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【55】
それは、つい先日訪問していた西の辺境伯領で起きた、とある事件についての顛末であった。
アンドリューは、並ぶ禁書の中から一冊の書物を抜き出した。そうしてアテーシアの手を握り、奥に見えるテーブルへと歩き出した。
禁書棚の奥には、座して閲覧出来るように小さなテーブルとソファーが設えられていた。アンドリューがテーブルの上にランプを置けば忽ち当たりが仄明るくなり、明かりはランプの灯火で届く範囲を遥かに超えていた。よく見れば、テーブルの上にはコイン程の大きさの水晶があり、それがランプの灯りを吸収したうえで数倍の明るさとなって辺りに反射させているようだった。
「この水晶についても禁書に記されている。そうしてこの水晶は、あの湖の中にも備えられているんだよ。」
「それは、あの洞窟?」
「ああ。あの洞窟の入り口に、道標として括られている。」
アテーシアはその燦めきを、溺れる水中で確かに見た。この世とあの世の狭間にある様な湖で、溺れかけて確かに生と死の狭間にいたアテーシアに、女神は日射しを受けて燦く一瞬を見せてくれたのだろうか。
「西の辺境伯には、女神の伝説とは別に『聖女伝説』があるのは知っているね。我が国は政教分離を原則として信仰の自由を認めている。その発端となった事件が西の辺境伯領で起こった。」
アンドリューはそう言って、棚から持ち出した書物を開き、目当てのページを直ぐに開いた。幾度も読んで大凡のページが解るらしかった。
「現辺境伯当主から数代前に遡る。公国から大公令嬢が我が国に密入国した。そこが国境を護る西の辺境伯領であった。」
アテーシアは、テーブルに置かれた書物をそっと引き寄せ、アンドリューが開いたページに視線を落とす。
そこには、まるで物語か御伽噺の様な、過去に確かに起こった一連の出来事が克明に記されていた。
王国には記録を担う「記す者」と言う存在がある。それは建国の頃よりラングレイ伯爵家が担っており、この書物にある事件の記録は、記録者が当時のラングレイ伯爵家の人間であるのが巻末に記載されている記録者名からも解った。
彼等一族は、今も王城と王国各地にいて日々王国の記録を記し残している。
時の公国、大公には庶子がおり、それは女児であった。母親によく似た美しい面立ちの彼女に政略からの婚姻が持ち上がったのが事の始りであった。
それは冒険活劇とも切ない恋の物語とも思われた。記録者は自身の感情を一切入れずに只管事実を記している。なのに、聖女と彼女に関わった子女らの姿が瑞々しい青春の欠片となって、今、目の前に実在する姿となって現れるようであった。
「あの洞窟が、全ての始りで全ての終りだったのね。」
「私はこの事件に惹きつけられた。過去に私の血筋である時の国王夫妻を蟄居させた事件であったのを差し引いても、少年だった私の心を掴み離さなかった。何度も何度も繰り返しこの記録を読んだ。読めば読むほど真実がどうであったのか知りたいと思ったし、その発端となったあの湖を、あの洞窟を、どうしてもこの目で確かめたいと思った。」
「それで辺境伯領へ?」
「ああ。去年の夏、あの洞窟へ潜った。潜った先の出口の川底に、最早岩石と見紛う鎖の塊を見付けて、それから川を遡上し国境の河と交わるのを確かめた。そうしてもう一度川に潜ってあの洞窟を通り抜け湖へと戻って来た。聖女の行動を自分自身で実証した。そんな私の行動も、どこかで記す者が書き記しているのだろうな。」
「貴方ったら...。その為に泳ぎを閣下から習ったの?」
「そうだよ。記述のあった当時、辺境伯騎士等はあの洞窟を通り抜けて再び戻って来る事で騎士と認められていた。既に廃れてしまった儀式だが、それでもあの洞窟へ潜る騎士は今でもいるんだよ。辺境伯騎士とは、猛者の集団であるからね。ただ、面白い事が一つある。ほらここ。」
