43 / 60
【43】
しおりを挟む
湖から森を抜けて開けた所に、辺境伯傘下の子爵家の邸がある。
神殿には、以前は数多くの神官達がいたらしいが、今は数える程しか残っていないのだと言う。
かつては神殿が管理していた件の湖も、今は辺境伯の管轄となって、この子爵家が辺境伯の命を受けて管理をしているのだと言う。
子爵邸に着くなり挨拶もそこそこに、アテーシアは熱い湯で身体を温められた。
あれからアテーシアは、森の小径をアンドリューに抱き締められたまま通り抜け、馬もアンドリューに抱えられ相乗りをして、神殿を通り越した先にある子爵邸を訪った。
真夏であるのに冷たい湖に浸った身体は、熱い湯に温められて濡れた髪も清めてもらった。
誰のものであるのか、型は少しばかり古いが令嬢用のデイドレスを用意がされており、子爵家の侍女等の手で身綺麗に整えてもらった。
「あの、私の剣は...」
髪を結い上げる侍女に聞けば、落水して水に浸った剣は、ベンジャミンとボンジャミンが預かっているらしい。多分、今頃は手入れをしてくれているのだろう。こんな場面であるのにそんな事を考えてしまう自分が嫌になる。
そうじゃない、そんな事じゃあない。今考えねばならないのはそんなことでは無いのだ。
心を許した友人が、真逆のアンドリューだった。アンドリューはシアがアテーシアだと気付いていた。溺れた時に、アンドリューは確かにアテーシアの名を呼んだ。
何故、彼が彼だと解らなかったのだろう。ミカエルがアンドリューなのだと解らなかったのだろう。少し考えれば解った筈だ。アンドリューの洗礼名はMichaelである。
だとしたら、アンドリューはいつからシアがアテーシアであると解っていたのか。真逆、最初から?
学園に入学したその日からだとしたなら、そんなの恥ずかし過ぎる、穴があったら入ってしまいたい。特大サイズの穴を今直ぐ掘ってしまいたい。
アテーシアはシアの身となり、身軽に気軽に好き勝手に学園生活を過ごしていた。そうしてアンドリューとは接点を持たなかった。持たなかったか?本当に?
並び座って食事をしたり、便箋を無理やり預けられたり、アンドリューの不敵な笑みが思い出された。
王城で会うアンドリューと学園で会うアンドリュー、そしてここでミカエルとして会っていたアンドリューが、アテーシアの思考の中で混じり合ってマーブルになって、そうして最後に現れたのはアテーシアの婚約者である王太子殿下アンドリューだった。
泣きたい。もう泣いてしまいたい。
嘘に嘘を塗り重ねて、ちゃんと周囲を欺きシアとして通用していると思っていた。そんな筈など無いのに。世の中、そんなに甘くない。しかも、愚かしい事に、アテーシアは髪色を変えて前髪を下ろしただけのアンドリューをミカエルだと信じて疑わなかった。仮にも婚約者であるのに、記憶のミカエルを思い返せば返すほど、ミカエルとはアンドリューその人だ。
「お嬢様。」
気が付けばベンジャミンとボンジャミンが部屋の中に控えていた。
アテーシアは鏡に向かって座ったまま、思考の湖に沈んでいたらしい。身体はさっき溺れたばかりであるのに。
「殿下がお見えです。」
「分かったわ。」
重く固まっていた身体で、ゆっくり立ち上がる。そうして扉へ向かって胸を張り、姿勢を正した。
ベンジャミンが扉を開いたタイミングで、カーテシーで頭を垂れて礼の姿勢で迎える。
「顔を見せてくれないか。」
伏せた視界にアンドリューの靴のつま先が見えている。掛けられた言葉にゆっくり姿勢を直して顔を上げた。
「アテーシア。」
アンドリューも湯を浴びたのか、黒髪はすっかり金の髪に戻っていた。まごうことなき王子の姿であった。
何故貴方がそんな顔をするの?貴方は何も悪くない。周りを欺き嘘を重ねたのはアテーシアだ。王家と公爵家、学園も辺境伯も巻き込んで大嘘をついたのはアテーシアの方だ。
