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捕食されると云うのは、これほどに恐ろしい事なのか。
目の前に立つ黒い影にクリスティナは震え上がった。
誰かも解らず襲われて、命の危険を感じたあの夏の夕暮れ。
あれこそ正に「食われる恐怖」であった。
それなのに、今自分を襲う恐れに手が震えるのを止められない。
初めて襲われたあの夏の日と、同じ男だと云うのに。
「楽しい夜を過ごしたか。クリスティナ。」
ローレンが一歩前に出る。
クリスティナが一歩下がる。
「酒を楽しんだと見える。匂うな。」
ローレンがまた一歩進み、クリスティナが一歩下がろうとして出来なかった。
ローレンの歩みは一瞬で、その一瞬のうちに手首を掴まれた。
「酒気を帯びた呼気を撒き散らして、真逆、それで王女殿下の御前に侍るつもりか。」
ぎりりと掴まれた手首が痛い。
「クリスティナ。」
名を呼ばれると同時に強い力で引き寄せられる。
クリスティナは、ローレンの胸にぶつかる勢いで引き寄せられて、そのまま囚われた。
ローレンのもう片方の手がクリスティナの顎を掴み上げる。無理矢理に上を向かされて、クリスティナは固く目を瞑った。
「私を見るんだ、クリスティナ。」
灯りの無い部屋にいて、互いの表情も見えない中で、クリスティナは尚も固く瞼を閉ざす。
ローレンの唇が紙一枚の距離しか離れていないのが、耳朶に響く声と唇に触れる吐息で解る。
そのまま唇が押し付けられて、ねっとりと喰む口付けにクリスティナは背中に冷水が伝う様な寒気を覚えた。その寒気が恐れから来るものだと漸く解った。
ローレンから怒りが伝わる。ビリビリと痺れる様にクリスティナの身体を伝播して行く。
息もつかせない追い詰める口付けは、もうそれだけで全身を暴かれて辱めを受けている様に感じられた。
掴まれたまま痛む腕が解放されると、ローレンの空いた手でクリスティナの衣服が剥ぎ取られて行く。
裂かれている。力ずくで無理矢理引き千切るものだから、身体が持っていかれるも、ローレンの身体がそれすら抑え込んで、あっという間に剥かれてしまった。
衣服に擦れた肌があちこち痛む。
唇が漸く解放されてクリスティナは噎せた。ケホケホと咳をするクリスティナを見下ろしてローレンは、
「誰と会っていた。」
底冷えする声で追求する。
クリスティナが王城での勤めを終えて外出する事など滅多に無い。そうして今日は、新しく仕立てたロング丈のワンピースを着ていた。
薄く化粧を施して紅を塗り、引っ詰めの髪を解いて緩く降ろしていた。
クリスティナはめかし込んでいた。
今日初めて袖を通したワンピースは、既に原型を無くしている。
口付けられた時に項を掴まれて、整えていた髪も乱された。
今は乱暴に投げ出された寝台で、覆い被さられて身体を暴かれている。
訳の解らぬ責め苦に苛まれている。
「良い身分だな。男に会った次の朝には、王族の前に何も無かった顔で現れる。」
「とんだ阿婆擦れだ。」
「楽しんだか、クリスティナ。楽しませてもらったのか、クリスティナ。」
拷問の様に揺さぶられ責められる。
後ろから伸し掛かられて、耳元に囁かれる。
「主人が呼ぶのを守れずに、他所へ逃げる雌犬にはどんな躾をしたら良い?」
囁きは唸り声であった。
「ご、ごめんなさい。」
「誰に謝っている。」
「貴方に、」
「何故。」
「よ、呼び出しを、無視したから、」
「へえ、お前は私を無視したのか。」
「ごめんなさい。」
「誰に会った。」
「兄に、」
「兄と会って強かに酔うのか?」
「あ、兄と、親戚と、」
「ウイスキーを呑んだな。」
「うっ、」
キツい揺さぶりに責められ声が詰まる。
「クローム領か。」
「...」
「答えろ、クリスティナ。」
「は、はい、」
散々責められ揺さぶられて、息を吐くのがやっとなのを構うこと無く詰問されて、クリスティナはぐったりとうつ伏せのまま身動きひとつ出来ない。
汚された身体を拭う事すら叶わずに、汗と涙で汚れた顔をシーツに押し当てた。
涙が止まらない。声を殺しているのに肩が震えて、嗚咽を堪える内に呼吸すらままならなくなった。
固く瞼を閉じた真っ暗闇の中で、もう何が悲しいのか自分でも解らなくなっていた。
ローレンが帰ったのかどうかも、それすらどうでも良くなった。
そうして、とうとう小さく嗚咽を漏らして泣き始めた。
「泣くな」
とっくに帰ったと思った男の声が聴こえた。耳の直ぐ側で。
この男は、自分が責め抜いた女が声を堪えて涙を耐えるのを、横でずっと眺めていたらしい。
言葉で口で手で、あらゆる手段で責められて、クリスティナに尊厳などひと粒も残っていない。
あの温かな笑いに包まれた時間は、自分とは最も遠い世界の出来事なのだと思えた。
ほんの数刻前の出来事は、御伽噺の中の幸福で、クリスティナの手の平からするりと零れ落ちてゆく。
ああ、幸せが零れて行く。
「泣くな、クリスティナ。」
返事を返さないクリスティナを尚も責める言葉には、先程までの荒ぶる温度を失って、幼子をあやすような響きさえ感じられた。
汗に塗れたクリスティナの背を、まだ熱を帯びた掌が滑り、それが上がって下がって、
どうやらローレンは、感情を昂らせたクリスティナを落ち着かせようと背中を擦っているらしい。
落ち着きたくないのに、この爆発しそうな感情をそのまま投げ付けてしまいたいのに、擦る掌があまりに優し過ぎて、クリスティナの涙も嗚咽もとうとう堰を切ってしまった。
幼子の様に声を漏らして泣くクリスティナ。
暫くそうして泣いている内に、クリスティナは深い眠りに陥った。
目覚めた時には、どろどろに汚された身体も涙で化粧の溶けた顔も全て綺麗に拭われて、身体には毛布が掛けられていた。
裂かれた服は、僅かな糸屑が落ちているだけで、あとは何も残っていなかった。
朝日が差し込む寝台には、クリスティナただ独りが横たわっていた。
目の前に立つ黒い影にクリスティナは震え上がった。
誰かも解らず襲われて、命の危険を感じたあの夏の夕暮れ。
あれこそ正に「食われる恐怖」であった。
それなのに、今自分を襲う恐れに手が震えるのを止められない。
初めて襲われたあの夏の日と、同じ男だと云うのに。
「楽しい夜を過ごしたか。クリスティナ。」
ローレンが一歩前に出る。
クリスティナが一歩下がる。
「酒を楽しんだと見える。匂うな。」
ローレンがまた一歩進み、クリスティナが一歩下がろうとして出来なかった。
ローレンの歩みは一瞬で、その一瞬のうちに手首を掴まれた。
「酒気を帯びた呼気を撒き散らして、真逆、それで王女殿下の御前に侍るつもりか。」
ぎりりと掴まれた手首が痛い。
「クリスティナ。」
名を呼ばれると同時に強い力で引き寄せられる。
クリスティナは、ローレンの胸にぶつかる勢いで引き寄せられて、そのまま囚われた。
ローレンのもう片方の手がクリスティナの顎を掴み上げる。無理矢理に上を向かされて、クリスティナは固く目を瞑った。
「私を見るんだ、クリスティナ。」
灯りの無い部屋にいて、互いの表情も見えない中で、クリスティナは尚も固く瞼を閉ざす。
ローレンの唇が紙一枚の距離しか離れていないのが、耳朶に響く声と唇に触れる吐息で解る。
そのまま唇が押し付けられて、ねっとりと喰む口付けにクリスティナは背中に冷水が伝う様な寒気を覚えた。その寒気が恐れから来るものだと漸く解った。
ローレンから怒りが伝わる。ビリビリと痺れる様にクリスティナの身体を伝播して行く。
息もつかせない追い詰める口付けは、もうそれだけで全身を暴かれて辱めを受けている様に感じられた。
掴まれたまま痛む腕が解放されると、ローレンの空いた手でクリスティナの衣服が剥ぎ取られて行く。
裂かれている。力ずくで無理矢理引き千切るものだから、身体が持っていかれるも、ローレンの身体がそれすら抑え込んで、あっという間に剥かれてしまった。
衣服に擦れた肌があちこち痛む。
唇が漸く解放されてクリスティナは噎せた。ケホケホと咳をするクリスティナを見下ろしてローレンは、
「誰と会っていた。」
底冷えする声で追求する。
クリスティナが王城での勤めを終えて外出する事など滅多に無い。そうして今日は、新しく仕立てたロング丈のワンピースを着ていた。
薄く化粧を施して紅を塗り、引っ詰めの髪を解いて緩く降ろしていた。
クリスティナはめかし込んでいた。
今日初めて袖を通したワンピースは、既に原型を無くしている。
口付けられた時に項を掴まれて、整えていた髪も乱された。
今は乱暴に投げ出された寝台で、覆い被さられて身体を暴かれている。
訳の解らぬ責め苦に苛まれている。
「良い身分だな。男に会った次の朝には、王族の前に何も無かった顔で現れる。」
「とんだ阿婆擦れだ。」
「楽しんだか、クリスティナ。楽しませてもらったのか、クリスティナ。」
拷問の様に揺さぶられ責められる。
後ろから伸し掛かられて、耳元に囁かれる。
「主人が呼ぶのを守れずに、他所へ逃げる雌犬にはどんな躾をしたら良い?」
囁きは唸り声であった。
「ご、ごめんなさい。」
「誰に謝っている。」
「貴方に、」
「何故。」
「よ、呼び出しを、無視したから、」
「へえ、お前は私を無視したのか。」
「ごめんなさい。」
「誰に会った。」
「兄に、」
「兄と会って強かに酔うのか?」
「あ、兄と、親戚と、」
「ウイスキーを呑んだな。」
「うっ、」
キツい揺さぶりに責められ声が詰まる。
「クローム領か。」
「...」
「答えろ、クリスティナ。」
「は、はい、」
散々責められ揺さぶられて、息を吐くのがやっとなのを構うこと無く詰問されて、クリスティナはぐったりとうつ伏せのまま身動きひとつ出来ない。
汚された身体を拭う事すら叶わずに、汗と涙で汚れた顔をシーツに押し当てた。
涙が止まらない。声を殺しているのに肩が震えて、嗚咽を堪える内に呼吸すらままならなくなった。
固く瞼を閉じた真っ暗闇の中で、もう何が悲しいのか自分でも解らなくなっていた。
ローレンが帰ったのかどうかも、それすらどうでも良くなった。
そうして、とうとう小さく嗚咽を漏らして泣き始めた。
「泣くな」
とっくに帰ったと思った男の声が聴こえた。耳の直ぐ側で。
この男は、自分が責め抜いた女が声を堪えて涙を耐えるのを、横でずっと眺めていたらしい。
言葉で口で手で、あらゆる手段で責められて、クリスティナに尊厳などひと粒も残っていない。
あの温かな笑いに包まれた時間は、自分とは最も遠い世界の出来事なのだと思えた。
ほんの数刻前の出来事は、御伽噺の中の幸福で、クリスティナの手の平からするりと零れ落ちてゆく。
ああ、幸せが零れて行く。
「泣くな、クリスティナ。」
返事を返さないクリスティナを尚も責める言葉には、先程までの荒ぶる温度を失って、幼子をあやすような響きさえ感じられた。
汗に塗れたクリスティナの背を、まだ熱を帯びた掌が滑り、それが上がって下がって、
どうやらローレンは、感情を昂らせたクリスティナを落ち着かせようと背中を擦っているらしい。
落ち着きたくないのに、この爆発しそうな感情をそのまま投げ付けてしまいたいのに、擦る掌があまりに優し過ぎて、クリスティナの涙も嗚咽もとうとう堰を切ってしまった。
幼子の様に声を漏らして泣くクリスティナ。
暫くそうして泣いている内に、クリスティナは深い眠りに陥った。
目覚めた時には、どろどろに汚された身体も涙で化粧の溶けた顔も全て綺麗に拭われて、身体には毛布が掛けられていた。
裂かれた服は、僅かな糸屑が落ちているだけで、あとは何も残っていなかった。
朝日が差し込む寝台には、クリスティナただ独りが横たわっていた。
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