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ザブンと水音が立って、アテーシアは強い力に引き上げられるまま水面へと浮上した。
空を映して鏡の様な湖面をあの世とこの世の境界線だと思ったが、それは間違いでは無かった。
大気を感じて口を開けた。水中でゆらゆら輝きながら揺らいで見えた太陽は、水面を打ち破った途端にアテーシアの顔面に熱い日射しを照りつけた。
「シアっ、シアっ!」
ごふごふと肺に残った空気を吐き出すしか出来ぬまま、苦しさに涙が滲む。
「大丈夫かっ、シアっ、大丈夫か、」
息が吸いたい、そう思うのにゼロゼロと咳込むばかりでままならない。
「シアっ、アテーシアっ、息を吸うんだ、そうだ、吸って吐くんだっ」
水面に浮上してからも、ミカエルにしがみつき固く握る拳を開く事が出来ない。
「大丈夫か、アテーシア、アテーシア、」
大丈夫だと答えたい、噎せながら首肯して大丈夫だと見せる。ミカエルが、アテーシアを抱き寄せる腕にグッと力を込めた。
二人は未だ水面から顔を出したまま、湖の中にいた。どんな風に泳いでいるのか、ミカエルがアテーシアを抱き寄せ立ち漕ぎをしているらしく、アテーシアは頬に降り注ぐ日射しを暖かく感じた。
真夏であるのにも関わらす、湖は冷たくアテーシアの身体を冷やした。反射的にぶるりと震えるアテーシアを、ミカエルが苦しげに眉を顰めて覗き込み
「アテーシア、大丈夫か、」名を呼び確かめて来る。
漸く深く息を吸えて、大丈夫だと答えようとしがみついたミカエルの胸から顔を上げて、
「み、ミカエル?」
アテーシアは呆然となった。
ミカエルから黒い雫が垂れている。まるでインクを頭から被った様に、黒い雫が髪の先からポタポタ落ちて頬を伝って零れ落ちている。
「ミカエル、ど、どうしちゃったの、」
一瞬、ミカエルが溶けているのかと思った。どうしよう、ミカエルが溶けてしまう。オロオロとミカエルを見上げて、
「ミ、ミカエル?あなた、あなた、」
ああ、なんて事、こんな事って、
「殿下...」
髪が水を滴らせている。真っ黒な雫が滴って頬を伝い首を伝って水面に滲んで溶けていく。あちこち黒い雫を垂らしながら、陽の光を受けて烟る金の髪が現れて、長い前髪は濡れて額を露わにした。
ミカエルが決して呼ばない名前でアテーシアを呼ぶ声が、まだ耳に残っていた。あんな慌てた声を聞いたのは初めてだったけれど。
「シア..アテーシア...」
未だアテーシアを抱き締め腕の中に囲い込んだまま、互いの顔がくっついてしまうと思うほど間近に見た友は、ここにいる筈のない男性だった。もうすぐ縁が解かれる婚約者だった。
「バレてしまったな」
ミカエルの、いやアンドリューの瞳に戸惑う自分が映っている。そうして青い瞳の主は、眉を下げて笑みを見せた。泣き出しそうな哀しい笑みに見えたのは混乱して見た錯覚か。
アンドリューはアテーシアを腕に抱えて、静かに岸に向かい泳ぎ出した。アテーシアはその腕を命綱の様だと思った。混乱して何から考えて良いのか解らぬまま、ただアテーシアを救い護る腕に囲われた。
意外にも、岸は直ぐそこであった。
落水して深みに沈んで溺れるあまり、まるで湖の真ん中にいるような気でいたが、実際は岸からはほんの数メートルより離れてはいなかった。
「アテーシア、大丈夫か。」
一言も言葉を発する事が出来なくなったアテーシアを気遣う様に囁く声は、聞き慣れた友の声である。何故気が付かなかったのか、確かにアンドリューの声音であった。
岸から幾つも腕が伸びて来て、あっという間にアテーシアは引き上げられた。ベンジャミンとボンジャミン、どちらの腕なのか解らなかったが、二人がアテーシアを脇から持ち上げ岸に上げてくれた。
