3 / 4
第3話 闇の森への試練
しおりを挟む
朝もやが塔を包み込んでいた。橘悠真は窓辺に立ち、東の森の方角を見つめていた。昨日見た紫の光の跡はないが、不気味な静けさがかえって不安を掻き立てる。胸の奥で、あの歪んだ糸の感覚がかすかに疼いていた。まるで傷がうずくように。
シャドウが足元で鳴き声を上げた。琥珀色の目は鋭く森を見据えているようだ。
「おはよう、シャドウ。今日も頑張ろうか」
黒猫はすり寄ってきて、悠真の足に体をこすりつけた。その温もりが少しばかり安心感を与えてくれる。
ドアをノックする音がして、レイラが入ってきた。彼女の表情は昨日よりも厳しく、目元に疲れの影が浮かんでいる。
「悠真、急いで。マーリン師匠が緊急の召集をかけたわ。東の森の状況がさらに悪化したらしい」
「悪化?」
「今朝方、森の近くの村から使者が来たの。夜中に奇妙な影が徘徊し、家畜が狂い死にしたって報告があった」レイラの声は低く緊迫している。「結界の亀裂から闇の気が漏れ出し、周囲に影響を与え始めているのよ。このままでは村人にも危険が及ぶ」
悠真は急いで身支度を整えた。訓練服のようなものを着ると、レイラについて廊下へ出た。螺旋階段を下りる足取りは早く、二人はほとんど駆け下りるように食堂へ向かった。
マーリンはすでに待ち構えており、机の上には地図が広げられていた。その周りにはいくつかの道具が並べられている。水晶の小瓶、古びた巻物、金属製のコンパスのようなもの。
「来たか、悠真」マーリンは顔を上げずに地図を見つめていた。「状況はレイラから聞いたかね?」
「はい。村に被害が出始めたと」
「そうだ」マーリンは地図の一点を指差した。「ここが東の森の結界の中心だ。そしてここに裂け目がある。昨日の時点で直径十メートルほどだったが、一夜で倍以上に広がったようだ」
「そんなに急速に?」
「闇の侵食は加速度的に進行する」マーリンの声には焦りが滲んでいた。「最初はゆっくりでも、一度臨界点を超えると一気に広がる。私たちが持っている時間はあと三日、いや二日かもしれない」
レイラが息を呑んだ。「そんなに?」
「残念ながらそうだ」マーリンはようやく顔を上げ、二人を見つめた。「だから今日、私たちは森へ向かう。悠真、君に最初の実戦試験だ」
「実戦試験?」悠真の喉が渇いた。
「君の力を実際の裂け目に試す」マーリンの目は真剣そのものだ。「小さなほつれを修復できるなら、大きな裂け目にも挑戦できるはず。もちろん完全に閉じるのは無理だろう。だが、拡大を遅らせ、周囲への影響を減らすことなら可能かもしれない」
「でも師匠、危険すぎませんか?」レイラが割り込んだ。「悠真はまだ訓練を始めたばかりです。昨日ようやく糸が見えるようになっただけ……」
「わかっている」マーリンは優しくも厳しい口調で言った。「しかし、村人の命と引き換えに訓練期間を延ばすわけにはいかない。レイラ、君が悠真を護る。私は結界の補強を試みる。分業だ」
老人は机の上の道具を手に取り、それぞれに分配し始めた。
「悠真、これはフォーカス・ストーンだ」マーリンは透明な水晶のペンダントを渡した。「魔力を集中させるときに使う。君の力を増幅し、コントロールしやすくしてくれるはずだ」
悠真はペンダントを受け取ると、首にかけた。水晶は微かに温かく、胸元で静かに鼓動しているようだった。
「レイラ、君には防御用のアーティファクトだ」今度は銀の腕輪を渡した。「緊急時にバリアを展開できる。一度だけだが、強い衝撃から守ってくれる」
「ありがとう、師匠」レイラは腕輪をはめた。
「では準備はいいか?」マーリンは杖を手に取った。「すぐに発つ。馬車ではなく、転送魔法を使おう。時間が惜しい」
三人は塔の玄関ホールへ移動した。マーリンは杖を振り、空中に複雑な模様を描き始める。光の線が交差し、幾何学模様を形成していく。やがてそれが門の形になり、向こう側に森の風景が映し出された。
「これが転送門だ」マーリンが説明した。「一瞬で目的地へ移動できる。だが、魔力を大量に消費するので頻繁には使えない。さあ、入るのだ」
マーリンが先頭に立ち、門をくぐった。レイラが悠真にうなずき、彼女も続く。悠真は一呼吸置いてから、シャドウを抱きしめ、光の門へ足を踏み入れた。
一瞬、体が引き伸ばされるような感覚があった。目がくらみ、耳が詰まる。しかし、それはほんの一瞬で、次の瞬間には別の場所に立っていた。
東の森の入口だ。しかし、昨日とはまったく様子が違っていた。木々の葉は色を失い、灰のように褪せている。地面は乾ききり、ひび割れが走っている。空気は重く、腐敗したような甘ったるい臭いが漂っている。
「こ、これは……」
「闇の侵食がここまで進んでいたのか」マーリンの顔色が青ざめた。「予想以上に早い。もう森全体が侵されている」
レイラが短剣を抜き、警戒しながら周囲を見渡した。「精霊の気配が完全に消えています。この森はもう死んでいる」
シャドウが激しく鳴いた。毛を逆立て、前方を睨みつけている。悠真がその視線を追うと、木々の間からゆがんだ影が這い出してくるのが見えた。
闇の落とし子だ。昨日より数が多く、大きさも増している。中には二メートルを超えるような巨大なものも混じっていた。
「来るぞ!」レイラが叫んだ。
マーリンは杖を高く掲げた。「我が光よ、闇を払え!」
杖の先から閃光が放たれ、前方一体を照らし出した。闇の落とし子たちは悲鳴のような声を上げ、光を避けて後退した。しかし、完全には退かない。影の中に潜み、再び這い出してくる機会をうかがっている。
「光魔法で一時的に押しとどめられるが、根本的な解決にはならない」マーリンが言った。「レイラ、君はここで魔物たちを食い止めろ。悠真、私と共に森の奥へ進む。裂け目は中心部にある」
「でも師匠、一人でこんなに多くの敵を……」レイラが不安そうに言った。
