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そこは辺境伯傘下の貴族家の私兵が毎日見回りをしているそうで、湖へ向かう小径は踏みならされていた。その両脇には夏草が生い茂って、小柄なアテーシアをすっぽり覆うほどであった。
明日には王都に戻るアテーシアに、辺境伯夫妻は湖までの遠乗りを許してくれた。
ミカエルは芦毛の雄馬に、アテーシアはメリーに乗って、ベン・ボン兄弟と騎士がもう一人随行した。
ミカエルは、以前もここに来たことがあるらしく、神殿までの道筋も、そこから湖へと向かう森の小径も迷うことなく歩みを進める。
メリー達を神殿に置いて、そこから湖に続く小径を歩く。下草を予め刈り取っていたらしく、足元は思ったよりも広く感じた。
それでも途中、絡まる草木に足を取られて蹌踉めくと、すかざすミカエルが持ち上げ支えてくれた。
ミカエルは、アテーシアが躓かない様に手を繋いでくれていたのだが、男性との接触が剣の稽古でしか経験の無かったアテーシアは、それがとても照れくさかった。
張り出して前を塞ぐ背の高い草木が腕や肩に触れそうになるのを、ミカエルが剣で払いながらアテーシアの半歩先を歩く。
肩越しから覗くミカエルの表情はよく見えないが、ミカエルはアテーシアと繋ぐ手を握り締めて、その力強さがアテーシアを安心させた。
噎せ返る草木と深い森の薫り。アテーシア達の訪れを警戒するのか鳥達が姦しく囀っている。不意に森の中からパキリと枝を踏む事がして、振り返ってみても視界は木々で覆われている。アテーシアはそれが森に棲まう精霊が、アテーシアを揶揄って立てる音なのではないかと思った。
木立に覆われた小径はひんやりと湿った空気に満たされている。胸いっぱいに吸い込めば、心の奥底に溜まっていた古く澱んだ感情の残滓まで癒してくれる、そんな気がした。
鬱蒼とする森の向こうに明るい空間が見えて来た。それから確かに湖らしきものが覗いて見えて、この先に「伝説の湖」があるのだと解った。
小径の先に燦めく水面が現れた。
鬱蒼と茂る木立の中に、そこだけが違う空間の様に湖が空に向かって口を開けて、真上から降りそそぐ真夏の日差しを受けてキラキラと燦いている。鏡の様な水面に青い空が映って見えた。
鏡の様に空を映しだす神秘な水面を、アテーシアはそこが天と地、この世とあの世の狭間の様だと思った。
「ここが、伝説の湖なのね。」
「シア、気を付けて。君は泳げないだろう?ここは岸辺から直ぐに深くなる。水に入れば行き成り深くなるから足も着かない。透明度が高いから底まで見えるが、それは浅い底ではないんだ。何処までも深い底なしなんだ。」
美しい水面は神秘的で、畏怖の念を起こさせた。女神信仰で崇められ、そうして聖女が現れ消えた湖。
ここに来る前にミカエルから教えられた話しは、以前騎士から聞かされたものと同じで、だからか何処か覚えのあるものだった。
冬の終わりと春の始まり、狭間の季節にこの湖から聖女が現れた。漆黒の髪に宵闇の様な黒い瞳。美しい聖女は、夜明けを迎えたばかりの薄暗がりの中、凍える水面からその姿を現した。そうして夏至の夜明けに、まるで蕩ける様にこの湖に消えて行った。
「女神様がお呼びです。」それが最後に彼女が残した言葉で、以後、彼女が再び姿を現す事は無かった。
そこで、アテーシアは気が付いたのだった。
その話しは、王妃からかつて聞かされたものと一致していた。王妃は場所も時も明言はしなかった。ただ、昔の話なのだと教えてくれた。
けれどもそれは昔話であっても、童話やお伽噺などではない紛うことの無い事実であった。
何故なら、聖女の消失には王族が立ち会っていた。当時の第三王子がその一部始終を目撃して、王家にそれを報告している。王城の図書室にある禁書には、その詳細が記されている筈である。
アンドリューが禁書棚の鍵を譲ると言ったのを、アテーシアはそれを断った。あそこで受け取っていたなら、今、目の前に広がるこの風景が神秘な事件の舞台なのだと、後から読み合わせる事が出来ただろう。
今更ながら、直ぐ様断ってしまった短慮がほんの少し悔やまれた。
だがしかし。あの鍵は、アンドリューの妃が持つものだ。やはりアテーシアには断るしか術が無かった。
アンドリューの青い瞳を思い出し、失った初恋の欠片が胸を掠めたのかチクリと痛んだ。
アテーシアは知っている。
「伝説の聖女」は確かに実在した。彼女は聖女と言われたが、日照りに雨を降らせたりだとか、何も無いところから花を出すだとか、そんな奇跡は一つも起こさなかった。ただ夜明けの湖に独り現れ、夜明けの湖に独り消えて行った。
王妃が教えてくれたのは、不思議な聖女の話しだけではなかった。
当時の王家、特に王妃は神殿の法王猊下の血縁に当たり、その信仰心から聖女を求めた。既に定まった王太子殿下の婚約者と挿げ替えようと画策した事から国内の情勢を揺るがすまでとなり、聖女が消失した後は、国王陛下は王位を王太子に譲り王妃と共に蟄居している。
政と信仰、政教分離の鉄則の最も確かなモデルとして、王妃はアテーシアにこの話しを聞かせたのであった。
伝説の湖の燦く水面に目を奪われながら、王妃の言葉を思い出していたアテーシアに、ミカエルは思い掛けない事を言った。
「この湖には洞窟が空いているんだ。そこを通り抜けた先に川がある。その川の先は公国との国境の河に繋がる。ここは公国までの抜け道なんだよ。」
