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「洞窟?」
アテーシアは、日射しに燦く水面と洞窟という言葉が結び付かずに、思わず聞き返した。
「湖に潜ると一角が切り立った岩壁になっている。そこに洞窟が空いているんだ。元は鍾乳洞であったのが地殻の変動か何かで水没して出来たのがこの湖なんだろう。洞窟と言っても、大人の男が両腕を広げるのがやっとの狭い洞穴だ。」
「この湖の何処にそんな洞窟があるというの?」
アテーシアは岸辺に近付きぐるりと湖面を見渡してみた。
「シア、あまり岸に近寄ってはいけない。」
「ええ、大丈夫よ、ちょっと覗いてみただけよ。」
「目印があるんだ。洞窟の入り口のところに大きな水晶が置いてある。日照のある昼中なら、陽の光が水晶に反射して湖面からも光って見える。そこを目指して潜れば洞窟が解る。穴の入口からは鎖が掛けられていて、それを辿って向こう側の出口まで泳ぐんだ。
洞窟の中は狭く真っ暗な闇の世界だ。直ぐに感覚が狂って自分のいる方向すら解らなくなる。前も後ろも天も地も、何処を向いているのか迷ってしまう。恐怖心に囚われて前後不覚になっては混乱する。それを堪えて鎖を頼りに只管泳ぐんだ。
出口まで鼓動に合わせて数を数えて、そうやって息を吐き出すのを加減しながら泳いで進む。そうして進んだ先に明かりが見えたその向こう側が川の中なんだ。」
ミカエルの言葉は、まるで見てきた様な言いぶりであった。
「ミカエル、貴方、真逆...」
「泳いだよ。泳いで通り抜けたよ。通り抜けて、もう一度潜って戻って来た。それが此処で騎士になる為の登竜門であったからね。」
「え?!その洞窟を通り抜けなければ騎士にはなれないの?」
「昔はね。洞窟は、元々戦の際に実際に使われていたんだよ。陸路を通らずに秘して国境へ抜ける為に。だから、昔の辺境騎士らは皆あそこを通り抜けられねば騎士にはなれなかったんだ。それがいつしか、辺境騎士になる為の登竜門になって、まあ、度胸試しだな。
それも今では廃れてしまった。もう泳げずとも騎士になれる。」
ミカエルは、安心してと言うようにアテーシアを見つめた。
「シア。君は泳げずとも騎士になれるんだ。」
「ミカエル、貴方、何故洞窟を通り抜けようだなんて思ったの?」
「確かめたかった。本当に、そんな洞窟があるのか。本当に、通り抜けられるのか。そうして、本当にそこから公国へ行き来できるのか。」
「怖くなかったの?」
「怖かったさ。だから関係者に指南を仰いだよ。コツを聞いたんだ。」
「通り抜ける?」
「ああ。この湖の何処から潜って、どの方向へ進んで、そうして洞窟に入ったなら、どれほどの時間を掛けて進むのか。」
「貴方はやり遂げたのね。もう立派な辺境騎士だわ。」
「私は残念ながら辺境騎士にはなれない。でも、そんな未来があったなら、それはそれてきっと楽しいかもしれない。君も騎士になるなら、良い仲間になれたんだろうな。」
「ふふ、私達、もうお友達だわ。私、自慢ではないけれどお友達が少ないの。貴方は私の稀有な友人よ。」
「光栄だね。君にそう言ってもらえるだなんて。」
「ミカエル、貴方は何処から潜ったの?ここからは何も見えないけれど。」
「ああ、それなら、」
ミカエルはそこでアテーシアの手を取り岸辺に沿って歩いた。再び繋がれた手が熱く感じた。それはどちらの体温なのか解らなかった。
そうして歩みを進めたところで、ミカエルは岸の向こう側を指差した。
「見えるかな?あそこに水晶が反射している。」
「え?何処?」
アテーシアはミカエルの指し示す方向へ視線を彷徨わせた。
「あっ、」
「見えた?」
「ええ、キラッと一瞬、」
「そこが洞窟の目印だ。」
アテーシアは燦いた光の先を確かめようと、繋がれたミカエルの手を離して一歩岸に向かって踏み込んだ。