「大丈夫だ」マーリンは微笑んだ。「君は我が一番弟子だ。これくらいの敵なら相手になるまい。ただし、無理はするな。危険を感じたらすぐに退却し、合流地点で待て」
レイラはうなずき、短剣を構えた。「わかりました。悠真、師匠をよろしく」
「ああ」悠真は力強くうなずいた。
マーリンは再び杖を振り、二人の周りに微かな光の膜を展開した。「これで気配を消せる。魔物たちには見つかりにくくなるが、完全な invisibility ではない。静かに、急いで進もう」
二人は森の奥へと分け入っていった。マーリンの光の膜に守られて、闇の落とし子たちの目をかいくぐりながら進む。しかし、森の状態はさらに深刻だった。所々で地面が陥没し、黒い煙のようなものが湧き出ている。木々は枯れ、触れると粉々に崩れ落ちそうだ。
「ここまでひどいとは」マーリンが呟いた。「この侵食速度は尋常ではない。何かがこれを加速させているに違いない」
「何かって?」
「闇の源泉だ」マーリンの声は低かった。「普通、闇の侵食は自然に発生するものではない。何らかの原因、あるいは誰かが意図的に引き起こしている可能性がある」
「誰かが?」
「後で説明しよう。今は裂け目に集中だ」
さらに進むと、空気がさらに重くなった。呼吸が苦しく、胸が締め付けられるような感覚がある。そして前方に、異様な光景が広がっていた。
地面に巨大な裂け目が口を開けている。直径は二十メートル以上。その底は深く、暗闇が渦巻いている。裂け目の縁からは黒い煙が絶え間なく湧き出し、空中で不気味な形を成しては消えている。周囲の空間は歪み、景色がゆがんで見える。
「これが……裂け目」悠真は声を詰まらせた。
「そうだ」マーリンの表情は硬い。「そして見てごらん。糸が」
悠真が意識を集中させると、裂け目の周囲に無数の糸が見えてきた。しかし、それらは正常な輝きを失い、黒く濁り、ねじれ切れている。裂け目自体が巨大なほつれ、いや、破れ目だ。世界の織物がここで大きく破れ、闇が染み出している。
「どうすれば……」
「まずは観察だ」マーリンが静かに言った。「糸の流れを追い、破れの構造を理解する。どこが根元で、どこが末端か。どの糸が重要な支えで、どの糸が補助的なものか」
悠真は目を凝らした。最初は混沌としていたが、次第にパターンが見えてきた。裂け目の中心から放射状に糸が伸び、それらが周囲で絡み合っている。中心付近の糸はほとんど切れかかっており、末端の方はまだかすかに繋がっている。
「中心が最もひどい。でも、周辺部ならまだ修復できるかもしれない」
「その通り」マーリンがうなずいた。「全部を一度に直すのは不可能だ。だが、周辺から少しずつ繕っていけば、裂け目の拡大を食い止められるかもしれない。それに、周辺を修復することで中心部への負担を減らせる」
「では、やってみます」
悠真は胸元のフォーカス・ストーンに手を当てた。水晶が温かく鼓動し、彼の魔力を増幅する。深呼吸をして心を落ち着かせる。そして、意識を裂け目の縁にある一本の糸に向けた。
それは細く、かすかに光る銀色の糸だ。しかし、途中で黒く変色し、切れかかっている。悠真は慎重に意識を伸ばし、糸に触れた。
瞬間、鋭い痛みが頭を貫いた。闇の汚れが彼の意識に逆流してくるようだ。苦しみ、悲しみ、絶望――そんな感情が押し寄せてきた。
「集中を保て!」マーリンの声が遠くから聞こえる。「闇の感情に飲み込まれるな。君は修復する者だ。壊す者ではない」
悠真は歯を食いしばり、意識を糸そのものに集中させた。汚れではなく、糸の本質を感じ取ろうとした。銀色の糸は本来、柔らかく温かい光を放つはずだ。その記憶を呼び起こし、糸に伝える。
少しずつ、糸の黒い部分が薄れ始めた。銀色の輝きがよみがえる。切れかかっていた部分が、かすかにつながり始める。
「よし、その調子だ」マーリンが囁いた。「急がず、確実に」
しかし、その時だった。裂け目の底から轟音が上がり、黒い煙が渦巻きながら噴き上がってきた。煙は空中で形を変え、巨大な手のようなものになった。それが悠真めがけて襲いかかる。
「バリア!」マーリンが叫び、杖を振った。
光の壁が出現し、黒い手を遮った。しかし、手は壁を叩き壊そうとする。ひび割れが走り、光の壁が揺らぐ。
「悠真、続けろ!私はこいつを食い止める!」
マーリンは杖から閃光を放ち、黒い手に攻撃を加えた。しかし、手は簡単には退かない。裂け目からさらに闇のエネルギーが供給されているようだ。
悠真は動揺しながらも、修復を続けた。一本目の糸がようやく繋がりかけた。しかし、裂け目全体から見ればほんの一部に過ぎない。こんなペースでは、とても間に合わない。
その時、シャドウが激しく鳴いた。黒猫は悠真の前に立ち、毛を逆立てて裂け目を睨みつけている。そして、その琥珀色の目が突然金色に輝き始めた。
シャドウから光が放たれる。それは柔らかい黄金色の光で、裂け目に注がれると、闇の煙が後退し始めた。黒い手の動きも鈍る。
「シャドウが……闇を浄化している?」マーリンが驚いた声を上げた。
「守護者の力だ」悠真は悟った。「シャドウは僕を守るだけじゃない。闇に対抗する力も持っている」
シャドウの光を受けて、裂け目の周りの糸が活性化し始めた。黒い汚れが落ち、本来の輝きを取り戻す。悠真はこの機を逃さず、さらに二本、三本と糸の修復に取りかかった。
フォーカス・ストーンが熱く輝き、彼の力を増幅する。一本目の糸が完全に繋がった。次に二本目。三本目。少しずつ、裂け目の周辺が修復されていく。
しかし、裂け目の中心からさらに大きなうなり声が上がった。闇が怒っているようだ。黒い煙が何層にも重なり、巨大な顔のようなものを形成し始めた。無数の目がぱっちりと開き、二人一匹を見下ろす。
「これは……闇の意思の顕現だ」マーリンの声に警戒が走る。「悠真、これ以上は危険だ。一旦退却しよう」
「でも、もう少しで……」
「無理だ!」マーリンが叫んだ。「今の君ではあれに対抗できない。修復した糸でさえ、あれが本気を出せば簡単に引き裂かれる!」
