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第25話 神殿からの影
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夜明け前、村の上空に一筋の青白い光が走った。
それはあまりに静かに、あまりに鋭く空気を裂いて落ちていったため、誰もすぐにはそれに気づかなかった。
風を運ぶ音もなく、ただ世界の一部分だけが切り取られる――そんな異様な現象。
その中心にいたのは、ルーデン村の外れで目を閉じるアレンだった。
危険な気配は感じていた。昨夜から地脈が細く震えているのを知っていたから。
この感覚は、王都神殿が魔力送信儀式――“監視の矢”を放つ際に生じるものだ。
神の視線を借り、指定座標の“存在”を観測する高位魔法。
彼らはすでに村の位置を完全に把握している。
「……やはり動きましたね、ハイゼル。」
空を見上げながら、アレンは薄く笑った。
追われるのは慣れている。けれど今回は、ただの査問ではない。“観察と処断”の儀式の始まりだ。
その背後で、足音がした。
「アレンさん?」
まだ夜も明けない時分に、リィナが小走りで近づいてきた。外套のフードを深くかぶってはいるが、眠気よりも不安が色濃い。
「どうして外に……寒いですよ」
「少し、空を見ていたくて。」
「変な光、見えました。あれは……」
「あれは目ですね。神殿が僕たちを見るための。」
リィナは息を呑んだ。
「見張られてる、ってことですか?」
「ええ。これで本格的に“客人”が来るでしょう。」
その言葉どおり、朝日が昇る頃には、村の南端に奇妙な隊列が現れた。
十人ほどの隊商、白銀の装甲を纏った者たちが馬を引いて並んでいる。
空には転移陣の痕跡が漂い、地面にはまだ生々しい魔力の残滓。
教会直属の執行隊――“神殿からの影”。
村人たちはざわつき、子どもたちは母親の影に隠れた。
アレンは落ち着いた足取りで前に出る。
腰の杖を軽く支えながら、その先頭にいる男を見た。
金髪を後ろで束ね、銀色の仮面を付けた騎士。
声をかけずともわかる。
「――ハイゼル。」
仮面の下で、男は静かに笑った。
「予想以上に静かだな、アレン。抵抗でもするかと思っていた。」
「抵抗?いえ、出迎えくらいはきちんとしますよ。昔の師ですから。」
「皮肉を言う余裕があるなら話が早い。君には正式な聖庁の召喚命令が届いているはずだ。」
「ええ、届いています。ですが、村を離れるつもりはありません。」
その言葉に、背後の兵たちがざわめいた。
「拒否、か。」ハイゼルの声が冷たく落ちた。
「君が再構築者としてどこまで踏み込んだか。我々はもう一度確かめたい。」
「“確かめる”とは、つまり、力を奪うということですか?」
「力は本来、神のものだ。人間の手にそれを宿す資格などない。君が使うのは“借物”だ。」
アレンは短く息を吐いた。
「十年前と同じ言葉ですね。あの時もそう言って、何人も焼いた。」
「彼らは己の罪を望んだ。君とは違う。」
「違いませんよ。僕も彼らと同じ、“生きたい”と願っただけの人間だ。」
張り詰めた空気が、風に散った砂を止める。
ハイゼルが一歩踏み出すと、護衛たちは同時に武具を構えた。だがアレンは動かない。微笑みだけを残した。
「ここで誰かが血を流せば、それこそ神の怒りを買うでしょう。村に生きる人々は、何も悪くありません。」
ハイゼルは無言のまま視線を上げ、周囲を見渡す。
神殿兵の一人が短く報告を口にした。
「閣下、地脈の反応は安定しています。神核波形も消失しました。」
「ふむ……つまり、“制御下”にあるということか。」
その視線が再びアレンに戻る。
「なるほど。君がこの村を疑似神域に作り変えた、という報告は正しかったようだ。」
「違います。村が僕を変えたんです。」
「詩人め。」ハイゼルが低く笑う。
「だが、あの“選ばれし者”がいる限り、この均衡は崩れる。――彼女を引き渡せ。」
背後のリィナが息を呑む音が聞こえた。
アレンの声は静かだが、底に鋭い響きを宿していた。
「拒否します。」
「その選択が、君の終わりを意味してもか?」
「あなたが決めることではない。」
ハイゼルの眉が一瞬だけ動いた。
「昔の君なら、もう少し従順だった。」
「昔のあなたなら、もう少し優しかったはずですよ。」
二人の間に沈黙が流れ、次の瞬間、周囲の空気が凍り付いた。
ハイゼルが右手を掲げる。
空間に浮かび上がったのは、金色の多層陣。
その中心には“封印球”――魔力を吸収し、相殺する神具が展開されている。