「お嬢様、それ以上はなりません。」
途端にベンジャミンに止められた。
ベン・ボン兄弟と護衛騎士は、アテーシアとミカエルの会話を邪魔せず影のように侍っていたが、アテーシアの危険行為を察知してベンジャミンが制止した。
「ええ、分かったわ。これ以上は進まないわ。」
引き返そうとしたその時、がさりと音がして対岸に黒い大きな影が現れた。影は、見事な角を生やした牡鹿であった。けれど、大きな角と夏毛の暗色に、大型の獣かと見誤ったアテーシアは、反射的に身体が弾んでしまった。
それは一瞬の事だった。驚くあまり声も出なかった。一秒にも満たない僅かな瞬間が、まるでゆっくりと時が流れる様に見えた。
「シア!」
ミカエルの声が確かに聴こえた。同時にとぷんと水音がして、それが自身が落水した音だと解った。
全てが鮮明な画像に見えた。
足が滑った。思った以上に岸辺に近付き過ぎていた。
滑るように変わる風景。自身が吐き出す息が泡になる。こぼごほと漏れるばかりの泡とくぐもる水音。行き成りの水中に胸が痛いほど早鐘を打つ。
混乱する思考に自分が溺れているという恐怖。固く目を瞑って無意識のうちに手が伸びる。本能的に手足をばたつかせる水音に混じって、誰かが自分の名を呼んだ。
その声に思わず目を開き、途端に瞳を覆った真水に痛みを覚えた。頭上が輝いて見えていた。夏の太陽がアテーシアを照らしている。
ただ吐き出すばかりの無数の泡と眩しい日の光に黒い影が差したと思った瞬間、ああ、来てくれた。
力強い手に腕を掴まれ引き寄せられて、そのまま抱き締められて浮上する。
固く抱き締め囲う腕に必死になってしがみついた。
誰の腕なのか解っていた。
ミカエルが来てくれた。
それだけで、苦しい息と混乱する思考が正気を取り戻した。
そうして目に映った視界には、ゆらゆらと日射しが揺らめく向こう側にキラリと燦めく光が見えて、その下にぽっかりと黒い闇が口を開いていた。
アテーシアは、日射しに燦く水面と洞窟という言葉が結び付かずに、思わず聞き返した。
「湖に潜ると一角が切り立った岩壁になっている。そこに洞窟が空いているんだ。元は鍾乳洞であったのが地殻の変動か何かで水没して出来たのがこの湖なんだろう。洞窟と言っても、大人の男が両腕を広げるのがやっとの狭い洞穴だ。」
「この湖の何処にそんな洞窟があるというの?」
アテーシアは岸辺に近付きぐるりと湖面を見渡してみた。
「シア、あまり岸に近寄ってはいけない。」
「ええ、大丈夫よ、ちょっと覗いてみただけよ。」
「目印があるんだ。洞窟の入り口のところに大きな水晶が置いてある。日照のある昼中なら、陽の光が水晶に反射して湖面からも光って見える。そこを目指して潜れば洞窟が解る。穴の入口からは鎖が掛けられていて、それを辿って向こう側の出口まで泳ぐんだ。
洞窟の中は狭く真っ暗な闇の世界だ。直ぐに感覚が狂って自分のいる方向すら解らなくなる。前も後ろも天も地も、何処を向いているのか迷ってしまう。恐怖心に囚われて前後不覚になっては混乱する。それを堪えて鎖を頼りに只管泳ぐんだ。
出口まで鼓動に合わせて数を数えて、そうやって息を吐き出すのを加減しながら泳いで進む。そうして進んだ先に明かりが見えたその向こう側が川の中なんだ。」
ミカエルの言葉は、まるで見てきた様な言いぶりであった。
「ミカエル、貴方、真逆...」
「泳いだよ。泳いで通り抜けたよ。通り抜けて、もう一度潜って戻って来た。それが此処で騎士になる為の登竜門であったからね。」
「え?!その洞窟を通り抜けなければ騎士にはなれないの?」
「昔はね。洞窟は、元々戦の際に実際に使われていたんだよ。陸路を通らずに秘して国境へ抜ける為に。だから、昔の辺境騎士らは皆あそこを通り抜けられねば騎士にはなれなかったんだ。それがいつしか、辺境騎士になる為の登竜門になって、まあ、度胸試しだな。