そう言ってアンドリューが指さした箇所を読んでみて、アテーシアは「まあ」と驚きの声を漏らした。
「面白いだろう?辺境伯家には子息が四人いた。一人は洞窟から公国へ渡り聖女の護衛となった。ここに記された細君とは、三番目の子息の妻だよ。彼女は金槌だった。水深3cm以上は夫が細君を抱き上げて歩いたと記されている。そうして彼女もあの湖に落水している。ああ、大丈夫だ、彼女は直ぐに引き上げられて、三男と無事に婚姻している。子を幾人も産み育てているよ。現辺境伯は二人の直系であるし王都に持つタウンハウスには、夫妻の子孫が今も住まっている。」
まだ途中までしか読んでいないアテーシアに、アンドリューはその先のストーリーをまるっと打ち明けてしまった。それって推理小説ファンには許し難い事である。アテーシアは恋愛小説派であったが、それでも先回りして種明かしをされたのには、くそぅと汚い言葉を胸の中で呟いた。
「それで、それで、洞窟の中とはどんな処だったので?」
落水して溺れたと言う三男の細君とは、同じ時代にいたならお友達になれそうだと思った。3cmを「水深」と表記させた程に彼女は夫に愛されていたのだろう。3cmって、いや3cmとは侮れない。アテーシアも3cmあれば溺れられる自信がある。
「真っ暗闇だよ。狭い洞窟だが落ち着いて泳ぎ進めば出口へ繋がる。そう解っているのに、まるで底無しの奈落の底に迷い込んだ、そんな恐怖を確かに感じた。だが、それも最初だけだった。鎖が導いてくれたからね。洞窟には今も朽ちることなく鎖が通されていた。それを通したのは聖女の護衛となった次男だ。三男の騎士試験の為に鎖を掛け替えた豪胆だ。
洞窟の中は確かに真っ暗闇ではあったけれど、彼の勇気と弟や恋人を想う魂の輝きが暗闇を照らしているように思えた。」
アンドリューはそこで洞窟を通った事を思い出していた様で、
「暗闇はもう暗闇には感じなかった。」
図書室の仄暗い空間を見つめながら、そう呟いた。
アンドリューは、並ぶ禁書の中から一冊の書物を抜き出した。そうしてアテーシアの手を握り、奥に見えるテーブルへと歩き出した。
禁書棚の奥には、座して閲覧出来るように小さなテーブルとソファーが設えられていた。アンドリューがテーブルの上にランプを置けば忽ち当たりが仄明るくなり、明かりはランプの灯火で届く範囲を遥かに超えていた。よく見れば、テーブルの上にはコイン程の大きさの水晶があり、それがランプの灯りを吸収したうえで数倍の明るさとなって辺りに反射させているようだった。
「この水晶についても禁書に記されている。そうしてこの水晶は、あの湖の中にも備えられているんだよ。」
「それは、あの洞窟?」
「ああ。あの洞窟の入り口に、道標として括られている。」
アテーシアはその燦めきを、溺れる水中で確かに見た。この世とあの世の狭間にある様な湖で、溺れかけて確かに生と死の狭間にいたアテーシアに、女神は日射しを受けて燦く一瞬を見せてくれたのだろうか。
「西の辺境伯には、女神の伝説とは別に『聖女伝説』があるのは知っているね。我が国は政教分離を原則として信仰の自由を認めている。その発端となった事件が西の辺境伯領で起こった。」
アンドリューはそう言って、棚から持ち出した書物を開き、目当てのページを直ぐに開いた。幾度も読んで大凡のページが解るらしかった。
「現辺境伯当主から数代前に遡る。公国から大公令嬢が我が国に密入国した。そこが国境を護る西の辺境伯領であった。」
アテーシアは、テーブルに置かれた書物をそっと引き寄せ、アンドリューが開いたページに視線を落とす。
そこには、まるで物語か御伽噺の様な、過去に確かに起こった一連の出来事が克明に記されていた。
王国には記録を担う「記す者」と言う存在がある。それは建国の頃よりラングレイ伯爵家が担っており、この書物にある事件の記録は、記録者が当時のラングレイ伯爵家の人間であるのが巻末に記載されている記録者名からも解った。