「ごめんなさい」
アテーシアの言葉が聞こえたのだろうか、アンドリューは小さく「人払いを」と告げて、侍女も護衛もベンジャミン達も退室した。
「何故、謝る。」
音も無く一歩近付いたアンドリューは、アテーシアの直ぐ目の前にいて、謝罪の理由を問うて来た。アテーシアの頭上から聞こえるその声に、アンドリューがとても近い距離にいるのが解った。
「貴方を欺きました。」
「それは私も同じだろう。」
アンドリューの声が耳に静かに響く。
「アテーシア、顔を上げてくれないか。君の顔を見せてはくれないか。」
どれほど情けない顔をしていたのだろう。
見上げたアテーシアの顔を見て、アンドリューは眉を下げた。
「君は何も悪くない。君を追い込んだのは私の方だ。」
それにアテーシアは、ふるふると首を振る事しか出来ない。
再び俯くアテーシアの頬を、大きく温かな手の平が包み込む。アンドリューがアテーシアの両頬を包み、そっと上を向かせた。
「君の瞳の色が好きなんだ。深い湖の水底とは、こんな色をしているのだろうな。」
アテーシアの紺碧の瞳をアンドリューが覗き込む。
「こちらを見据える大きな瞳も。」
「一生懸命睨むのも、それがただ可愛く見えるのを全然気付いていないのも、」
「会いたいのに、素直になれない私に呆れて、手紙も碌にくれない冷たいところも、」
「前髪を切って眼鏡を掛けて、髪を結っただけなのに、誰にもバレないと決めて疑わない愚かしいところも、」
「私という婚約者がいながら、私以外の男子生徒と親しくするのも、」
「何を誤解したのか私に確かめることもせず、そうしてどれほど冷たいのか、さっさと私を捨てようだなんて、そんな愚かな事を本気で考えるところも、」
「私が贈った花の意味に気付きもせずに、君にだけ譲ると決めた禁書棚の鍵も断って、兄から貰ったサーベルを後生大事にしているのも、」
「誰よりも努力家で、誰よりも勤勉で、誰よりも逞しくて、誰よりも賢くて、誰よりも愛らしい。」
「君の全てを愛おしく思う。妃でなくても剣士であっても、君が君らしくいられる事を願っている。」
アンドリューは、終いにはアテーシアの額に自身の額を押し当てて、
「私は、君のことが好きなんだ」
消え入りそうな微かな吐息で囁いた。
神殿には、以前は数多くの神官達がいたらしいが、今は数える程しか残っていないのだと言う。
かつては神殿が管理していた件の湖も、今は辺境伯の管轄となって、この子爵家が辺境伯の命を受けて管理をしているのだと言う。
子爵邸に着くなり挨拶もそこそこに、アテーシアは熱い湯で身体を温められた。
あれからアテーシアは、森の小径をアンドリューに抱き締められたまま通り抜け、馬もアンドリューに抱えられ相乗りをして、神殿を通り越した先にある子爵邸を訪った。
真夏であるのに冷たい湖に浸った身体は、熱い湯に温められて濡れた髪も清めてもらった。
誰のものであるのか、型は少しばかり古いが令嬢用のデイドレスを用意がされており、子爵家の侍女等の手で身綺麗に整えてもらった。
「あの、私の剣は...」
髪を結い上げる侍女に聞けば、落水して水に浸った剣は、ベンジャミンとボンジャミンが預かっているらしい。多分、今頃は手入れをしてくれているのだろう。こんな場面であるのにそんな事を考えてしまう自分が嫌になる。
そうじゃない、そんな事じゃあない。今考えねばならないのはそんなことでは無いのだ。
心を許した友人が、真逆のアンドリューだった。アンドリューはシアがアテーシアだと気付いていた。溺れた時に、アンドリューは確かにアテーシアの名を呼んだ。
何故、彼が彼だと解らなかったのだろう。ミカエルがアンドリューなのだと解らなかったのだろう。少し考えれば解った筈だ。アンドリューの洗礼名はMichaelである。
だとしたら、アンドリューはいつからシアがアテーシアであると解っていたのか。真逆、最初から?
