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第10話 夕焼けの羊と焼き魚
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夕暮れの風が吹き抜け、村の丘の上から遠くの牧草地が赤く染まっていく。
アレンは鍬を片手に、ゆっくりとその光景を見つめていた。
最近では毎朝のように畑を耕し、日没とともに丘へ上がって空を見るのが日課になっている。
王都にいた頃には決して感じられなかった、穏やかな時間だ。
「ねぇ、アレンさん。今日はこっちの方が風が気持ちいいですよ!」
ミーナが羊の群れを連れて駆けてくる。頬はほんのり赤く、手には小さな籠を抱えていた。
「おや、それは?」
「新しい草です。この子たちが好きなやつなんですって。おじいさんが教えてくれました。」
ミーナが草を撒くと、羊たちが一斉に集まり、嬉しそうに鳴き声を上げた。
アレンはその光景を見て、自然と頬を緩める。
「平和、ですね。」
「そうですね。……あ、そうだアレンさん!」
「はい?」
「今日の夕飯、うちで一緒にどうですか? お魚が取れたんですよ。川のやつ。」
「魚、ですか。いいですね。最近はパンばかりでしたし。」
ミーナの家は村の端にある小さな木の家だ。
彼女の祖母は、数日前にアレンに救われた老婆――メイ婆さん。
すっかり元気を取り戻し、今では毎日台所に立っているという。
◇
夕方。
家の扉を開けると、香ばしい匂いが部屋中に満ちていた。
囲炉裏の上では魚が串に刺され、じゅっと音を立てている。煙の中に混じる塩の香りが懐かしい。
「ほう、これがこの村の魚ですか。」
「“アズマ川魚”って呼ばれてるらしいですよ。めったに取れないけど、今日は運が良かったんです。」
メイ婆さんが笑顔で口を挟む。
「アレンさん、いつもミーナが世話になってね。ゆっくりしていきなさいな。」
「こちらこそ、いつも温かくしていただいて。」
アレンは腰を下ろし、炙られた魚の表面がぱりぱりと割れていくのを見つめた。
無意識に魔力を使えば一瞬で焼けることはわかっている。だが、こうして時間をかけて火を感じるのは心地よかった。
「王都でもこんな風に食べてたんですか?」
ミーナの問いに、アレンは少し考えて答えた。
「王都では……食事というより“儀式”に近かったですね。銀の皿、指定の香草、整った時間。誰も“味”を楽しんでいませんでした。」
「それ、なんか寂しいですね。」
「ええ。今の方がよほど贅沢ですよ。」
炙り終えた魚が皿に並ぶ。
アレンは箸を取り、そっと身をほぐした。
一口食べた瞬間、舌に塩の香りが広がり、焼いた皮の香ばしさが追いかける。
素材の味。調味料などほとんど使っていないのに、芯のある甘みを感じた。
「……美味しい。」
思わず漏れた言葉に、ミーナとメイ婆さんが同時に笑った。
「よかった! 塩の加減、心配だったんですよ。」
「いえ、完璧です。王都の“料理人”が学びに来るべき味ですね。」
和やかな時間が流れる。
だが、そんな穏やかな夜にも、影は忍び寄っていた。
◇
食事を終えた頃、外がざわつき始めた。
「火事か!?」「いや、狼だ!」
慌ただしい声にアレンは眉をひそめた。
立ち上がって戸を開けると、村の入り口付近から煙が上がっている。
「アレンさん!」
ミーナが慌てて外に出ようとするのを、アレンが止めた。
「外に出ては危険です。家の中に――」
言い終わる前に、家の屋根をかすめて赤黒い影が飛び越えた。
狼、いや違う。目が赤く光り、口からは紫の煙が漏れている。
「……瘴気獣ですか。」
アレンの表情が一瞬で引き締まった。
村人たちが慌てて桶を運び、水を撒いているが、状況は悪い。
瘴気獣は火と毒を好み、村の灯に寄って集まる。普通の武器では通じない。
「ミーナさん、婆さんと一緒に奥の部屋へ。」
「で、でも!」
「戦いません。ただ、追い返すだけです。」
アレンは外套を翻し、外へ出た。
冷たい夜風に袖がはためく。
右手を掲げて、周囲の空気を感じ取った。
異様な魔力の波長――数体の瘴気獣が広場に集まりつつある。
「……人払い、と。」
低く呟く。
風が逆巻き、次の瞬間、村人たちの背後に透明な壁が生まれた。