ミカエルは水面の一点を見つめながら、アテーシアの知らない事実を語った。
明日には王都に戻るアテーシアに、辺境伯夫妻は湖までの遠乗りを許してくれた。
ミカエルは芦毛の雄馬に、アテーシアはメリーに乗って、ベン・ボン兄弟と騎士がもう一人随行した。
ミカエルは、以前もここに来たことがあるらしく、神殿までの道筋も、そこから湖へと向かう森の小径も迷うことなく歩みを進める。
メリー達を神殿に置いて、そこから湖に続く小径を歩く。下草を予め刈り取っていたらしく、足元は思ったよりも広く感じた。
それでも途中、絡まる草木に足を取られて蹌踉めくと、すかざすミカエルが持ち上げ支えてくれた。
ミカエルは、アテーシアが躓かない様に手を繋いでくれていたのだが、男性との接触が剣の稽古でしか経験の無かったアテーシアは、それがとても照れくさかった。
張り出して前を塞ぐ背の高い草木が腕や肩に触れそうになるのを、ミカエルが剣で払いながらアテーシアの半歩先を歩く。
肩越しから覗くミカエルの表情はよく見えないが、ミカエルはアテーシアと繋ぐ手を握り締めて、その力強さがアテーシアを安心させた。
噎せ返る草木と深い森の薫り。アテーシア達の訪れを警戒するのか鳥達が姦しく囀っている。不意に森の中からパキリと枝を踏む事がして、振り返ってみても視界は木々で覆われている。アテーシアはそれが森に棲まう精霊が、アテーシアを揶揄って立てる音なのではないかと思った。
木立に覆われた小径はひんやりと湿った空気に満たされている。胸いっぱいに吸い込めば、心の奥底に溜まっていた古く澱んだ感情の残滓まで癒してくれる、そんな気がした。
鬱蒼とする森の向こうに明るい空間が見えて来た。それから確かに湖らしきものが覗いて見えて、この先に「伝説の湖」があるのだと解った。
小径の先に燦めく水面が現れた。
鬱蒼と茂る木立の中に、そこだけが違う空間の様に湖が空に向かって口を開けて、真上から降りそそぐ真夏の日差しを受けてキラキラと燦いている。鏡の様な水面に青い空が映って見えた。
鏡の様に空を映しだす神秘な水面を、アテーシアはそこが天と地、この世とあの世の狭間の様だと思った。
「ここが、伝説の湖なのね。」
「シア、気を付けて。君は泳げないだろう?ここは岸辺から直ぐに深くなる。水に入れば行き成り深くなるから足も着かない。透明度が高いから底まで見えるが、それは浅い底ではないんだ。何処までも深い底なしなんだ。」
美しい水面は神秘的で、畏怖の念を起こさせた。女神信仰で崇められ、そうして聖女が現れ消えた湖。
ここに来る前にミカエルから教えられた話しは、以前騎士から聞かされたものと同じで、だからか何処か覚えのあるものだった。
冬の終わりと春の始まり、狭間の季節にこの湖から聖女が現れた。漆黒の髪に宵闇の様な黒い瞳。美しい聖女は、夜明けを迎えたばかりの薄暗がりの中、凍える水面からその姿を現した。そうして夏至の夜明けに、まるで蕩ける様にこの湖に消えて行った。
「女神様がお呼びです。」それが最後に彼女が残した言葉で、以後、彼女が再び姿を現す事は無かった。
そこで、アテーシアは気が付いたのだった。
その話しは、王妃からかつて聞かされたものと一致していた。王妃は場所も時も明言はしなかった。ただ、昔の話なのだと教えてくれた。
けれどもそれは昔話であっても、童話やお伽噺などではない紛うことの無い事実であった。
何故なら、聖女の消失には王族が立ち会っていた。当時の第三王子がその一部始終を目撃して、王家にそれを報告している。王城の図書室にある禁書には、その詳細が記されている筈である。
アンドリューが禁書棚の鍵を譲ると言ったのを、アテーシアはそれを断った。あそこで受け取っていたなら、今、目の前に広がるこの風景が神秘な事件の舞台なのだと、後から読み合わせる事が出来ただろう。
今更ながら、直ぐ様断ってしまった短慮がほんの少し悔やまれた。
だがしかし。あの鍵は、アンドリューの妃が持つものだ。やはりアテーシアには断るしか術が無かった。
アンドリューの青い瞳を思い出し、失った初恋の欠片が胸を掠めたのかチクリと痛んだ。
アテーシアは知っている。
「伝説の聖女」は確かに実在した。彼女は聖女と言われたが、日照りに雨を降らせたりだとか、何も無いところから花を出すだとか、そんな奇跡は一つも起こさなかった。ただ夜明けの湖に独り現れ、夜明けの湖に独り消えて行った。
王妃が教えてくれたのは、不思議な聖女の話しだけではなかった。
当時の王家、特に王妃は神殿の法王猊下の血縁に当たり、その信仰心から聖女を求めた。既に定まった王太子殿下の婚約者と挿げ替えようと画策した事から国内の情勢を揺るがすまでとなり、聖女が消失した後は、国王陛下は王位を王太子に譲り王妃と共に蟄居している。
政と信仰、政教分離の鉄則の最も確かなモデルとして、王妃はアテーシアにこの話しを聞かせたのであった。
伝説の湖の燦く水面に目を奪われながら、王妃の言葉を思い出していたアテーシアに、ミカエルは思い掛けない事を言った。
「この湖には洞窟が空いているんだ。そこを通り抜けた先に川がある。その川の先は公国との国境の河に繋がる。ここは公国までの抜け道なんだよ。」
ミカエルは水面の一点を見つめながら、アテーシアの知らない事実を語った。
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