ける者は、高位貴族の当主であればいるだろうが、この場にいる学生では一人もいないと思われた。
アテーシアが淑女学院に入学すると疑わないアンドリューにしても、アテーシアの生家の従属爵位など然程興味の湧かない事だろう。
こうしてアテーシアは「シア」として滞り無く入学する事が叶った。
仕方が無いのは、成績までは誤魔化す事は無かった為に、アテーシアとアンドリューが同じクラスになった事か。
成績優秀者が選抜されたクラスには、アンドリューとアテーシアの他は、アンドリューの側近候補の令息達や高位貴族の子女等が多く含まれていた。
そこにあって、このクラスに子爵令嬢が存在するのは珍しく、赤縁の眼鏡にぱっつん前髪のお下げ姿もまた違う意味で珍しかった。
何処か珍獣を見る視線を感じるも、元より孤独に慣れっこのアテーシアには痛くも痒くもなかったから、教室という初めての空間に大満足なのであった。
「初めまして。僕はフランシス・フォンテスキュー・オーフォード。宜しくね。」
席は最後尾の窓際席であった。
アンドリューは中央席で周りを高位貴族の子女等が囲む配置になっている。どうやら王太子のいるクラスとは、爵位優先で席が決められたらしく、子爵位のアテーシアは末席に置かれたらしい。
オーフォード家も子爵家である。
アテーシアは頭の中の貴族名鑑を捲る。
「宜しくお願い致します。私は、シア・G・ルースと申します。子爵家の一女でございます。」
「ふうん。ごめん、ルース子爵家とは初めて聞いたよ。領地は何処?」
「家は文官職ですの。宮廷貴族でございますから領地はございません。御存知無くて当然ですわ。」
未来の王妃とは、つまり王城に勤めるのだからある意味文官と言っても良いのでは?
なかなか王妃陛下に不敬な思考を巡らしながら、私、嘘は言ってないわよねと開き直る。
「Aクラスに入れたのは名誉な事だけれど、なんだか凄いクラスだよね。王太子殿下と同じ空気を吸うだなんて。」
学園のクラスは成績順にAクラスからFクラスまである。成績優先者のクラスとはAクラスであった。
「そうでしょうか。少しばかり眩しいだけで所詮同じ人間ですわ。気にする事は無いと思います。」
「...。剛胆なご令嬢だね。」
「そう?」
王家の傍系である公爵家の令嬢は、王家に距離が近いが為に感覚が少しばかり可怪しいのだが、本人はそれには気が付かない。
真っ当な感覚を持つフランシスの物珍しげな眼差しをスルーして前を向けば、自然と中央席が視界に入った。
烟る金の髪の後ろ姿に、アンドリューの背中を初めて見ると思うのだった。
新入生の挨拶は、当然ながら王太子であるアンドリューで、演壇に立つ彼を座席から眺めながら、ほぼ半年ぶりに正面から見る彼の姿を確かめた。
艶のある金髪は豊かで青い瞳は夜空の濃紺よりも澄んでいる。
絶妙な間合いを取りながら眼差しを皆に向け朗々と挨拶を述べる姿は、既に為政者の片鱗を窺わせる。
美しい男性だと思う。尊敬の念もある。対面が叶わないからと、彼の為人が耳に入らない訳では無い。
父から母から王妃から、時には弟王子である第二王子殿下からも聞かされていた。
彼が何を学んでいるか、どんな風に政に関わり始めているのか。
それらは、王国が誇る賢明な王太子の姿を伝えてくれるも、実体の伴わない婚約者の話しは何処か空虚でアテーシアとは交わることの無い人物の話しに思えた。
こうして目の前で彼の姿を認めても、開いてしまった距離は直ぐには縮まる事はない様に思えた。
今日、アテーシアが子爵令嬢として入学するのにも、王家からは何の問い合わせも無い。
父がどこまで陛下に打ち明けているのか解らないが、建前では、アテーシアは王都郊外にある淑女学院に入学する事になっている。
寄宿制の女子学院で、令嬢にとっての教育機関としては国内最高峰に位置する学院である。
アテーシアは、その旨を文にてアンドリューに伝えた。
二人の会合は無くとも、文の交流は月に一度はあった。王妃との茶会の後にアンドリューとの会合が設けられるかについては、大体がこの文のやり取りで告げられていた。