誰も気づかぬほど自然な魔力の層が、炎と毒を遮断する。
瘴気獣が唸り声を上げる。牙が光る。
一体が飛びかかるのを見届け、アレンは手をかざした。
「もう休みなさい。」
音もなく、空間が静止した。
月光の下、瘴気獣たちは動きを止め、そのまま淡い光に包まれて消えていく。
炎も煙も、跡形もなく。
ただ冷たい風だけが、夜の空気を撫でた。
村人たちが息を呑む。
「な、今のは……?」
「火が、消えた……?」
アレンは振り返り、微笑んだ。
「大丈夫です。もう安全ですから。」
顔は穏やかだったが、その背に漂う気配は確かな“異質”だった。
誰も近づけない静謐さ――神域の気配。
◇
騒動のあと、ミーナが涙目で駆け寄る。
「アレンさん! 本当に……すごいけど、怖かったです。」
「怖がらせましたね。すみません。あれでは少々やりすぎました。」
「やりすぎって……あんなの誰もできないですよ!」
メイ婆さんが杖をつきながらやってきた。
「アレンさん、あんた……いったい何者なんだい。」
「ただの治癒師ですよ。」
淡々と答えるアレンに、ミーナは頬を膨らませる。
「ぜったいウソです!」
その笑い声に、アレンは思わず吹き出した。
「信じるか信じないかは、明日の朝まで預けておきますか。」
そう言って立ち上がり、夜空を見上げた。
星々が瞬き、風が穏やかに流れる。
倒れた羊の一頭が鳴いた。近寄ると、足に小さな傷があった。
アレンは膝をついて優しく撫で、掌を光らせた。
「……よく頑張りましたね。」
光が消え、羊は立ち上がり、群れへ戻っていった。
アレンは目を細めながら呟く。
「この力さえ、誰かを傷つけないために使えるなら……それでいい。」
◇
夜明け前。
王都の監視塔では、観測士が慌てて鐘を鳴らしていた。
「報告! 北方辺境にて高位神聖反応、確認!」
「座標は?」
「ルーデン村付近です!」
「またか……異常値を更新している!」
その報告を、早朝の執務室で聞いたレオニール王子が低く笑った。
「ふん、やはり奴だ。奇跡を起こすたびに、自ら首を締めるとはな。」
窓の外では夜明けの光が差し込む。
一羽の白い鳥が飛び立ち、北の空へ向かっていった。
その翼には、密命を記した封筒が結ばれていた。
――次に動くのは、王国ではなく“神殿”だ。
アレンが焼き魚を味わい、羊を撫でたその夜。
世界は静かに、再び彼を中心に揺れ始めていた。
アレンは鍬を片手に、ゆっくりとその光景を見つめていた。
最近では毎朝のように畑を耕し、日没とともに丘へ上がって空を見るのが日課になっている。
王都にいた頃には決して感じられなかった、穏やかな時間だ。
「ねぇ、アレンさん。今日はこっちの方が風が気持ちいいですよ!」
ミーナが羊の群れを連れて駆けてくる。頬はほんのり赤く、手には小さな籠を抱えていた。
「おや、それは?」
「新しい草です。この子たちが好きなやつなんですって。おじいさんが教えてくれました。」
ミーナが草を撒くと、羊たちが一斉に集まり、嬉しそうに鳴き声を上げた。
アレンはその光景を見て、自然と頬を緩める。
「平和、ですね。」
「そうですね。……あ、そうだアレンさん!」
「はい?」
「今日の夕飯、うちで一緒にどうですか? お魚が取れたんですよ。川のやつ。」
「魚、ですか。いいですね。最近はパンばかりでしたし。」
ミーナの家は村の端にある小さな木の家だ。
彼女の祖母は、数日前にアレンに救われた老婆――メイ婆さん。
すっかり元気を取り戻し、今では毎日台所に立っているという。
◇
夕方。
家の扉を開けると、香ばしい匂いが部屋中に満ちていた。
囲炉裏の上では魚が串に刺され、じゅっと音を立てている。煙の中に混じる塩の香りが懐かしい。
「ほう、これがこの村の魚ですか。」
「“アズマ川魚”って呼ばれてるらしいですよ。めったに取れないけど、今日は運が良かったんです。」
メイ婆さんが笑顔で口を挟む。
「アレンさん、いつもミーナが世話になってね。ゆっくりしていきなさいな。」
「こちらこそ、いつも温かくしていただいて。」
アレンは腰を下ろし、炙られた魚の表面がぱりぱりと割れていくのを見つめた。
無意識に魔力を使えば一瞬で焼けることはわかっている。だが、こうして時間をかけて火を感じるのは心地よかった。
「王都でもこんな風に食べてたんですか?」
ミーナの問いに、アレンは少し考えて答えた。
「王都では……食事というより“儀式”に近かったですね。銀の皿、指定の香草、整った時間。誰も“味”を楽しんでいませんでした。」
「それ、なんか寂しいですね。」
「ええ。今の方がよほど贅沢ですよ。」
炙り終えた魚が皿に並ぶ。
アレンは箸を取り、そっと身をほぐした。
一口食べた瞬間、舌に塩の香りが広がり、焼いた皮の香ばしさが追いかける。
素材の味。調味料などほとんど使っていないのに、芯のある甘みを感じた。
「……美味しい。」
思わず漏れた言葉に、ミーナとメイ婆さんが同時に笑った。
「よかった! 塩の加減、心配だったんですよ。」
「いえ、完璧です。王都の“料理人”が学びに来るべき味ですね。」
和やかな時間が流れる。
だが、そんな穏やかな夜にも、影は忍び寄っていた。
◇
食事を終えた頃、外がざわつき始めた。
「火事か!?」「いや、狼だ!」
慌ただしい声にアレンは眉をひそめた。
立ち上がって戸を開けると、村の入り口付近から煙が上がっている。
「アレンさん!」
ミーナが慌てて外に出ようとするのを、アレンが止めた。
「外に出ては危険です。家の中に――」
言い終わる前に、家の屋根をかすめて赤黒い影が飛び越えた。
狼、いや違う。目が赤く光り、口からは紫の煙が漏れている。
「……瘴気獣ですか。」
アレンの表情が一瞬で引き締まった。
村人たちが慌てて桶を運び、水を撒いているが、状況は悪い。
瘴気獣は火と毒を好み、村の灯に寄って集まる。普通の武器では通じない。
「ミーナさん、婆さんと一緒に奥の部屋へ。」
「で、でも!」
「戦いません。ただ、追い返すだけです。」
アレンは外套を翻し、外へ出た。
冷たい夜風に袖がはためく。
右手を掲げて、周囲の空気を感じ取った。
異様な魔力の波長――数体の瘴気獣が広場に集まりつつある。
「……人払い、と。」
低く呟く。
風が逆巻き、次の瞬間、村人たちの背後に透明な壁が生まれた。
誰も気づかぬほど自然な魔力の層が、炎と毒を遮断する。
瘴気獣が唸り声を上げる。牙が光る。
一体が飛びかかるのを見届け、アレンは手をかざした。
「もう休みなさい。」
音もなく、空間が静止した。
月光の下、瘴気獣たちは動きを止め、そのまま淡い光に包まれて消えていく。
炎も煙も、跡形もなく。
ただ冷たい風だけが、夜の空気を撫でた。
村人たちが息を呑む。
「な、今のは……?」
「火が、消えた……?」
アレンは振り返り、微笑んだ。
「大丈夫です。もう安全ですから。」
顔は穏やかだったが、その背に漂う気配は確かな“異質”だった。
誰も近づけない静謐さ――神域の気配。
◇
騒動のあと、ミーナが涙目で駆け寄る。
「アレンさん! 本当に……すごいけど、怖かったです。」
「怖がらせましたね。すみません。あれでは少々やりすぎました。」
「やりすぎって……あんなの誰もできないですよ!」
メイ婆さんが杖をつきながらやってきた。
「アレンさん、あんた……いったい何者なんだい。」
「ただの治癒師ですよ。」
淡々と答えるアレンに、ミーナは頬を膨らませる。
「ぜったいウソです!」
その笑い声に、アレンは思わず吹き出した。
「信じるか信じないかは、明日の朝まで預けておきますか。」
そう言って立ち上がり、夜空を見上げた。
星々が瞬き、風が穏やかに流れる。
倒れた羊の一頭が鳴いた。近寄ると、足に小さな傷があった。
アレンは膝をついて優しく撫で、掌を光らせた。
「……よく頑張りましたね。」
光が消え、羊は立ち上がり、群れへ戻っていった。
アレンは目を細めながら呟く。
「この力さえ、誰かを傷つけないために使えるなら……それでいい。」
◇
夜明け前。
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「報告! 北方辺境にて高位神聖反応、確認!」
「座標は?」
「ルーデン村付近です!」
「またか……異常値を更新している!」
その報告を、早朝の執務室で聞いたレオニール王子が低く笑った。
「ふん、やはり奴だ。奇跡を起こすたびに、自ら首を締めるとはな。」
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