雨とマルコポーロ――恋が香る夜に

tommynya

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第1話 雨とマルコポーロ

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 雨の日になると、なぜこんなにも切ない気持ちになるんだろう。

 駅前のベンチに座り、濡れたスーツのポケットから折り畳んだ紙を取り出す。文字は雨に滲んでいるけれど、内容ははっきりと覚えていた。

『長谷川 凪 様
 厳正な選考の結果、今回は見送らせて
 いただくことになりました』

 もう数えるのも馬鹿らしくなってくる。

 スーツの肩に雨粒が次々と落ちてきて、じわじわと冷たさが肌に浸透していく。周りの人たちは皆、傘を差して足早に通り過ぎていくのに、俺はただ一人、ベンチに座り続けている。

 街の喧騒が遠ざかっていく。世界の終わりが訪れる1分前のような絶望感に包まれる。

「もう十社目か……」

 声に出すと、より一層情けなくなる。同じゼミの連中はもうとっくに内定をもらって、卒業旅行の計画を立てているのに、俺は一人、毎日のように企業回りを続けている。頑張ってきたつもりなのに、一体何のために四年間勉強してきたんだろう。

 実家からは「まだ決まらないの?」と母の心配そうなメールが頻繁に届く。心理学を専攻したのは、人の心を理解して、カウンセリングの仕事に就きたいからだ。しかし、現実は甘くなかった。

 心理学を学んでいるにも関わらず、今は自分の心すら理解できない。なぜこんなにも不採用通知が続くのか、なぜ面接で上手く話せないのか、なぜ雨の日になると理由もなく涙が出そうになるのか。

「平凡に生きてきた自分には、何もないんだな」

 履歴書に書ける特技も資格も、人に誇れる経験も武器も、何もない。だから雨に打たれていた。傘を差す気力もなくて、ただ立ち尽くすしかない。

 冷たい雨粒が頬を伝い、顎の先から滴り落ちる。通行人たちには、泣いているように見えるだろう。実際、心の中では泣いているようなものだった。プライドだけが邪魔をして、誰にも助けを求められない。

「濡れてる人を見ると、紅茶を飲ませたくなるんだ」

 頭上に、突然黒い影が差した。見上げると、大きな傘が頭上に広がっている。傘の向こうから、見知らぬ青年が見下ろしていた。

「え?」

 その青年は、まるでフランス映画の登場人物のような端正な顔立ちをしている。長い睫毛に縁取られた色素の薄い瞳は涼しげで、どこか陰のある美しさを湛えている。

 雨に濡れた自分とは対照的に、彼の服装は洗練されている。白シャツにギャルソンエプロンの制服姿。完璧に整っていて、別世界の住人のように見えた。

「なんで……見知らぬ人に」

「知らない人だから、かな」

 彼は微かに唇の端を上げた。その笑みは、優しさというよりも、何か別の感情を含んでいるようだった。

「このまま雨に濡れてても、風邪引くだけだよ」

 滑らかな声で、どこか響きが美しく、耳に心地よい。

「今日、フランスから紅茶が届いたから、一緒にテイスティングしてくれない?」

 彼は返事を待たずに、そう言った。まるで心の中を読んでいるかのような確信に満ちた口調だった。

「でも……」

「名前も知らない人に、ついて行くなんて危険だって言いたい?」

 図星だった。ぎくっとして、彼の顔を見上げる。

「安心して。人を襲うような趣味はないから」

 そう言って、彼は華やかな笑みを浮かべた。その笑顔が、警戒心をほどかせていく。不思議な人だ。初対面なのに、どこか妙な説得力がある。

 立ち上がると、濡れたスーツの重みが、じわじわと肩にのしかかる。

「どこですか?」

「すぐそこの、あのお店」

 彼は隣に立ち、傘を二人の頭上に広げた。俺より身長が高いせいで、傘からの水滴がこちらに落ちそうだったが、自然に肩へ手を添え、歩調を合わせてくれる。そのおかげで、濡れずにすんだ。

「ありがとうございます」

「礼なんていらないよ。俺の趣味なので」

「趣味?」

「雨に濡れた人を見つけるのが」

 また意味不明なことを言っている。でも、嫌な感じはしない。むしろ、この人の言葉には説明できないような魅力がある。

「あ、そうそう」

 歩きながら、彼が振り返った。

「名前は、聞いても忘れると思うから。今日は聞かないね。また来たときにでも」

「また来るって……」

「来るでしょ?」

 断言された。なぜそんなに確信しているのか分からないが、なぜか反論できない。

「じゃあ……あなたの名前も聞きません」

「了解」

 短い会話だったが、妙に印象に残った。名前を聞かずに、知らないままでいる。それもまた、不思議な関係性の始まりのような気がした。

 ◇

 裏通りに入ると、雨音が少し小さくなった。古い建物が立ち並ぶ静かな通りで、まるで時間が止まったような雰囲気。隠れ家のような佇まいで、通りすがりの人も少ない。こんな場所に本当にお店があるのだろうかと疑問に思った。