学園に入学したその日からだとしたなら、そんなの恥ずかし過ぎる、穴があったら入ってしまいたい。特大サイズの穴を今直ぐ掘ってしまいたい。
アテーシアはシアの身となり、身軽に気軽に好き勝手に学園生活を過ごしていた。そうしてアンドリューとは接点を持たなかった。持たなかったか?本当に?
並び座って食事をしたり、便箋を無理やり預けられたり、アンドリューの不敵な笑みが思い出された。
王城で会うアンドリューと学園で会うアンドリュー、そしてここでミカエルとして会っていたアンドリューが、アテーシアの思考の中で混じり合ってマーブルになって、そうして最後に現れたのはアテーシアの婚約者である王太子殿下アンドリューだった。
泣きたい。もう泣いてしまいたい。
嘘に嘘を塗り重ねて、ちゃんと周囲を欺きシアとして通用していると思っていた。そんな筈など無いのに。世の中、そんなに甘くない。しかも、愚かしい事に、アテーシアは髪色を変えて前髪を下ろしただけのアンドリューをミカエルだと信じて疑わなかった。仮にも婚約者であるのに、記憶のミカエルを思い返せば返すほど、ミカエルとはアンドリューその人だ。
「お嬢様。」
気が付けばベンジャミンとボンジャミンが部屋の中に控えていた。
アテーシアは鏡に向かって座ったまま、思考の湖に沈んでいたらしい。身体はさっき溺れたばかりであるのに。
「殿下がお見えです。」
「分かったわ。」
重く固まっていた身体で、ゆっくり立ち上がる。そうして扉へ向かって胸を張り、姿勢を正した。
ベンジャミンが扉を開いたタイミングで、カーテシーで頭を垂れて礼の姿勢で迎える。
「顔を見せてくれないか。」
伏せた視界にアンドリューの靴のつま先が見えている。掛けられた言葉にゆっくり姿勢を直して顔を上げた。
「アテーシア。」
アンドリューも湯を浴びたのか、黒髪はすっかり金の髪に戻っていた。まごうことなき王子の姿であった。
何故貴方がそんな顔をするの?貴方は何も悪くない。周りを欺き嘘を重ねたのはアテーシアだ。王家と公爵家、学園も辺境伯も巻き込んで大嘘をついたのはアテーシアの方だ。
「ごめんなさい」
アテーシアの言葉が聞こえたのだろうか、アンドリューは小さく「人払いを」と告げて、侍女も護衛もベンジャミン達も退室した。
「何故、謝る。」
音も無く一歩近付いたアンドリューは、アテーシアの直ぐ目の前にいて、謝罪の理由を問うて来た。アテーシアの頭上から聞こえるその声に、アンドリューがとても近い距離にいるのが解った。
「貴方を欺きました。」
「それは私も同じだろう。」
アンドリューの声が耳に静かに響く。
「アテーシア、顔を上げてくれないか。君の顔を見せてはくれないか。」
どれほど情けない顔をしていたのだろう。
見上げたアテーシアの顔を見て、アンドリューは眉を下げた。
「君は何も悪くない。君を追い込んだのは私の方だ。」
それにアテーシアは、ふるふると首を振る事しか出来ない。
再び俯くアテーシアの頬を、大きく温かな手の平が包み込む。アンドリューがアテーシアの両頬を包み、そっと上を向かせた。
「君の瞳の色が好きなんだ。深い湖の水底とは、こんな色をしているのだろうな。」
アテーシアの紺碧の瞳をアンドリューが覗き込む。
「こちらを見据える大きな瞳も。」
「一生懸命睨むのも、それがただ可愛く見えるのを全然気付いていないのも、」
「会いたいのに、素直になれない私に呆れて、手紙も碌にくれない冷たいところも、」