その言葉が終わらないうちに、黒い顔から無数の触手が飛び出した。マーリンは素早く杖を操り、光の盾を幾重にも展開する。しかし、触手は盾を次々と貫いていく。
シャドウが金色の光を最大限に放ち、触手を食い止めようとする。だが、数が多すぎる。一本の触手が光をかいくぐり、悠真めがけて伸びてきた。
「悠真、危ない!」
レイラの声がして、銀の閃光が飛来した。短剣が触手を切り裂き、間一髪で悠真を救った。振り向くと、レイラが息を切らしながら駆け寄ってくる。彼女の服にはいくつか裂け目があり、軽い傷を負っている。
「レイラ!どうしてここに?」
「魔物たちを蹴散らして追ってきたの」レイラは短剣を構え、黒い顔を睨みつけた。「一人で師匠と悠真を危険にさらすわけにはいかないでしょ」
「だが来るなら、もっと多くの敵を連れて来るはずだ」マーリンが言った。
「大丈夫、道中でできるだけ倒したから。でも確かに、後から追ってくるものもいるわ」
レイラの言葉通り、森のあちこちから闇の落とし子たちの気配が近づいてくる。前後から敵に挟まれる形だ。
「ここは撤退だ」マーリンが決断した。「今日のところは周辺の修復で満足しなければならない。悠真、君はよくやった。あれだけ修復できたなら、裂け目の拡大は一時的にせよ遅らせられるはずだ」
「でも……」
「命あっての物種だ」マーリンは優しくも厳しく言った。「無謀な死に方は誰のためにもならない。今回はこれで良しとしよう」
老人は杖を大きく振り、三人の周りに光の輪を描いた。「転送魔法を使う。すぐに塔に戻る」
「でも師匠、転送門を開く間、無防備になりますよ」レイラが心配そうに言った。
「それだからこそ、君たちが私を守ってくれ」マーリンは既に呪文を唱え始めていた。
黒い顔がさらに触手を伸ばし、闇の落とし子たちも一斉に襲いかかってきた。レイラは短剣を翻し、飛来する触手を切り落とす。悠真はフォーカス・ストーンに全力を注ぎ、周囲に簡易的なバリアを展開した。シャドウは金色の光を放ち続け、闇の勢力を押しとどめる。
「もう少しだ!」マーリンが叫んだ。
転送門がかすかに光り始めた。しかし、黒い顔が巨大な口を開け、闇の奔流を吐き出そうとしている。
「まずい、あれは……」
その瞬間、レイラが腕輪を掲げた。「バリア、展開!」
銀の腕輪が輝き、三人の周りに半球状の光の盾が現れた。ほぼ同時に、黒い顔から闇の奔流が放たれ、バリアに激突する。衝撃で地面が揺れ、周囲の木々が吹き飛ぶ。
バリアにひびが入り、崩れかける。しかし、それを持ちこたえている間に、転送門が完全に開いた。
「今だ、入れ!」マーリンが叫んだ。
レイラが悠真を押しやり、自分も飛び込んだ。マーリンが最後に入り、転送門が閉じる。闇の奔流が彼らのいた場所を飲み込んだ。
塔の玄関ホールに三人が転がり込むように現れた。転送門が閉じ、静寂が戻った。ただ、荒い息遣いだけが響いている。
「皆、無事か?」マーリンが最初に立ち上がった。
「はい」レイラは起き上がり、傷をチェックした。「軽い擦り傷だけです」
悠真もゆっくりと立ち上がった。シャドウが彼の足元に座り、少し疲れたように見える。
「ああ、無事だ」悠真は胸を撫で下ろした。「でも、ほとんど何もできなかった。あんなに小さな修復だけ……」
「小さな修復ではない」マーリンは厳しく言った。「君は裂け目の周辺を少なくとも五本の糸で修復した。あれだけで、拡大速度は三割は遅くなったはずだ。村人たちにとっては、それが生死を分けるかもしれない」
「そう……ですか」
「そうだ」マーリンは優しい口調に変わった。「そして、君は初めての実戦でよくやった。恐怖に押しつぶされず、自分の役割を果たした。誇るべきことだ」
レイラが近づき、悠真の肩を叩いた。「あなたが修復してる間、裂け目から漏れる闇の気が確かに減ってたわ。周りの空気が少し軽くなったのを感じたもの」
「本当?」
「本当よ」レイラは微笑んだ。「あなたの力は確かに役に立っている。もっと訓練を積めば、きっとあの裂け目を閉じられるようになるわ」
マーリンはうなずき、図書室へ向かうように手招きした。「さあ、記録を取ろう。今日の観察は貴重なデータだ。裂け目の構造、闇の振る舞い、そして君の力の効果。全て分析する必要がある」
図書室で、マーリンは羊皮紙に詳細な記録を書き留め始めた。レイラは傷の手当てをし、悠真は窓辺に座って外を眺めていた。まだ昼下がりだが、疲労がどっと押し寄せている。
「あの黒い顔は何だったんだろう」悠真が呟いた。
「闇の意思、あるいは闇そのものの顕現だ」マーリンが答えながら書き続けた。「裂け目が大きくなるほど、闇はより強い自我を持ち始める。あれが完全な形で現れたら、この地域全体が飲み込まれるだろう」
「誰かが意図的に裂け目を作っている可能性があるって、さっき言ってましたね」
マーリンは筆を止め、深くため息をついた。「長い間、私はこの世界の闇の活動を観察してきた。自然発生するものも多いが、中には人為的に引き起こされたものもある。闇の魔術師、あるいは闇と契約した者が、世界のバランスを崩そうとしている」
「なぜそんなことを?」
「力のため、復讐のため、あるいは単に破壊を楽しむため」マーリンの目が遠くを見つめた。「理由は様々だ。だが、結果は同じ。無辜の人々が苦しみ、世界が傷つく」
レイラが傷に軟膏を塗りながら言った。「師匠は何世紀も、そんな闇の勢力と戦ってきたんです。星見の塔が世界の結節点にあるのも、ここから全ての異変を監視するため」
「そして今、東の森の裂け目は、より大きな計画の一部かもしれない」マーリンは真剣な面持ちで悠真を見た。「君の力が特に重要な理由がここにある。『門』を持つ者は、世界の織物を直接操作できる。つまり、闇が引き起こした歪みを修復できる唯一の存在だ」
「僕が……唯一?」