彼等一族は、今も王城と王国各地にいて日々王国の記録を記し残している。
時の公国、大公には庶子がおり、それは女児であった。母親によく似た美しい面立ちの彼女に政略からの婚姻が持ち上がったのが事の始りであった。
それは冒険活劇とも切ない恋の物語とも思われた。記録者は自身の感情を一切入れずに只管事実を記している。なのに、聖女と彼女に関わった子女らの姿が瑞々しい青春の欠片となって、今、目の前に実在する姿となって現れるようであった。
「あの洞窟が、全ての始りで全ての終りだったのね。」
「私はこの事件に惹きつけられた。過去に私の血筋である時の国王夫妻を蟄居させた事件であったのを差し引いても、少年だった私の心を掴み離さなかった。何度も何度も繰り返しこの記録を読んだ。読めば読むほど真実がどうであったのか知りたいと思ったし、その発端となったあの湖を、あの洞窟を、どうしてもこの目で確かめたいと思った。」
「それで辺境伯領へ?」
「ああ。去年の夏、あの洞窟へ潜った。潜った先の出口の川底に、最早岩石と見紛う鎖の塊を見付けて、それから川を遡上し国境の河と交わるのを確かめた。そうしてもう一度川に潜ってあの洞窟を通り抜け湖へと戻って来た。聖女の行動を自分自身で実証した。そんな私の行動も、どこかで記す者が書き記しているのだろうな。」
「貴方ったら...。その為に泳ぎを閣下から習ったの?」
「そうだよ。記述のあった当時、辺境伯騎士等はあの洞窟を通り抜けて再び戻って来る事で騎士と認められていた。既に廃れてしまった儀式だが、それでもあの洞窟へ潜る騎士は今でもいるんだよ。辺境伯騎士とは、猛者の集団であるからね。ただ、面白い事が一つある。ほらここ。」
そう言ってアンドリューが指さした箇所を読んでみて、アテーシアは「まあ」と驚きの声を漏らした。
「面白いだろう?辺境伯家には子息が四人いた。一人は洞窟から公国へ渡り聖女の護衛となった。ここに記された細君とは、三番目の子息の妻だよ。彼女は金槌だった。水深3cm以上は夫が細君を抱き上げて歩いたと記されている。そうして彼女もあの湖に落水している。ああ、大丈夫だ、彼女は直ぐに引き上げられて、三男と無事に婚姻している。子を幾人も産み育てているよ。現辺境伯は二人の直系であるし王都に持つタウンハウスには、夫妻の子孫が今も住まっている。」
まだ途中までしか読んでいないアテーシアに、アンドリューはその先のストーリーをまるっと打ち明けてしまった。それって推理小説ファンには許し難い事である。アテーシアは恋愛小説派であったが、それでも先回りして種明かしをされたのには、くそぅと汚い言葉を胸の中で呟いた。
「それで、それで、洞窟の中とはどんな処だったので?」
落水して溺れたと言う三男の細君とは、同じ時代にいたならお友達になれそうだと思った。3cmを「水深」と表記させた程に彼女は夫に愛されていたのだろう。3cmって、いや3cmとは侮れない。アテーシアも3cmあれば溺れられる自信がある。
「真っ暗闇だよ。狭い洞窟だが落ち着いて泳ぎ進めば出口へ繋がる。そう解っているのに、まるで底無しの奈落の底に迷い込んだ、そんな恐怖を確かに感じた。だが、それも最初だけだった。鎖が導いてくれたからね。洞窟には今も朽ちることなく鎖が通されていた。それを通したのは聖女の護衛となった次男だ。三男の騎士試験の為に鎖を掛け替えた豪胆だ。
洞窟の中は確かに真っ暗闇ではあったけれど、彼の勇気と弟や恋人を想う魂の輝きが暗闇を照らしているように思えた。」
アンドリューはそこで洞窟を通った事を思い出していた様で、
「暗闇はもう暗闇には感じなかった。」
図書室の仄暗い空間を見つめながら、そう呟いた。
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