先週、剣の稽古をするアンドリューを遠目に見て、アテーシアは、建前ではあるが女子学院に入学することを未だ伝えていないのに気が付いた。邸に戻って慌てて送った文に、アンドリューは直ぐに返信を送って来て、それには「お互い良き学びの時を過ごそう」と書かれていた。
学園に入学する直前である。その一週間前になって漸く、当然同じ学園に入学すると思われた婚約者は、文にてそうならなかった事を伝えている。王家と公爵家の間で、こんな大切なことがこれ程放置されるのだろうか。
もしかしたら父も王家も、この二人に既に匙を投げているのかもしれない。形骸的な形ばかりの婚姻という契約を全うすれば十全と、そう思っているのかもしれない。
王族とは公人であるから、それも当然の事であろう。自身の幸福を彼等は自由に望める立場にはないのだから。
演壇のアンドリューを見つめながら、アンドリューにとっての自分とは、彼の治世を形作る歯車の一つであるのだと、アテーシアはそう改めて思うのだった。
真っ直ぐに前を見据えるアンドリューの青い瞳を見つめていると、ふと視線が交わった。大勢いる生徒達の全体を漏らすこと無く視線を向けたその一瞬に、アテーシアがいたのだろう。数秒視線が合わさったが、それも直ぐに流れて行った。
アテーシアの今の姿を知る者は、この学園には一人もいない。何せ架空の人物である。ルース子爵家がモールバラ公爵家の従属爵位だと気付ける者は、高位貴族の当主であればいるだろうが、この場にいる学生では一人もいないと思われた。
アテーシアが淑女学院に入学すると疑わないアンドリューにしても、アテーシアの生家の従属爵位など然程興味の湧かない事だろう。
こうしてアテーシアは「シア」として滞り無く入学する事が叶った。
仕方が無いのは、成績までは誤魔化す事は無かった為に、アテーシアとアンドリューが同じクラスになった事か。
成績優秀者が選抜されたクラスには、アンドリューとアテーシアの他は、アンドリューの側近候補の令息達や高位貴族の子女等が多く含まれていた。
そこにあって、このクラスに子爵令嬢が存在するのは珍しく、赤縁の眼鏡にぱっつん前髪のお下げ姿もまた違う意味で珍しかった。
何処か珍獣を見る視線を感じるも、元より孤独に慣れっこのアテーシアには痛くも痒くもなかったから、教室という初めての空間に大満足なのであった。
「初めまして。僕はフランシス・フォンテスキュー・オーフォード。宜しくね。」
席は最後尾の窓際席であった。
アンドリューは中央席で周りを高位貴族の子女等が囲む配置になっている。どうやら王太子のいるクラスとは、爵位優先で席が決められたらしく、子爵位のアテーシアは末席に置かれたらしい。
オーフォード家も子爵家である。
アテーシアは頭の中の貴族名鑑を捲る。
「宜しくお願い致します。私は、シア・G・ルースと申します。子爵家の一女でございます。」
「ふうん。ごめん、ルース子爵家とは初めて聞いたよ。領地は何処?」
「家は文官職ですの。宮廷貴族でございますから領地はございません。御存知無くて当然ですわ。」
未来の王妃とは、つまり王城に勤めるのだからある意味文官と言っても良いのでは?
なかなか王妃陛下に不敬な思考を巡らしながら、私、嘘は言ってないわよねと開き直る。
「Aクラスに入れたのは名誉な事だけれど、なんだか凄いクラスだよね。王太子殿下と同じ空気を吸うだなんて。」
学園のクラスは成績順にAクラスからFクラスまである。成績優先者のクラスとはAクラスであった。
「そうでしょうか。少しばかり眩しいだけで所詮同じ人間ですわ。気にする事は無いと思います。」
「...。剛胆なご令嬢だね。」
「そう?」
王家の傍系である公爵家の令嬢は、王家に距離が近いが為に感覚が少しばかり可怪しいのだが、本人はそれには気が付かない。
真っ当な感覚を持つフランシスの物珍しげな眼差しをスルーして前を向けば、自然と中央席が視界に入った。
烟る金の髪の後ろ姿に、アンドリューの背中を初めて見ると思うのだった。
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