「この時代では、そうだ」マーリンはうなずいた。「記録によれば、過去に『門』を持つ者は数百年に一人現れるかどうかだ。そして今、それは君だ」
重い沈黙が部屋を覆った。悠真はその重みに押し潰されそうだった。たった昨日まで普通の失業者だった自分が、今や世界の運命に関わる力を持っている。
「怖い」彼は素直に言った。「そんな大きな責任、僕に務まるだろうか」
「それでいい」マーリンは穏やかに言った。「怖さを自覚している者は、軽率な行動を取らない。無謀な勇気より、慎重な決断の方がよほど役に立つときがある」
レイラが手当てを終え、近づいてきた。「私も最初は怖かったわ。エルフの里を出て、たった一人でこの塔に弟子入りしたときは、毎日泣きそうだったもの。でも、師匠が導いてくれた。仲間ができた」
彼女は悠真の目を真っ直ぐ見つめた。
「あなたも一人じゃない。私たちがついている。シャドウも」
そう言われて、悠真は足元の黒猫を見下ろした。シャドウは眠っているように見えたが、耳だけがぴくぴくと動き、彼の声を聞いているようだ。
「ありがとう」悠真は心から言った。「でも、もっと強くならなければ。今日みたいに、逃げるだけじゃダメだ」
「ならば、明日から訓練を強化しよう」マーリンが言った。「今日の経験を基に、より実践的な練習をする。裂け目の修復に特化した訓練だ」
「お願いします」
その夜、悠真は部屋で今日の出来事を思い返していた。裂け目の恐ろしい光景、闇の顔の圧迫感、それでも糸を修復した時の小さな達成感。全てが鮮明に蘇る。
シャドウがベッドに跳び乗り、彼の横に来た。猫は前足で悠真の手を軽く叩き、まるで「よくやった」と言っているようだった。
「ありがとう、シャドウ。君がいなかったら、あの触手にやられてたかもしれない」
猫は満足そうに鳴き、丸くなった。
ドアをノックする音がした。レイラだった。彼女の手にはまたカップが二つ。
「今日は特に疲れたでしょ。カモミールティーを持ってきたわ。安眠に効果があるの」
「いつもありがとう」悠真はカップを受け取った。
レイラは窓辺に腰掛け、外を見つめた。「今日のあなた、本当に頑張ってたわ。初めての実戦で、あんなに集中して修復できるなんて」
「でも、全然足りなかった」
「そんなことない」レイラは振り向いた。「私が初めて魔物と戦った時、恐怖で動けなかったのよ。あなたは少なくとも行動できた。それだけで十分すごいことだと思う」
悠真はティーの温もりを感じながら、彼女の言葉をかみしめた。確かに、昨日までの自分なら、あの状況でまともな思考すらできなかったかもしれない。
「マーリン師匠の言う通り、あなたは『門』を持っている」レイラが続けた。「それは運命かもしれない。でも、その力をどう使うかはあなた次第。今日、あなたは修復を選んだ。村人を救う道を選んだ」
「当たり前のことじゃないか」
「当たり前じゃない人もいるのよ」レイラの声が曇った。「闇の誘惑に負け、自分の力だけで全てを解決しようとする者。あるいは恐怖に負け、力を隠して平凡に暮らそうとする者。あなたは違う。危険を知りながら、それでも進むことを選んだ」
彼女はカップを置き、真剣な表情で悠真を見つめた。
「これからもっと辛いことがあるかもしれない。もっと怖い目にも遭う。でも、あなたが今日示した勇気を忘れないで。それがあなたの真の力だから」
そう言うと、レイラは立ち上がった。「では、お休みなさい。明日も早いから」
部屋を出る前に、彼女は振り返って微笑んだ。「ああ、そうだ。シャドウの光の力、今日初めて見たわ。守護者ってすごいのね」
ドアが閉まり、悠真は一人になった。彼はティーをゆっくりと飲み干し、ベッドに横になった。天井を見つめながら、今日のすべてを考えた。
怖かった。でも、少しだけ誇らしかった。自分にも誰かを助ける力があるとわかったから。
「よし、明日からもっと頑張ろう」
シャドウがそっと鳴き、彼の胸元に頭を押し付けてきた。その温もりに安心し、悠真はゆっくりと眠りについた。外では二つの月が輝き、星々が瞬いていた。闇の脅威はまだ去っていないが、希望の光もまた確かに存在していた。
(続く)
シャドウが足元で鳴き声を上げた。琥珀色の目は鋭く森を見据えているようだ。
「おはよう、シャドウ。今日も頑張ろうか」
黒猫はすり寄ってきて、悠真の足に体をこすりつけた。その温もりが少しばかり安心感を与えてくれる。
ドアをノックする音がして、レイラが入ってきた。彼女の表情は昨日よりも厳しく、目元に疲れの影が浮かんでいる。
「悠真、急いで。マーリン師匠が緊急の召集をかけたわ。東の森の状況がさらに悪化したらしい」
「悪化?」
「今朝方、森の近くの村から使者が来たの。夜中に奇妙な影が徘徊し、家畜が狂い死にしたって報告があった」レイラの声は低く緊迫している。「結界の亀裂から闇の気が漏れ出し、周囲に影響を与え始めているのよ。このままでは村人にも危険が及ぶ」
悠真は急いで身支度を整えた。訓練服のようなものを着ると、レイラについて廊下へ出た。螺旋階段を下りる足取りは早く、二人はほとんど駆け下りるように食堂へ向かった。
マーリンはすでに待ち構えており、机の上には地図が広げられていた。その周りにはいくつかの道具が並べられている。水晶の小瓶、古びた巻物、金属製のコンパスのようなもの。
「来たか、悠真」マーリンは顔を上げずに地図を見つめていた。「状況はレイラから聞いたかね?」
「はい。村に被害が出始めたと」
「そうだ」マーリンは地図の一点を指差した。「ここが東の森の結界の中心だ。そしてここに裂け目がある。昨日の時点で直径十メートルほどだったが、一夜で倍以上に広がったようだ」
「そんなに急速に?」
「闇の侵食は加速度的に進行する」マーリンの声には焦りが滲んでいた。「最初はゆっくりでも、一度臨界点を超えると一気に広がる。私たちが持っている時間はあと三日、いや二日かもしれない」
レイラが息を呑んだ。「そんなに?」
「残念ながらそうだ」マーリンはようやく顔を上げ、二人を見つめた。「だから今日、私たちは森へ向かう。悠真、君に最初の実戦試験だ」
「実戦試験?」悠真の喉が渇いた。
「君の力を実際の裂け目に試す」マーリンの目は真剣そのものだ。「小さなほつれを修復できるなら、大きな裂け目にも挑戦できるはず。もちろん完全に閉じるのは無理だろう。だが、拡大を遅らせ、周囲への影響を減らすことなら可能かもしれない」
「でも師匠、危険すぎませんか?」レイラが割り込んだ。「悠真はまだ訓練を始めたばかりです。昨日ようやく糸が見えるようになっただけ……」
「わかっている」マーリンは優しくも厳しい口調で言った。「しかし、村人の命と引き換えに訓練期間を延ばすわけにはいかない。レイラ、君が悠真を護る。私は結界の補強を試みる。分業だ」
老人は机の上の道具を手に取り、それぞれに分配し始めた。
「悠真、これはフォーカス・ストーンだ」マーリンは透明な水晶のペンダントを渡した。「魔力を集中させるときに使う。君の力を増幅し、コントロールしやすくしてくれるはずだ」
悠真はペンダントを受け取ると、首にかけた。水晶は微かに温かく、胸元で静かに鼓動しているようだった。
「レイラ、君には防御用のアーティファクトだ」今度は銀の腕輪を渡した。「緊急時にバリアを展開できる。一度だけだが、強い衝撃から守ってくれる」
「ありがとう、師匠」レイラは腕輪をはめた。
「では準備はいいか?」マーリンは杖を手に取った。「すぐに発つ。馬車ではなく、転送魔法を使おう。時間が惜しい」
三人は塔の玄関ホールへ移動した。マーリンは杖を振り、空中に複雑な模様を描き始める。光の線が交差し、幾何学模様を形成していく。やがてそれが門の形になり、向こう側に森の風景が映し出された。
「これが転送門だ」マーリンが説明した。「一瞬で目的地へ移動できる。だが、魔力を大量に消費するので頻繁には使えない。さあ、入るのだ」
マーリンが先頭に立ち、門をくぐった。レイラが悠真にうなずき、彼女も続く。悠真は一呼吸置いてから、シャドウを抱きしめ、光の門へ足を踏み入れた。
一瞬、体が引き伸ばされるような感覚があった。目がくらみ、耳が詰まる。しかし、それはほんの一瞬で、次の瞬間には別の場所に立っていた。
東の森の入口だ。しかし、昨日とはまったく様子が違っていた。木々の葉は色を失い、灰のように褪せている。地面は乾ききり、ひび割れが走っている。空気は重く、腐敗したような甘ったるい臭いが漂っている。
「こ、これは……」
「闇の侵食がここまで進んでいたのか」マーリンの顔色が青ざめた。「予想以上に早い。もう森全体が侵されている」
レイラが短剣を抜き、警戒しながら周囲を見渡した。「精霊の気配が完全に消えています。この森はもう死んでいる」
シャドウが激しく鳴いた。毛を逆立て、前方を睨みつけている。悠真がその視線を追うと、木々の間からゆがんだ影が這い出してくるのが見えた。
闇の落とし子だ。昨日より数が多く、大きさも増している。中には二メートルを超えるような巨大なものも混じっていた。
「来るぞ!」レイラが叫んだ。
マーリンは杖を高く掲げた。「我が光よ、闇を払え!」
杖の先から閃光が放たれ、前方一体を照らし出した。闇の落とし子たちは悲鳴のような声を上げ、光を避けて後退した。しかし、完全には退かない。影の中に潜み、再び這い出してくる機会をうかがっている。
「光魔法で一時的に押しとどめられるが、根本的な解決にはならない」マーリンが言った。「レイラ、君はここで魔物たちを食い止めろ。悠真、私と共に森の奥へ進む。裂け目は中心部にある」
「でも師匠、一人でこんなに多くの敵を……」レイラが不安そうに言った。
「大丈夫だ」マーリンは微笑んだ。「君は我が一番弟子だ。これくらいの敵なら相手になるまい。ただし、無理はするな。危険を感じたらすぐに退却し、合流地点で待て」
レイラはうなずき、短剣を構えた。「わかりました。悠真、師匠をよろしく」
「ああ」悠真は力強くうなずいた。
マーリンは再び杖を振り、二人の周りに微かな光の膜を展開した。「これで気配を消せる。魔物たちには見つかりにくくなるが、完全な invisibility ではない。静かに、急いで進もう」
二人は森の奥へと分け入っていった。マーリンの光の膜に守られて、闇の落とし子たちの目をかいくぐりながら進む。しかし、森の状態はさらに深刻だった。所々で地面が陥没し、黒い煙のようなものが湧き出ている。木々は枯れ、触れると粉々に崩れ落ちそうだ。
「ここまでひどいとは」マーリンが呟いた。「この侵食速度は尋常ではない。何かがこれを加速させているに違いない」
「何かって?」
「闇の源泉だ」マーリンの声は低かった。「普通、闇の侵食は自然に発生するものではない。何らかの原因、あるいは誰かが意図的に引き起こしている可能性がある」
「誰かが?」
「後で説明しよう。今は裂け目に集中だ」
さらに進むと、空気がさらに重くなった。呼吸が苦しく、胸が締め付けられるような感覚がある。そして前方に、異様な光景が広がっていた。
地面に巨大な裂け目が口を開けている。直径は二十メートル以上。その底は深く、暗闇が渦巻いている。裂け目の縁からは黒い煙が絶え間なく湧き出し、空中で不気味な形を成しては消えている。周囲の空間は歪み、景色がゆがんで見える。
「これが……裂け目」悠真は声を詰まらせた。
「そうだ」マーリンの表情は硬い。「そして見てごらん。糸が」
悠真が意識を集中させると、裂け目の周囲に無数の糸が見えてきた。しかし、それらは正常な輝きを失い、黒く濁り、ねじれ切れている。裂け目自体が巨大なほつれ、いや、破れ目だ。世界の織物がここで大きく破れ、闇が染み出している。
「どうすれば……」
「まずは観察だ」マーリンが静かに言った。「糸の流れを追い、破れの構造を理解する。どこが根元で、どこが末端か。どの糸が重要な支えで、どの糸が補助的なものか」