「殿下お怪我は」
「大事無い」
随行していた護衛騎士は王宮の近衛騎士だったのだろう。アンドリューに手を差し伸べ岸に上げて、それから怪我が無いかを確かめている。
水から上がった身体が重い。ベンジャミンが上着を脱いで濡れ鼠の様になってしまったアテーシアの身体を覆った。
それからボンジャミンと共に二人並んで跪き、アンドリューに向かって騎士の礼をする。
「楽にして良い」
二人に声を掛けてから、アンドリューがベンジャミンに向かって言う。
「子爵に先触れを頼む。令嬢に着替えを用意する様に。」
その言葉が終わるや否や、ベンジャミンは森の小径へ向かって駆け出した。
どっぷり水を含んだ騎士服が重い。濡れそぼるアテーシアを同じく濡れそぼったアンドリューが抱き上げた。騎士が案じて駆け寄るのを制したらしく、彼は無言のままアンドリューの側に侍る。
アンドリューに横抱きにさせながら、何を言えば良いのか、何を見たら良いのか、アテーシアは混乱しているのか哀しいのか、まるで解らなくなってしまった。
終いにはアンドリューに抱き締められるまま、その胸にすっぽり顔を埋めて小さくなった。
アンドリューの胸元から、微かに麝香の香りがした。学園でアンドリューに耳元で囁かれた、あの時に香った香りであった。
ああ、なんで解らなかったのだろう。こんな鮮やかな青い瞳など、この王国に限られた人物しかいないではないか。濃く鮮やかな青い色は、王家の色、アンドリューの色。あの便箋のラインと同じ色である。
黒髪であっても、長い前髪で額を隠していても、声は紛う事の無いアンドリューで、気さくに語る砕けた口調にすっかり騙されてしまった。
声音ばかりでなく、背の高さも肩の広さも、全部全部、ミカエルは寸分違わずアテーシアの婚約者、アンドリューであったのに。
空を映して鏡の様な湖面をあの世とこの世の境界線だと思ったが、それは間違いでは無かった。
大気を感じて口を開けた。水中でゆらゆら輝きながら揺らいで見えた太陽は、水面を打ち破った途端にアテーシアの顔面に熱い日射しを照りつけた。
「シアっ、シアっ!」
ごふごふと肺に残った空気を吐き出すしか出来ぬまま、苦しさに涙が滲む。
「大丈夫かっ、シアっ、大丈夫か、」
息が吸いたい、そう思うのにゼロゼロと咳込むばかりでままならない。
「シアっ、アテーシアっ、息を吸うんだ、そうだ、吸って吐くんだっ」
水面に浮上してからも、ミカエルにしがみつき固く握る拳を開く事が出来ない。
「大丈夫か、アテーシア、アテーシア、」
大丈夫だと答えたい、噎せながら首肯して大丈夫だと見せる。ミカエルが、アテーシアを抱き寄せる腕にグッと力を込めた。
二人は未だ水面から顔を出したまま、湖の中にいた。どんな風に泳いでいるのか、ミカエルがアテーシアを抱き寄せ立ち漕ぎをしているらしく、アテーシアは頬に降り注ぐ日射しを暖かく感じた。
真夏であるのにも関わらす、湖は冷たくアテーシアの身体を冷やした。反射的にぶるりと震えるアテーシアを、ミカエルが苦しげに眉を顰めて覗き込み
「アテーシア、大丈夫か、」名を呼び確かめて来る。
漸く深く息を吸えて、大丈夫だと答えようとしがみついたミカエルの胸から顔を上げて、
「み、ミカエル?」
アテーシアは呆然となった。
ミカエルから黒い雫が垂れている。まるでインクを頭から被った様に、黒い雫が髪の先からポタポタ落ちて頬を伝って零れ落ちている。
「ミカエル、ど、どうしちゃったの、」
一瞬、ミカエルが溶けているのかと思った。どうしよう、ミカエルが溶けてしまう。オロオロとミカエルを見上げて、
「ミ、ミカエル?あなた、あなた、」
ああ、なんて事、こんな事って、
「殿下...」
髪が水を滴らせている。真っ黒な雫が滴って頬を伝い首を伝って水面に滲んで溶けていく。あちこち黒い雫を垂らしながら、陽の光を受けて烟る金の髪が現れて、長い前髪は濡れて額を露わにした。
ミカエルが決して呼ばない名前でアテーシアを呼ぶ声が、まだ耳に残っていた。あんな慌てた声を聞いたのは初めてだったけれど。
「シア..アテーシア...」
未だアテーシアを抱き締め腕の中に囲い込んだまま、互いの顔がくっついてしまうと思うほど間近に見た友は、ここにいる筈のない男性だった。もうすぐ縁が解かれる婚約者だった。
「バレてしまったな」
ミカエルの、いやアンドリューの瞳に戸惑う自分が映っている。そうして青い瞳の主は、眉を下げて笑みを見せた。泣き出しそうな哀しい笑みに見えたのは混乱して見た錯覚か。
アンドリューはアテーシアを腕に抱えて、静かに岸に向かい泳ぎ出した。アテーシアはその腕を命綱の様だと思った。混乱して何から考えて良いのか解らぬまま、ただアテーシアを救い護る腕に囲われた。
意外にも、岸は直ぐそこであった。
落水して深みに沈んで溺れるあまり、まるで湖の真ん中にいるような気でいたが、実際は岸からはほんの数メートルより離れてはいなかった。
「アテーシア、大丈夫か。」
一言も言葉を発する事が出来なくなったアテーシアを気遣う様に囁く声は、聞き慣れた友の声である。何故気が付かなかったのか、確かにアンドリューの声音であった。
岸から幾つも腕が伸びて来て、あっという間にアテーシアは引き上げられた。ベンジャミンとボンジャミン、どちらの腕なのか解らなかったが、二人がアテーシアを脇から持ち上げ岸に上げてくれた。
「殿下お怪我は」
「大事無い」
随行していた護衛騎士は王宮の近衛騎士だったのだろう。アンドリューに手を差し伸べ岸に上げて、それから怪我が無いかを確かめている。
水から上がった身体が重い。ベンジャミンが上着を脱いで濡れ鼠の様になってしまったアテーシアの身体を覆った。
それからボンジャミンと共に二人並んで跪き、アンドリューに向かって騎士の礼をする。
「楽にして良い」
二人に声を掛けてから、アンドリューがベンジャミンに向かって言う。
「子爵に先触れを頼む。令嬢に着替えを用意する様に。」
その言葉が終わるや否や、ベンジャミンは森の小径へ向かって駆け出した。
どっぷり水を含んだ騎士服が重い。濡れそぼるアテーシアを同じく濡れそぼったアンドリューが抱き上げた。騎士が案じて駆け寄るのを制したらしく、彼は無言のままアンドリューの側に侍る。
アンドリューに横抱きにさせながら、何を言えば良いのか、何を見たら良いのか、アテーシアは混乱しているのか哀しいのか、まるで解らなくなってしまった。
終いにはアンドリューに抱き締められるまま、その胸にすっぽり顔を埋めて小さくなった。
アンドリューの胸元から、微かに麝香の香りがした。学園でアンドリューに耳元で囁かれた、あの時に香った香りであった。
ああ、なんで解らなかったのだろう。こんな鮮やかな青い瞳など、この王国に限られた人物しかいないではないか。濃く鮮やかな青い色は、王家の色、アンドリューの色。あの便箋のラインと同じ色である。
黒髪であっても、長い前髪で額を隠していても、声は紛う事の無いアンドリューで、気さくに語る砕けた口調にすっかり騙されてしまった。
声音ばかりでなく、背の高さも肩の広さも、全部全部、ミカエルは寸分違わずアテーシアの婚約者、アンドリューであったのに。
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