「アレン。君の力がどれほどのものか、我々に示してもらおう。」
「言われなくても構いませんが。」
アレンはゆっくりと杖を持ち上げた。
地面に描かれる光の軌跡が王都式の逆行配列とは違う形を描く。
それは竜の夢で見た、古き呼吸を模した円環。
瞬間、轟音が鳴り響いた。
地が裂け、風が渦巻き、村の空気が震える。
見えない壁が二人の間に立ちはだかり、金と青の光がぶつかり合った。
兵士たちが後退し、村人たちは息を潜める。
ハイゼルが歯を食いしばりながら呟く。
「……まさか、“竜の理”まで再現しているとはな。」
アレンは杖を地に突き、光を押し返した。
「見てきたものを模倣して何が悪いです。神々が最初にしたことも、“模すこと”だったでしょう。」
「傲慢だ!」
「それを教えたのは、あなたです。」
空に光が走り、衝撃波が夜明けの空を貫いた。
そして、一瞬後――両者の魔法が弾け、風だけを残して消えた。
沈黙の中、ハイゼルはゆっくりと手を下ろす。
仮面の奥で表情は見えないが、声はわずかに震えていた。
「君は、やはり人をやめている。」
アレンは苦笑した。
「逆です。僕は今、ようやく“人”に戻った。」
ハイゼルは背を向け、兵に命じた。
「本日中は撤収する。再調査を待つ。」
そして歩きだし際に、低く囁いた。
「だが、次は君の“証人”を連れてくる。君が最も信じた者を。」
アレンの目が細く光った。
彼にはその言葉の意味が痛いほど理解できた。
――王都に残したかつての仲間たちを、駒として使うつもりだ。
◇
その日の夕刻、村は再び静けさを取り戻していた。
だがアレンの心は静まらなかった。
リィナとミーナが焚き火を囲み、お茶を淹れている横で、彼は一人、丘の上に立っていた。
赤く沈む太陽の光が、辺境の地を金色に染める。
風の匂いが変わり、遠くの地脈が淡く輝く。
「……戦いは避けられませんね。」
アレンは小さく呟き、眼を閉じた。
その掌の中で、竜の印が青く脈うつ。
静寂の中、彼の耳に微かな声が響く。
(アレン……まだ終わりじゃないよ。)
リュシアの声だった。
この世界の奥で、何かが目を覚まそうとしている。
アレンはゆっくりと目を開け、夜明けと逆方向――沈みゆく太陽へと視線を向けた。
神殿が迫り、世界が動き、そして人が試される。
「選ばれた者が光なら、僕はその影でいい。」
風が彼の衣を撫で、最後の陽光が彼の背を照らした。
夜が再び訪れる。
しかしその夜は、もう穏やかなものではない――世界が次の扉を開こうとしていた。
それはあまりに静かに、あまりに鋭く空気を裂いて落ちていったため、誰もすぐにはそれに気づかなかった。
風を運ぶ音もなく、ただ世界の一部分だけが切り取られる――そんな異様な現象。
その中心にいたのは、ルーデン村の外れで目を閉じるアレンだった。
危険な気配は感じていた。昨夜から地脈が細く震えているのを知っていたから。
この感覚は、王都神殿が魔力送信儀式――“監視の矢”を放つ際に生じるものだ。
神の視線を借り、指定座標の“存在”を観測する高位魔法。
彼らはすでに村の位置を完全に把握している。
「……やはり動きましたね、ハイゼル。」
空を見上げながら、アレンは薄く笑った。
追われるのは慣れている。けれど今回は、ただの査問ではない。“観察と処断”の儀式の始まりだ。
その背後で、足音がした。
「アレンさん?」
まだ夜も明けない時分に、リィナが小走りで近づいてきた。外套のフードを深くかぶってはいるが、眠気よりも不安が色濃い。
「どうして外に……寒いですよ」
「少し、空を見ていたくて。」
「変な光、見えました。あれは……」
「あれは目ですね。神殿が僕たちを見るための。」
リィナは息を呑んだ。
「見張られてる、ってことですか?」
「ええ。これで本格的に“客人”が来るでしょう。」
その言葉どおり、朝日が昇る頃には、村の南端に奇妙な隊列が現れた。
十人ほどの隊商、白銀の装甲を纏った者たちが馬を引いて並んでいる。
空には転移陣の痕跡が漂い、地面にはまだ生々しい魔力の残滓。
教会直属の執行隊――“神殿からの影”。
村人たちはざわつき、子どもたちは母親の影に隠れた。
アレンは落ち着いた足取りで前に出る。
腰の杖を軽く支えながら、その先頭にいる男を見た。
金髪を後ろで束ね、銀色の仮面を付けた騎士。
声をかけずともわかる。
「――ハイゼル。」
仮面の下で、男は静かに笑った。
「予想以上に静かだな、アレン。抵抗でもするかと思っていた。」
「抵抗?いえ、出迎えくらいはきちんとしますよ。昔の師ですから。」
「皮肉を言う余裕があるなら話が早い。君には正式な聖庁の召喚命令が届いているはずだ。」
「ええ、届いています。ですが、村を離れるつもりはありません。」
その言葉に、背後の兵たちがざわめいた。
「拒否、か。」ハイゼルの声が冷たく落ちた。
「君が再構築者としてどこまで踏み込んだか。我々はもう一度確かめたい。」
「“確かめる”とは、つまり、力を奪うということですか?」
「力は本来、神のものだ。人間の手にそれを宿す資格などない。君が使うのは“借物”だ。」
アレンは短く息を吐いた。
「十年前と同じ言葉ですね。あの時もそう言って、何人も焼いた。」
「彼らは己の罪を望んだ。君とは違う。」
「違いませんよ。僕も彼らと同じ、“生きたい”と願っただけの人間だ。」
張り詰めた空気が、風に散った砂を止める。
ハイゼルが一歩踏み出すと、護衛たちは同時に武具を構えた。だがアレンは動かない。微笑みだけを残した。
「ここで誰かが血を流せば、それこそ神の怒りを買うでしょう。村に生きる人々は、何も悪くありません。」
ハイゼルは無言のまま視線を上げ、周囲を見渡す。
神殿兵の一人が短く報告を口にした。
「閣下、地脈の反応は安定しています。神核波形も消失しました。」
「ふむ……つまり、“制御下”にあるということか。」
その視線が再びアレンに戻る。
「なるほど。君がこの村を疑似神域に作り変えた、という報告は正しかったようだ。」
「違います。村が僕を変えたんです。」
「詩人め。」ハイゼルが低く笑う。
「だが、あの“選ばれし者”がいる限り、この均衡は崩れる。――彼女を引き渡せ。」
背後のリィナが息を呑む音が聞こえた。
アレンの声は静かだが、底に鋭い響きを宿していた。
「拒否します。」
「その選択が、君の終わりを意味してもか?」
「あなたが決めることではない。」
ハイゼルの眉が一瞬だけ動いた。
「昔の君なら、もう少し従順だった。」
「昔のあなたなら、もう少し優しかったはずですよ。」
二人の間に沈黙が流れ、次の瞬間、周囲の空気が凍り付いた。
ハイゼルが右手を掲げる。
空間に浮かび上がったのは、金色の多層陣。
その中心には“封印球”――魔力を吸収し、相殺する神具が展開されている。
「アレン。君の力がどれほどのものか、我々に示してもらおう。」
「言われなくても構いませんが。」
アレンはゆっくりと杖を持ち上げた。
地面に描かれる光の軌跡が王都式の逆行配列とは違う形を描く。
それは竜の夢で見た、古き呼吸を模した円環。
瞬間、轟音が鳴り響いた。
地が裂け、風が渦巻き、村の空気が震える。
見えない壁が二人の間に立ちはだかり、金と青の光がぶつかり合った。
兵士たちが後退し、村人たちは息を潜める。
ハイゼルが歯を食いしばりながら呟く。
「……まさか、“竜の理”まで再現しているとはな。」
アレンは杖を地に突き、光を押し返した。
「見てきたものを模倣して何が悪いです。神々が最初にしたことも、“模すこと”だったでしょう。」
「傲慢だ!」
「それを教えたのは、あなたです。」
空に光が走り、衝撃波が夜明けの空を貫いた。
そして、一瞬後――両者の魔法が弾け、風だけを残して消えた。
沈黙の中、ハイゼルはゆっくりと手を下ろす。
仮面の奥で表情は見えないが、声はわずかに震えていた。
「君は、やはり人をやめている。」
アレンは苦笑した。
「逆です。僕は今、ようやく“人”に戻った。」
ハイゼルは背を向け、兵に命じた。
「本日中は撤収する。再調査を待つ。」
そして歩きだし際に、低く囁いた。
「だが、次は君の“証人”を連れてくる。君が最も信じた者を。」
アレンの目が細く光った。
彼にはその言葉の意味が痛いほど理解できた。
――王都に残したかつての仲間たちを、駒として使うつもりだ。
◇
その日の夕刻、村は再び静けさを取り戻していた。
だがアレンの心は静まらなかった。
リィナとミーナが焚き火を囲み、お茶を淹れている横で、彼は一人、丘の上に立っていた。
赤く沈む太陽の光が、辺境の地を金色に染める。
風の匂いが変わり、遠くの地脈が淡く輝く。
「……戦いは避けられませんね。」
アレンは小さく呟き、眼を閉じた。
その掌の中で、竜の印が青く脈うつ。
静寂の中、彼の耳に微かな声が響く。
(アレン……まだ終わりじゃないよ。)
リュシアの声だった。
この世界の奥で、何かが目を覚まそうとしている。
アレンはゆっくりと目を開け、夜明けと逆方向――沈みゆく太陽へと視線を向けた。
神殿が迫り、世界が動き、そして人が試される。
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