それも今では廃れてしまった。もう泳げずとも騎士になれる。」
ミカエルは、安心してと言うようにアテーシアを見つめた。
「シア。君は泳げずとも騎士になれるんだ。」
「ミカエル、貴方、何故洞窟を通り抜けようだなんて思ったの?」
「確かめたかった。本当に、そんな洞窟があるのか。本当に、通り抜けられるのか。そうして、本当にそこから公国へ行き来できるのか。」
「怖くなかったの?」
「怖かったさ。だから関係者に指南を仰いだよ。コツを聞いたんだ。」
「通り抜ける?」
「ああ。この湖の何処から潜って、どの方向へ進んで、そうして洞窟に入ったなら、どれほどの時間を掛けて進むのか。」
「貴方はやり遂げたのね。もう立派な辺境騎士だわ。」
「私は残念ながら辺境騎士にはなれない。でも、そんな未来があったなら、それはそれてきっと楽しいかもしれない。君も騎士になるなら、良い仲間になれたんだろうな。」
「ふふ、私達、もうお友達だわ。私、自慢ではないけれどお友達が少ないの。貴方は私の稀有な友人よ。」
「光栄だね。君にそう言ってもらえるだなんて。」
「ミカエル、貴方は何処から潜ったの?ここからは何も見えないけれど。」
「ああ、それなら、」
ミカエルはそこでアテーシアの手を取り岸辺に沿って歩いた。再び繋がれた手が熱く感じた。それはどちらの体温なのか解らなかった。
そうして歩みを進めたところで、ミカエルは岸の向こう側を指差した。
「見えるかな?あそこに水晶が反射している。」
「え?何処?」
アテーシアはミカエルの指し示す方向へ視線を彷徨わせた。
「あっ、」
「見えた?」
「ええ、キラッと一瞬、」
「そこが洞窟の目印だ。」
アテーシアは燦いた光の先を確かめようと、繋がれたミカエルの手を離して一歩岸に向かって踏み込んだ。
「お嬢様、それ以上はなりません。」
途端にベンジャミンに止められた。
ベン・ボン兄弟と護衛騎士は、アテーシアとミカエルの会話を邪魔せず影のように侍っていたが、アテーシアの危険行為を察知してベンジャミンが制止した。
「ええ、分かったわ。これ以上は進まないわ。」
引き返そうとしたその時、がさりと音がして対岸に黒い大きな影が現れた。影は、見事な角を生やした牡鹿であった。けれど、大きな角と夏毛の暗色に、大型の獣かと見誤ったアテーシアは、反射的に身体が弾んでしまった。
それは一瞬の事だった。驚くあまり声も出なかった。一秒にも満たない僅かな瞬間が、まるでゆっくりと時が流れる様に見えた。
「シア!」
ミカエルの声が確かに聴こえた。同時にとぷんと水音がして、それが自身が落水した音だと解った。
全てが鮮明な画像に見えた。
足が滑った。思った以上に岸辺に近付き過ぎていた。
滑るように変わる風景。自身が吐き出す息が泡になる。こぼごほと漏れるばかりの泡とくぐもる水音。行き成りの水中に胸が痛いほど早鐘を打つ。
混乱する思考に自分が溺れているという恐怖。固く目を瞑って無意識のうちに手が伸びる。本能的に手足をばたつかせる水音に混じって、誰かが自分の名を呼んだ。
その声に思わず目を開き、途端に瞳を覆った真水に痛みを覚えた。頭上が輝いて見えていた。夏の太陽がアテーシアを照らしている。
ただ吐き出すばかりの無数の泡と眩しい日の光に黒い影が差したと思った瞬間、ああ、来てくれた。
力強い手に腕を掴まれ引き寄せられて、そのまま抱き締められて浮上する。
固く抱き締め囲う腕に必死になってしがみついた。
誰の腕なのか解っていた。
ミカエルが来てくれた。
それだけで、苦しい息と混乱する思考が正気を取り戻した。
そうして目に映った視界には、ゆらゆらと日射しが揺らめく向こう側にキラリと燦めく光が見えて、その下にぽっかりと黒い闇が口を開いていた。
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