悠真は目を凝らした。最初は混沌としていたが、次第にパターンが見えてきた。裂け目の中心から放射状に糸が伸び、それらが周囲で絡み合っている。中心付近の糸はほとんど切れかかっており、末端の方はまだかすかに繋がっている。
「中心が最もひどい。でも、周辺部ならまだ修復できるかもしれない」
「その通り」マーリンがうなずいた。「全部を一度に直すのは不可能だ。だが、周辺から少しずつ繕っていけば、裂け目の拡大を食い止められるかもしれない。それに、周辺を修復することで中心部への負担を減らせる」
「では、やってみます」
悠真は胸元のフォーカス・ストーンに手を当てた。水晶が温かく鼓動し、彼の魔力を増幅する。深呼吸をして心を落ち着かせる。そして、意識を裂け目の縁にある一本の糸に向けた。
それは細く、かすかに光る銀色の糸だ。しかし、途中で黒く変色し、切れかかっている。悠真は慎重に意識を伸ばし、糸に触れた。
瞬間、鋭い痛みが頭を貫いた。闇の汚れが彼の意識に逆流してくるようだ。苦しみ、悲しみ、絶望――そんな感情が押し寄せてきた。
「集中を保て!」マーリンの声が遠くから聞こえる。「闇の感情に飲み込まれるな。君は修復する者だ。壊す者ではない」
悠真は歯を食いしばり、意識を糸そのものに集中させた。汚れではなく、糸の本質を感じ取ろうとした。銀色の糸は本来、柔らかく温かい光を放つはずだ。その記憶を呼び起こし、糸に伝える。
少しずつ、糸の黒い部分が薄れ始めた。銀色の輝きがよみがえる。切れかかっていた部分が、かすかにつながり始める。
「よし、その調子だ」マーリンが囁いた。「急がず、確実に」
しかし、その時だった。裂け目の底から轟音が上がり、黒い煙が渦巻きながら噴き上がってきた。煙は空中で形を変え、巨大な手のようなものになった。それが悠真めがけて襲いかかる。
「バリア!」マーリンが叫び、杖を振った。
光の壁が出現し、黒い手を遮った。しかし、手は壁を叩き壊そうとする。ひび割れが走り、光の壁が揺らぐ。
「悠真、続けろ!私はこいつを食い止める!」
マーリンは杖から閃光を放ち、黒い手に攻撃を加えた。しかし、手は簡単には退かない。裂け目からさらに闇のエネルギーが供給されているようだ。
悠真は動揺しながらも、修復を続けた。一本目の糸がようやく繋がりかけた。しかし、裂け目全体から見ればほんの一部に過ぎない。こんなペースでは、とても間に合わない。
その時、シャドウが激しく鳴いた。黒猫は悠真の前に立ち、毛を逆立てて裂け目を睨みつけている。そして、その琥珀色の目が突然金色に輝き始めた。
シャドウから光が放たれる。それは柔らかい黄金色の光で、裂け目に注がれると、闇の煙が後退し始めた。黒い手の動きも鈍る。
「シャドウが……闇を浄化している?」マーリンが驚いた声を上げた。
「守護者の力だ」悠真は悟った。「シャドウは僕を守るだけじゃない。闇に対抗する力も持っている」
シャドウの光を受けて、裂け目の周りの糸が活性化し始めた。黒い汚れが落ち、本来の輝きを取り戻す。悠真はこの機を逃さず、さらに二本、三本と糸の修復に取りかかった。
フォーカス・ストーンが熱く輝き、彼の力を増幅する。一本目の糸が完全に繋がった。次に二本目。三本目。少しずつ、裂け目の周辺が修復されていく。
しかし、裂け目の中心からさらに大きなうなり声が上がった。闇が怒っているようだ。黒い煙が何層にも重なり、巨大な顔のようなものを形成し始めた。無数の目がぱっちりと開き、二人一匹を見下ろす。
「これは……闇の意思の顕現だ」マーリンの声に警戒が走る。「悠真、これ以上は危険だ。一旦退却しよう」
「でも、もう少しで……」
「無理だ!」マーリンが叫んだ。「今の君ではあれに対抗できない。修復した糸でさえ、あれが本気を出せば簡単に引き裂かれる!」
その言葉が終わらないうちに、黒い顔から無数の触手が飛び出した。マーリンは素早く杖を操り、光の盾を幾重にも展開する。しかし、触手は盾を次々と貫いていく。
シャドウが金色の光を最大限に放ち、触手を食い止めようとする。だが、数が多すぎる。一本の触手が光をかいくぐり、悠真めがけて伸びてきた。
「悠真、危ない!」
レイラの声がして、銀の閃光が飛来した。短剣が触手を切り裂き、間一髪で悠真を救った。振り向くと、レイラが息を切らしながら駆け寄ってくる。彼女の服にはいくつか裂け目があり、軽い傷を負っている。
「レイラ!どうしてここに?」
「魔物たちを蹴散らして追ってきたの」レイラは短剣を構え、黒い顔を睨みつけた。「一人で師匠と悠真を危険にさらすわけにはいかないでしょ」
「だが来るなら、もっと多くの敵を連れて来るはずだ」マーリンが言った。
「大丈夫、道中でできるだけ倒したから。でも確かに、後から追ってくるものもいるわ」
レイラの言葉通り、森のあちこちから闇の落とし子たちの気配が近づいてくる。前後から敵に挟まれる形だ。
「ここは撤退だ」マーリンが決断した。「今日のところは周辺の修復で満足しなければならない。悠真、君はよくやった。あれだけ修復できたなら、裂け目の拡大は一時的にせよ遅らせられるはずだ」
「でも……」
「命あっての物種だ」マーリンは優しくも厳しく言った。「無謀な死に方は誰のためにもならない。今回はこれで良しとしよう」
老人は杖を大きく振り、三人の周りに光の輪を描いた。「転送魔法を使う。すぐに塔に戻る」
「でも師匠、転送門を開く間、無防備になりますよ」レイラが心配そうに言った。
「それだからこそ、君たちが私を守ってくれ」マーリンは既に呪文を唱え始めていた。
黒い顔がさらに触手を伸ばし、闇の落とし子たちも一斉に襲いかかってきた。レイラは短剣を翻し、飛来する触手を切り落とす。悠真はフォーカス・ストーンに全力を注ぎ、周囲に簡易的なバリアを展開した。シャドウは金色の光を放ち続け、闇の勢力を押しとどめる。
「もう少しだ!」マーリンが叫んだ。
