名前が強いアテーシア

桃井すもも

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アンドリューの言葉に、涙がぽろりと零れてしまった。ぽろりとひと粒零れてからは、ぽろりぽろぽろ零れて落ちて、大きな瞳はあっという間に水を湛えた。

そんなアテーシアに気付いているのに、アンドリューは涙に濡れる頬を離してくれない。額に額を押し当てて、アテーシアが涙に乱れた息を逃す微かに震えを、まるで確かめ味わうように、その眦にキスをした。

「キスを、しても良い?」
「も、もう、したじゃないっ」
「じゃあ、二度目のキスを許して欲しい。駄目?」

話す吐息が唇に当たる。僅かでも身動みじろぎしたならたちまち唇が触れてしまう。

アンドリューの甘やかな懇願に目眩がしそうになって、もう一層の事、この場で気絶してしまった方が楽だろうと思った。

「返事を聞かせて」

貴方、誰?!
全然知らない甘々なアンドリューが、アテーシアをそそのかす。

「待てるのは二度までだよ、三度目は無い。」
「い、いいわ」

答えられたのはそこまでだった。その先はアンドリューの口内に飲み込まれてしまった。押し当てられた柔らかな唇が、アテーシアを追い込むように求めて来る。頬に添えられていた手の平が、アテーシアの後頭部を押さえて何処にも逃がすまいと捕らえる。

こんなの知らない、こんなキスって知らないわ。『週刊貴婦人』の小説だって、キスとは優しく触れるものよ。こんな、こんな、食べられてしまうようなキスなんて!

追い詰められて息が詰まる。口内いっぱいアンドリューを受け入れて、それでなくても苦しいのに、アンドリューは更に追い詰めようとアテーシアを抱き寄せた。

湖に沈んだ時も苦しかった。息が出来ない苦しさを知った。
今も苦しく激しく甘やかな口付けに責め立てられて、頬を濡らした涙も口元を濡らす唾液も、全て混じり合って飲み込まれている。甘く苦しい口付けは、けれども仄暗い悦びを齎した。

「ぷはっ」

狂おしい拘束を解かれて、大きく息を吸い込んだ。アンドリューのキスに溺れて、危うく窒息しかかった。

アンドリューは、息継ぎだけは許してくれたが、未だ拘束は解いてくれない。アテーシアをきつく抱き締めたまま、紺碧色の大きな瞳を覗き込む。

「馬鹿!馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!こんなコトをするなんて!なんにも言ってくれないだなんて!もっと、もっと早く聞かせてくれたら、私、あんなに悩まなかったわ!」

「ごめん」

耳元で息を吹き掛ける様に囁かれて、頭の血が逆流する。

「な、な、な、なにするのっ」
「恋人に謝っている」
「こ、こ、こ、恋人って、」
「私の事が好きだと言ったよね。初めて会った日から、ずっと大切に思っていたと。」
「そ、そ、そ、それはっ」
「ほんの今朝方聞いたばかりだ。綺麗さっぱり諦めるのは許し難いことだけれど。」
「許し難い...」

「さあ、アテーシア。」
「わわわ、」

アンドリューはそう言って徐ろにアテーシアを抱き上げた。小柄なアテーシアは、すっかり足が床から離れてしまって、幼子が抱き上げられるようにアンドリューの首に腕を回して見下ろすていになってしまった。

「不器用な私達は互いに言葉足らずが過ぎたようだ。六年間の言えぬまま過ぎた言葉を伝え合おう。君に話して聞かせねばならない事が多過ぎる。」

高い高いをする様に、アンドリューに持ち上げられて、思わず青い瞳を覗き込んだ。なんて綺麗な瞳なのか。なんて美しい人なのだろう。

「アテーシア」

名を呼ばれても覗き込むのをめられない。

「漸く君を捕まえた。」

ああ、やっぱりそうだ、そうなんだ。ずっと前から解っていた。この美しい婚約者に捕らわれたのはアテーシアの方。幼い恋心だと思ったのに、大切に大切に胸の奥に仕舞って温め続けた恋心が、到頭とうとうたがが外れて溢れてしまう。

「捕まってしまったわ。」

ぽつりと漏らしたアテーシアの言葉に、美しい婚約者はにっと目を細めて笑みを浮かべた。怖いと思ったのは本能の警告か。



アテーシアを抱き上げたアンドリューは、すたすた歩き出して、それからソファーにアテーシアを下ろした。そうして、どっかり隣に座り、固まるアテーシアを真横から覗き込んだ。

「さあ、何から君に話そうか。うっかり屋さんな君からは、既に今朝のうちに大凡の事を聞いているが、残念ながら抗議したい点がいくつかある。」

ちんまり小さくなって俯きながら、アテーシアは脳内を猛スピードで回転させた。
私、何を喋ったかしら。
朝、ミカエルに色々話したのは憶えている。その殆どがアンドリューには聞かせられない話しであった。聞かせられない事を本人に聞かせてしまった。

「先ずは一つずつ擦り合わせて行こうか。
一つ。君は、生涯誰にも嫁がず独り身を通すらしいが残念ながらそれは無い。君との婚約は固く結ばれた約束だ。覆る事など無いんだよ。」

「二つ。私が君との会合を持たなかったのには理由がある。私自身の問題でもあるが、きっかけは君の言葉だ。六年前、初めて君に会った時、何が好きかを私は問うた。見合いで定番の質問だ。君はそれに何と答えたか憶えているかな?ほう、どうやら解らない様だね。全くもって冷たい女性ひとだね。アテーシア、君はね、強い人が好きだと言ったんだよ。自分よりも強い人と。私がどれほど絶望を感じたか解ってくれるだろうか。当時の君は私より強かった。剣豪親子に鍛えられて、剣の腕なら私よりも数段上だった。だから、私はすっかり意気消沈して、強くなるまで君に会えないのだと、幼い心にそう思った。それでも母がお膳立てしてくれるから、初めばかりは君と会えた。会えば会うほど強さを増す君に呆然自失となったのは、私の不徳の致すところだ。だから、君との会合を反故にするのに「剣の稽古」は、私なりに真っ当な理由であったが、それは私の意気地が足りないからであったと猛省している。」

「さて、三つめは抗議だな。私がどれほど傷付いたかを聞いてもらって良いだろうか。」

一つ二つと進み、三つめを提示されてアテーシアは恐ろしくなった。一体幾つあるんだ。そんなに愚痴っていただろうか。
アンドリューの追求が果てしなく続くような予感を憶えて、背中に冷たい汗が流れた。
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