「ここ」

 彼が指さしたのは、重厚な木製のドアだった。小さな看板に「Salon de Thé―Minuitサロン・ド・テ ミニュイ」と書かれている。

「サロン・ド・テ?」

「そう。フランス語でティーサロン、喫茶店のこと。『Minuitミニュイ』というお店だよ。『Minuit』は真夜中という意味で」

 彼はドアを開けて、先に中へと促した。小さなベルが、涼やかな音を響かせる。

 店内は薄暗く、間接照明が温かい光を投げかけている。壁には古い洋書が並んでいて、どこか書斎のような雰囲気だった。フランス語の曲が静かに流れている。

「すごい……」

 思わず呟く。こんな場所が、大学の近くにあったなんて知らなかった。

「タオル、使って」

 彼は慣れた手つきで奥から清潔なタオルを持ってきてくれる。それを受け取って、濡れた髪と顔を拭く。

「ありがとうございます」

「紅茶、何が好き?」

「えっと……よく分からないです」

 正直に答える。コーヒーは飲むが、紅茶にはあまり詳しくない。

「じゃあ、俺が選ぶ」

 彼は奥のカウンターに向かって、いくつかの濃紺の紅茶缶を手に取った。その所作が、まるで儀式のように美しい。長い指先が缶を開けて、中の茶葉を確かめている。

「これにしよう」

 彼が選んだのは、「MARCO POLOマルコ ポーロ」と書かれた缶だった。

「マルコポーロ?」

「花と果実、バニラのブレンド。これ人気なんだよ」

 彼はお湯をティーポットに入れ、しばらくするとお湯を捨て、茶葉を入れてまたお湯をポットに注ぎ、蓋をする。立ち上る湯気から、異国的な香りが漂ってくる。紅茶の入れ方を知らなかったから、興味深かった。

「この紅茶は、朝飲めば前を向けて、夜飲めば少しだけ泣ける味なんだ」

「……は?」

 思わず素っ頓狂な声が出た。詩人気取りか。

「意味分かりません」

「分からなくていいよ」

 彼は微笑んで、カップに紅茶を注いだ。ルビー色の液体が美しく光っている。

「はい」

 カップを受け取って、香りを嗅いでみる。確かに、今まで嗅いだことのない異国情緒溢れる香りだった。花のような甘さと、果実のような酸味、そしてバニラの温かみが混ざっている。

「飲んでみて」

 促されて、一口飲んだ。最初は少し苦味があったが、すぐに甘さが追いかけてきた。そして、説明できない味わいが口の中に広がっていく。

「なんだこの味……」

「複雑でしょ?」

「複雑っていうか……」

 言葉にできなかった。でも、嫌な感じはしない。むしろ、体の芯から温まって、ほぐれていくような気がした。さっきまで張り詰めていた緊張が、少しずつ解けていく。

「美味しいです」

「良かった。マリアージュ・フレールでもこれ多分一番人気」

 彼は向かいに座って、自分もカップを手に取る。

「初めてです。マリアージュ・フレール?」

「君って、雨の残り香がするね」

「雨の残り香?」

「紅茶で上書きしたくなった」

 また意味不明なことを言っている。でも、心に響いてしまった。

「よく分からないけど……なんか、落ち着きます」

「それは良かった」

「あの……」

 躊躇してから、口を開く。

「なんで……そんなに優しいんですか」

「優しさじゃないよ。たぶん、香りで人を覚えてるだけ」

「香りですか……?」

「君の匂い……なんか懐かしい」

「意味は分からないけど、なんか伝わります」

「分からなくていい。わかっちゃったら、詩にならないから」

 柔らかな表情を俺に向けてくれる。

「恋も、説明しちゃうと台無しでしょ?」

「え?」

 恋?なぜそんな話になるんだ。

「あ、別に君のことじゃないよ」

 慌てて訂正されたが、なぜか胸の奥がざわめいた。
 窓を雨粒が叩いている。さっきまで憂鬱だった雨音が、今は心地よく聞こえた。

「なんか……不思議な気分です」

「不思議?」

「さっきまで、すごく落ち込んでたのに」

「失恋?」

「違います。就活です」

「ああ、大学生か」

 彼は納得したような表情を浮かべた。

「うまくいかないことの方が多いよ、人生って」

「慣れてるんですか?そういうの」

「そうでもないよ。ただ、紅茶を飲んでると、少しだけ客観視できるんだ」

「客観視?」

「自分の感情を、少し離れたところから見る感じ」

 なるほど、と思った。確かに、この紅茶を飲んでいると、さっきまでの絶望感が少し薄れている。

「今日は、何社目?」

「十社目です」

「そっか」

 彼は何も言わずに、カップに紅茶を注ぎ足してくれた。

「でも、十社受けるって、すごいことだよ」

「全部落ちてるのに?」

「全部挑戦したってことでしょ?」

「……そうですけど」

「俺だったら、三社で諦めてるかも」

「そんなことないでしょ」

「なんで?」

「だって……」

 言いかけて、止まった。だって何だろう。この人は、なんとなく何でもうまくやれそうに見える。初対面の俺ともしっかり話が出来るし、落ち着てて、相手を不安にさせない、大人で素敵なおにいさん……こんな人になれたらな……なんて憧れる。まあ無理なんだけど。

「だって?」

「なんでもないです」

「そっか」

 彼は追及しない。その配慮が、なぜか嬉しかった。

「君、自分のこと低く見積もりすぎてない?」

 図星だった。いつも、自分のことを過小評価している。

「そうかもしれません」

「君が思ってるほど、君は悪くないし、意外と魅力的だよ」

「え?」

「雨に濡れた時の表情とか」

「それ、惨めだっただけです」

「惨めな表情も、人を惹きつけることがあるんだよ」

「よく分からないです」

「分からなくていい」

 またそれか。この人は、よく「分からなくていい」と言う。

「でも、君が思ってるほど、君はダメじゃない」

「なんで分かるんですか」

「香りで分かる」

「また香りですか」

「そう、香りで」

 彼は真剣な表情で言う。冗談を言っているようには見えない。

「君の香りは、雨の匂いと混じって、少し切ない匂いがしてた」

「切ない匂い?」

「努力してる人の匂い」

「……」

「頑張ってる人って、独特の空気感があるんだ」

「そんなの、あり得ないでしょ」

「あり得るよ。俺には分かる」

 断言された。なぜか、この人の言葉は信じたくなる。底知れない強さを感じる。

「だから、君は大丈夫」

「大丈夫って……」

「きっと、いい会社に受かるよ」

「根拠ないでしょ」

「根拠は必要ない」

「必要でしょ、普通」

「普通って何?」

「えっと……」

「君は普通じゃないよ、いい意味で」

 俺は何故か納得して黙り込んだ。いい意味で普通じゃないなんて初めてだ。この言葉、悪くないなと思ってしまう。

 雨音が少し小さくなってきた。時計を見ると、もう11時を過ぎていた。

「あ、遅くなっちゃった」

「終電大丈夫?」

「はい、でも……」

「でも?」

「また、来てもいいですか?」

 自分でも驚いた。なぜそんなことを聞いたんだろう。

「もちろん」

 彼は迷わず答える。

「名前は、次来た時に教えて」

「……そうですね」

「忘れないで」

 席を立ち、財布を取り出す。

「いくらですか?」

「今日はいいよ」

「でも……」

「雨に濡れた人へのサービス」

「そんなサービス、ないでしょ」

「俺が勝手に作ったサービス」

 結局、お金は払わせてもらえなかった。

「ありがとうございました」

「また来てね」

 重いドアを開ける。外はまだ雨が降っていたが、さっきほどひどくはない。

「あ」

 振り返ると、彼が窓越しに見送っていた。手を軽く上げて、笑顔を向けてくれる。
 
 こちらも手を上げて、応えた。

 ◇

 駅までの道を歩いていると、口の中にまだマルコポーロの香りが残っているのを感じた。複雑で、甘くて、どこか切ない味。

「名前も知らないのに……」

 ふいに声を漏らす。

「また、会いたいな……」

 自分の気持ちに驚く。今日会ったばっかりのあの人のこと、もっと知りたいと思ってしまっている。俺の周りではいないタイプなのは間違いない。

「あの人、何者なんだろう」

 雨の中を歩きながら、考える。あの落ち着いた雰囲気、詩的な物言い、紅茶を淹れる手慣れた所作。どれも、別世界の人間のようだった。

「でも、優しかったな」

 本当に優しい人だ。見知らぬ人に傘を差し出して、温かい場所に連れて行ってくれて、美味しい紅茶を飲ませてくれた。

 駅に着く頃には、雨は上がりそうだ。電車の中で、今夜の出来事を反芻する。

 彼の美しい顔、色素の薄い吸い込まれそうな瞳、優しい声、繊細な仕草。どれも鮮明に記憶に残っている。特に、マルコポーロを淹れている時の真剣な顔が印象的だった。

「また行こう」

 心に決める。今度は、雨の日じゃなくてもいい。あの人ともう一度話してみたい。

「名前、次は聞いてもいいのかな?」

 よく考えると、ロマンチックな約束だった。映画でしか見たことがない会話。でも、それもまた興味深い。名前を知らないまま、関係を築いていく。

「面白い人だな」

 くすっと思い出し笑いをする。今日は十社目の不採用通知をもらって、絶望的な気分だったのに、今は前向きな気持ちになっている。

「マルコポーロ、か」

 あの複雑な味わいを思い出す。最初は分からなかったが、だんだん美味しく感じるようになった。

「朝飲めば前を向けて、夜飲めば少しだけ泣ける味」

 これは詩的な表現だ。でも、確かに少し切ない気持ちになっていた。
 窓に映る自分の顔を見ると、さっきまでの惨めな表情は消えて、少し穏やかになっている。

「明日も、就活頑張ろうかな」

「きっと、いい会社に受かるよ」という言葉を思い出す。根拠なんてないけれど、なぜか信じたくなる。

 彼の顔が脳裏に浮かぶ。俺を見つめる時の、少し寂しそうな瞳の奥に隠れた何か。それが何なのか、知りたくなってしまった。

 雨は完全に止み、空には三日月がぼんやりと姿を現す。奇跡のような夜が静かに更けていった。
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