転送門がかすかに光り始めた。しかし、黒い顔が巨大な口を開け、闇の奔流を吐き出そうとしている。
「まずい、あれは……」
その瞬間、レイラが腕輪を掲げた。「バリア、展開!」
銀の腕輪が輝き、三人の周りに半球状の光の盾が現れた。ほぼ同時に、黒い顔から闇の奔流が放たれ、バリアに激突する。衝撃で地面が揺れ、周囲の木々が吹き飛ぶ。
バリアにひびが入り、崩れかける。しかし、それを持ちこたえている間に、転送門が完全に開いた。
「今だ、入れ!」マーリンが叫んだ。
レイラが悠真を押しやり、自分も飛び込んだ。マーリンが最後に入り、転送門が閉じる。闇の奔流が彼らのいた場所を飲み込んだ。
塔の玄関ホールに三人が転がり込むように現れた。転送門が閉じ、静寂が戻った。ただ、荒い息遣いだけが響いている。
「皆、無事か?」マーリンが最初に立ち上がった。
「はい」レイラは起き上がり、傷をチェックした。「軽い擦り傷だけです」
悠真もゆっくりと立ち上がった。シャドウが彼の足元に座り、少し疲れたように見える。
「ああ、無事だ」悠真は胸を撫で下ろした。「でも、ほとんど何もできなかった。あんなに小さな修復だけ……」
「小さな修復ではない」マーリンは厳しく言った。「君は裂け目の周辺を少なくとも五本の糸で修復した。あれだけで、拡大速度は三割は遅くなったはずだ。村人たちにとっては、それが生死を分けるかもしれない」
「そう……ですか」
「そうだ」マーリンは優しい口調に変わった。「そして、君は初めての実戦でよくやった。恐怖に押しつぶされず、自分の役割を果たした。誇るべきことだ」
レイラが近づき、悠真の肩を叩いた。「あなたが修復してる間、裂け目から漏れる闇の気が確かに減ってたわ。周りの空気が少し軽くなったのを感じたもの」
「本当?」
「本当よ」レイラは微笑んだ。「あなたの力は確かに役に立っている。もっと訓練を積めば、きっとあの裂け目を閉じられるようになるわ」
マーリンはうなずき、図書室へ向かうように手招きした。「さあ、記録を取ろう。今日の観察は貴重なデータだ。裂け目の構造、闇の振る舞い、そして君の力の効果。全て分析する必要がある」
図書室で、マーリンは羊皮紙に詳細な記録を書き留め始めた。レイラは傷の手当てをし、悠真は窓辺に座って外を眺めていた。まだ昼下がりだが、疲労がどっと押し寄せている。
「あの黒い顔は何だったんだろう」悠真が呟いた。
「闇の意思、あるいは闇そのものの顕現だ」マーリンが答えながら書き続けた。「裂け目が大きくなるほど、闇はより強い自我を持ち始める。あれが完全な形で現れたら、この地域全体が飲み込まれるだろう」
「誰かが意図的に裂け目を作っている可能性があるって、さっき言ってましたね」
マーリンは筆を止め、深くため息をついた。「長い間、私はこの世界の闇の活動を観察してきた。自然発生するものも多いが、中には人為的に引き起こされたものもある。闇の魔術師、あるいは闇と契約した者が、世界のバランスを崩そうとしている」
「なぜそんなことを?」
「力のため、復讐のため、あるいは単に破壊を楽しむため」マーリンの目が遠くを見つめた。「理由は様々だ。だが、結果は同じ。無辜の人々が苦しみ、世界が傷つく」
レイラが傷に軟膏を塗りながら言った。「師匠は何世紀も、そんな闇の勢力と戦ってきたんです。星見の塔が世界の結節点にあるのも、ここから全ての異変を監視するため」
「そして今、東の森の裂け目は、より大きな計画の一部かもしれない」マーリンは真剣な面持ちで悠真を見た。「君の力が特に重要な理由がここにある。『門』を持つ者は、世界の織物を直接操作できる。つまり、闇が引き起こした歪みを修復できる唯一の存在だ」
「僕が……唯一?」
「この時代では、そうだ」マーリンはうなずいた。「記録によれば、過去に『門』を持つ者は数百年に一人現れるかどうかだ。そして今、それは君だ」
重い沈黙が部屋を覆った。悠真はその重みに押し潰されそうだった。たった昨日まで普通の失業者だった自分が、今や世界の運命に関わる力を持っている。
「怖い」彼は素直に言った。「そんな大きな責任、僕に務まるだろうか」
「それでいい」マーリンは穏やかに言った。「怖さを自覚している者は、軽率な行動を取らない。無謀な勇気より、慎重な決断の方がよほど役に立つときがある」
レイラが手当てを終え、近づいてきた。「私も最初は怖かったわ。エルフの里を出て、たった一人でこの塔に弟子入りしたときは、毎日泣きそうだったもの。でも、師匠が導いてくれた。仲間ができた」
彼女は悠真の目を真っ直ぐ見つめた。
「あなたも一人じゃない。私たちがついている。シャドウも」
そう言われて、悠真は足元の黒猫を見下ろした。シャドウは眠っているように見えたが、耳だけがぴくぴくと動き、彼の声を聞いているようだ。
「ありがとう」悠真は心から言った。「でも、もっと強くならなければ。今日みたいに、逃げるだけじゃダメだ」
「ならば、明日から訓練を強化しよう」マーリンが言った。「今日の経験を基に、より実践的な練習をする。裂け目の修復に特化した訓練だ」
「お願いします」
その夜、悠真は部屋で今日の出来事を思い返していた。裂け目の恐ろしい光景、闇の顔の圧迫感、それでも糸を修復した時の小さな達成感。全てが鮮明に蘇る。
シャドウがベッドに跳び乗り、彼の横に来た。猫は前足で悠真の手を軽く叩き、まるで「よくやった」と言っているようだった。
「ありがとう、シャドウ。君がいなかったら、あの触手にやられてたかもしれない」
猫は満足そうに鳴き、丸くなった。
ドアをノックする音がした。レイラだった。彼女の手にはまたカップが二つ。
「今日は特に疲れたでしょ。カモミールティーを持ってきたわ。安眠に効果があるの」
「いつもありがとう」悠真はカップを受け取った。
レイラは窓辺に腰掛け、外を見つめた。「今日のあなた、本当に頑張ってたわ。初めての実戦で、あんなに集中して修復できるなんて」