「前髪を切って眼鏡を掛けて、髪を結っただけなのに、誰にもバレないと決めて疑わない愚かしいところも、」
「私という婚約者がいながら、私以外の男子生徒と親しくするのも、」
「何を誤解したのか私に確かめることもせず、そうしてどれほど冷たいのか、さっさと私を捨てようだなんて、そんな愚かな事を本気で考えるところも、」
「私が贈った花の意味に気付きもせずに、君にだけ譲ると決めた禁書棚の鍵も断って、兄から貰ったサーベルを後生大事にしているのも、」
「誰よりも努力家で、誰よりも勤勉で、誰よりも逞しくて、誰よりも賢くて、誰よりも愛らしい。」
「君の全てを愛おしく思う。妃でなくても剣士であっても、君が君らしくいられる事を願っている。」
アンドリューは、終いにはアテーシアの額に自身の額を押し当てて、
「私は、君のことが好きなんだ」
消え入りそうな微かな吐息で囁いた。
6,656
あなたにおすすめの小説
王が気づいたのはあれから十年後
基本二度寝
恋愛
王太子は妃の肩を抱き、反対の手には息子の手を握る。
妃はまだ小さい娘を抱えて、夫に寄り添っていた。
仲睦まじいその王族家族の姿は、国民にも評判がよかった。
側室を取ることもなく、子に恵まれた王家。
王太子は妃を優しく見つめ、妃も王太子を愛しく見つめ返す。
王太子は今日、父から王の座を譲り受けた。
新たな国王の誕生だった。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
【完結】え、別れましょう?
須木 水夏
恋愛
「実は他に好きな人が出来て」
「は?え?別れましょう?」
何言ってんだこいつ、とアリエットは目を瞬かせながらも。まあこちらも好きな訳では無いし都合がいいわ、と長年の婚約者(腐れ縁)だったディオルにお別れを申し出た。
ところがその出来事の裏側にはある双子が絡んでいて…?
だる絡みをしてくる美しい双子の兄妹(?)と、のんびりかつ冷静なアリエットのお話。
※毎度ですが空想であり、架空のお話です。史実に全く関係ありません。
ヨーロッパの雰囲気出してますが、別物です。
筆頭婚約者候補は「一抜け」を叫んでさっさと逃げ出した
基本二度寝
恋愛
王太子には婚約者候補が二十名ほどいた。
その中でも筆頭にいたのは、顔よし頭良し、すべての条件を持っていた公爵家の令嬢。
王太子を立てることも忘れない彼女に、ひとつだけ不満があった。
過去に戻った筈の王
基本二度寝
恋愛
王太子は後悔した。
婚約者に婚約破棄を突きつけ、子爵令嬢と結ばれた。
しかし、甘い恋人の時間は終わる。
子爵令嬢は妃という重圧に耐えられなかった。
彼女だったなら、こうはならなかった。
婚約者と結婚し、子爵令嬢を側妃にしていれば。
後悔の日々だった。
【完結】夫は私に精霊の泉に身を投げろと言った
冬馬亮
恋愛
クロイセフ王国の王ジョーセフは、妻である正妃アリアドネに「精霊の泉に身を投げろ」と言った。
「そこまで頑なに無実を主張するのなら、精霊王の裁きに身を委ね、己の無実を証明してみせよ」と。
※精霊の泉での罪の判定方法は、魔女狩りで行われていた水審『水に沈めて生きていたら魔女として処刑、死んだら普通の人間とみなす』という逸話をモチーフにしています。
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる