名前が強いアテーシア

桃井すもも

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アテーシアは、いつも通りに日曜の晩餐後には学園寮に戻って来た。

結局父は、アテーシアが邸を立つまで帰って来ず、城に詰めている理由がアンドリューとの婚約に関わる事であるのかは分からず終いであった。

夜が明けて朝になれば、早朝の湿り気を帯びた空気は夏の香りを孕んで、既に眩しく輝く太陽に昨日まで心に影を落とした物事も霧散する様な清々しさを覚えた。

来週には辺境の地へ向かう。
アンドリューの婚約者であったが為に、アテーシアは、これまで王都を離れる旅などは一度も経験した事が無かった。
それが一週間後の今頃は、メリーの背に乗り旅路に出るのだと、そう思うだけで胸が躍った。


アンドリューとの婚約は、何れは解かれる事になるのだと覚悟は決まった。父には面倒事を置いてゆくが、きっとアテーシアに悪いようにはしないだろう。

何の為の六年間であったのか、それを考えても仕方の無い事である。努力をしても上手く行かなかったのだ。それはアンドリューの所為でもアテーシアの所為でも無い。

王妃の寂しそうな顔が思い浮かんで、それだけはアテーシアも哀しく思い胸が痛んだ。



夏季休暇を間近にして、学園は浮足立った空気が漂っていた。そんな浮かれた空気の中で、パトリシアの表情にはどこか影が差して見えた。

夏季休暇は長い。その間の全てを生家で過ごすのか、パトリシアに問うてみれば、彼女は緩く首を振った。

「いいえ、最初の一週間は邸にいるけれど、後は寮へ戻ろうと思うの。シーズンの間は親族達も集まるし、彼等に挨拶を欠いて侮られてもいけないでしょう?ご挨拶を終えたなら学園の寮へ戻るわ。」

学園寮は長期休みの間も変わらず生徒達の暮らしを賄っている。
王都から遠く離れた領地に生家のある子女等の中には、帰省しない者も少なくない。特に最終学年は、卒業後の士官先や勤め先を探すのに休みの間も王都に残る。

ほんの少し前に入学したばかりであるのに、パトリシアの表情からは、彼女の生家には既に居場所が無いことが窺われた。

パトリシアは侯爵家に生まれた唯一の女児である。美しく聡明な彼女であれば、本来ならば縁談も引く手数多な筈だろう。

生家が双子の長子であるからと忌み子扱いしなければ、王族との縁があっても可怪しくない。もしかしたら、アンドリューの婚約者はパトリシアであったかも知れないのだ。現に弟のパトリックは、幼い頃からアンドリューの側近候補として侍っている。


「シアはひと夏を辺境伯領で過ごすのでしょう?」
「ええ。私も王都ではする事がありませんから。」

王妃からは、夏季休暇の間は妃教育のお休みを許されている。もしもアンドリューとの婚約が、解消なり破棄なりされるのがこの夏季休暇の間であるなら尚の事、アテーシアは王都から離れているのが望ましい。

王都から西の辺境伯まで馬車で六日程、馬なら三日は掛かるだろうか。

パトリシアを一緒に誘えるならどれほど楽しい事だろう。そんな事は許される筈も無いのだが、この王都の貴族社会の中から、せめてパトリシアの生家から彼女を連れ出してしまいたい。
童話の魔法使いの様に、月夜の晩にパトリシアの部屋の窓辺に現れ「レディ、お手をどうぞ」だなんて言いながらパトリシアの手を取って颯爽と彼女を拐ってしまえたなら、なんて素敵な事だろう。 
それは単なる誘拐なのだが、謎の魔法使いを夢想するアテーシアにはその発想は思い浮かばない。

「シアは、辺境伯領で剣のお稽古をするの?」
「え?」
「バカンスと聞いていたけれど、パトリックとの模擬戦を観ていて解ったの。貴女、もしかして騎士を目指しているのかしら。」

アンドリューとの婚約が無くなれば、アテーシアは疵の付いた公爵令嬢である。他国に嫁ぐ可能性が無い訳ではないが、近隣諸国にアテーシアと齢の近い王族はいないから、多分それは無いだろう。

そう考えれば、アテーシアは思いのほか自由な立場と思えた。良縁には恵まれないであろうし、何より名ばかりではあるが子爵位も継承しているから、一層独り身を通す道もある。

騎士を目指すフランシスを間近で見て騎士職という道があるのに思い当たった。兄から剣を贈られて心が躍ったアテーシアは、剣の道に生きるのも悪くないと思っている。

国境を護る騎士達に肩を並べる事は無理だとしても、折角得られた辺境で過ごす機会を将来に生かしたいと思った。

「はい。私には婚姻する未来は望めないでしょうから、それであれば剣技を磨いて騎士を目指すのも有りかと。そんな甘いものではないでしょうが、王国の何処かで剣でお役に立てれば本望です。」

「貴女なら王宮騎士団にも入れるのではなくて?」
「お城は駄目です。」

王城はアンドリューのお膝元であるから無理である。

「それで辺境伯領を?」
「たまたま父が西の辺境伯閣下と面識があったので。」

「ええっと、君達凄い話しをしてるね。シア嬢、君、騎士を目指すの?」

机に突っ伏して居眠りしていたフランシスが、むくりと起き上がって尋ねて来る。
昼食の後、午後の授業が始まるまでをパトリシアとお喋りをしていたのだが、どうやらフランシスを起こしてしまったらしい。

「はい。多分そうなるかと。」

頭の中であれこれ考えるより、言葉に出すと気持ちが定まる。たったそれだけの事なのに、曖昧であった道筋が形となって目の前に現れる様に思えて、アテーシアは進む未来に仄かな希望を感じた。


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