「でも、全然足りなかった」
「そんなことない」レイラは振り向いた。「私が初めて魔物と戦った時、恐怖で動けなかったのよ。あなたは少なくとも行動できた。それだけで十分すごいことだと思う」
悠真はティーの温もりを感じながら、彼女の言葉をかみしめた。確かに、昨日までの自分なら、あの状況でまともな思考すらできなかったかもしれない。
「マーリン師匠の言う通り、あなたは『門』を持っている」レイラが続けた。「それは運命かもしれない。でも、その力をどう使うかはあなた次第。今日、あなたは修復を選んだ。村人を救う道を選んだ」
「当たり前のことじゃないか」
「当たり前じゃない人もいるのよ」レイラの声が曇った。「闇の誘惑に負け、自分の力だけで全てを解決しようとする者。あるいは恐怖に負け、力を隠して平凡に暮らそうとする者。あなたは違う。危険を知りながら、それでも進むことを選んだ」
彼女はカップを置き、真剣な表情で悠真を見つめた。
「これからもっと辛いことがあるかもしれない。もっと怖い目にも遭う。でも、あなたが今日示した勇気を忘れないで。それがあなたの真の力だから」
そう言うと、レイラは立ち上がった。「では、お休みなさい。明日も早いから」
部屋を出る前に、彼女は振り返って微笑んだ。「ああ、そうだ。シャドウの光の力、今日初めて見たわ。守護者ってすごいのね」
ドアが閉まり、悠真は一人になった。彼はティーをゆっくりと飲み干し、ベッドに横になった。天井を見つめながら、今日のすべてを考えた。
怖かった。でも、少しだけ誇らしかった。自分にも誰かを助ける力があるとわかったから。
「よし、明日からもっと頑張ろう」
シャドウがそっと鳴き、彼の胸元に頭を押し付けてきた。その温もりに安心し、悠真はゆっくりと眠りについた。外では二つの月が輝き、星々が瞬いていた。闇の脅威はまだ去っていないが、希望の光もまた確かに存在していた。
(続く)
0
あなたにおすすめの小説
最上級のパーティで最底辺の扱いを受けていたDランク錬金術師は新パーティで成り上がるようです(完)
みかん畑
ファンタジー
最上級のパーティで『荷物持ち』と嘲笑されていた僕は、パーティからクビを宣告されて抜けることにした。
在籍中は僕が色々肩代わりしてたけど、僕を荷物持ち扱いするくらい優秀な仲間たちなので、抜けても問題はないと思ってます。
世界一簡単にレベルアップ ~魔物を倒すだけでレベルが上がる能力を得た俺は、弱小の魔物を倒しまくって異世界でハーレム作る事にしました~
きよらかなこころ
ファンタジー
シンゴはある日、事故で死んだ。
どうやら、神の手違いで間違って死んでしまったシンゴは異世界に転生することになる。
転生する際にオマケに『魔物を倒すだけでレベルが上がる』能力を貰ったシンゴ。
弱小の魔物を倒してレベルを上げ、異世界でハーレムを作る事を企むのだった。
備蓄スキルで異世界転移もナンノソノ
ちかず
ファンタジー
久しぶりの早帰りの金曜日の夜(但し、矢作基準)ラッキーの連続に浮かれた矢作の行った先は。
見た事のない空き地に1人。異世界だと気づかない矢作のした事は?
異世界アニメも見た事のない矢作が、自分のスキルに気づく日はいつ来るのだろうか。スキル【備蓄】で異世界に騒動を起こすもちょっぴりズレた矢作はそれに気づかずマイペースに頑張るお話。
鈍感な主人公が降り注ぐ困難もナンノソノとクリアしながら仲間を増やして居場所を作るまで。
転生先は上位貴族で土属性のスキルを手に入れ雑魚扱いだったものの職業は最強だった英雄異世界転生譚
熊虎屋
ファンタジー
現世で一度死んでしまったバスケットボール最強中学生の主人公「神崎 凪」は異世界転生をして上位貴族となったが魔法が土属性というハズレ属性に。
しかし職業は最強!?
自分なりの生活を楽しもうとするがいつの間にか世界の英雄に!?
ハズレ属性と最強の職業で英雄となった異世界転生譚。
異世界転生したので森の中で静かに暮らしたい
ボナペティ鈴木
ファンタジー
異世界に転生することになったが勇者や賢者、チート能力なんて必要ない。
強靭な肉体さえあれば生きていくことができるはず。
ただただ森の中で静かに暮らしていきたい。
勇者パーティーにダンジョンで生贄にされました。これで上位神から押し付けられた、勇者の育成支援から解放される。
克全
ファンタジー
エドゥアルには大嫌いな役目、神与スキル『勇者の育成者』があった。力だけあって知能が低い下級神が、勇者にふさわしくない者に『勇者』スキルを与えてしまったせいで、上級神から与えられてしまったのだ。前世の知識と、それを利用して鍛えた絶大な魔力のあるエドゥアルだったが、神与スキル『勇者の育成者』には逆らえず、嫌々勇者を教育していた。だが、勇者ガブリエルは上級神の想像を絶する愚者だった。事もあろうに、エドゥアルを含む300人もの人間を生贄にして、ダンジョンの階層主を斃そうとした。流石にこのような下劣な行いをしては『勇者』スキルは消滅してしまう。対象となった勇者がいなくなれば『勇者の育成者』スキルも消滅する。自由を手に入れたエドゥアルは好き勝手に生きることにしたのだった。
転生したら実は神の息子だった俺、無自覚のまま世界を救ってハーレム王になっていた件
fuwamofu
ファンタジー
ブラック企業で過労死した平凡サラリーマン・榊悠斗は、気づけば剣と魔法の異世界へ転生していた。
チート能力もない地味な村人として静かに暮らすはずだった……が、なぜか魔物が逃げ出し、勇者が跪き、王女がプロポーズ!?
実は神の息子で、世界最強の存在だったが、その力に本人だけが気づいていない。
「無自覚最強」な悠斗が巻き起こす勘違い系異世界英雄譚、ここに開幕!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる