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第三記録【昭和ザウルスの異臭と、コピー室の共犯者】
しおりを挟むガチャリ。
玄関の鍵が開く音で、私の体は反射的に強張った。
条件反射だ。
パブロフの犬がベルの音でよだれを垂らすなら、私はドアの開閉音で胃液が逆流する。
時計の針は、23時を回っていた。
「水をくれ……」
ドサリと靴を脱ぎ捨てる音と共に、低い声が響く。
夫の剛だ。
リビングに入ってきた彼は、ネクタイを緩め、赤ら顔でよろめきながらソファに倒れ込んだ。
臭い。
鼻を突く、強烈な異臭。
安酒のツンとするアルコール臭。
服に染み付いたタバコのヤニの臭い。
そして――安っぽい、甘ったるい香水の残り香。
『うわ、最悪』
明菜が、夫の頭の上で鼻をつまんでいる。
『成分分析完了。オールドのロック、ハイライトの副流煙。そして……場末のスナックのホステスが使う、激安のムスク系香水ね』
明菜は汚いものを見る目で、夫を見下ろした。
『歩く産業廃棄物ね。まさに絶滅危惧種の昭和ザウルスだわ』
昭和ザウルス。
明菜のネーミングセンスには呆れるけれど、言い得て妙だと思った。
私は無言で台所へ行き、コップに水を注ぐ。
怒りなんて湧かない。
ただ、気持ち悪い。
今日、会社で嗅いだ高橋係長の匂い。
あの爽やかな、外国製のコロンの香り。
それと比べて、この家の空気はなんて澱んでいるんだろう。
「……ん」
コップを差し出すと、夫は礼も言わずにひったくった。
一気に飲み干し、ふぅと息を吐く。
その時、足元にあった私が読みかけの雑誌に気づいた夫が、つま先でそれを蹴飛ばした。
バサリ。
雑誌が床を滑り、ページが折れ曲がった。
特集ページに載っていた笑顔のモデルが、無惨に歪む。
私は何も言わず、それを拾い上げた。
反論したところで、「誰が食わせてやってると思ってるんだ」と怒鳴られるだけだ。
「お風呂……沸いてるから」
「ああ」
それだけ。
夫はヨロヨロと脱衣所へ向かった。
リビングに静寂が戻る。
私はキッチンの流し台に立ち、夫が口をつけたコップを洗剤で洗った。
スポンジで何度も、何度もこする。
まるで、自分の人生についた汚れを落とすみたいに。
ふと、視線が自分の指先に落ちた。
人差し指に巻かれた、一枚の絆創膏。
端が少し剥がれかけている。
『……あ、その指の絆創膏、大丈夫ですか?』
昼間、高橋係長がくれた言葉が蘇る。
たった一枚の絆創膏に気づいてくれた人。
毎日一緒に暮らしているのに、髪型の変化にも、心の変化にも気づかない夫。
『比較検討する価値もないわね』
明菜が私の肩に顎を乗せる。
『ねえ洋子。あの男の世話をして、貴女に何のメリットがあるの? 減価償却はとっくに終わってるわよ』
でも、生活があるじゃない。
結婚したんだもん、そんな簡単に……
『生活? それはただの「生存」よ』
明菜は私の耳元で囁いた。
『貴女は今日、少しだけ女に戻った。その味、忘れられないでしょ?』
私は剥がれかけた絆創膏を、ぎゅっと指に押し付けた。
痛みはなかった。
代わりに、胸の奥で小さな火種がチリチリと燃えているのがわかった。
翌朝。
空はどんよりと曇っていた。
もうすぐ梅雨入りだというニュースキャスターの声が、頭に響く。
寝不足だ。
昨夜、夫のいびきがうるさくて、ほとんど眠れなかった。
重い足取りで出社し、タイムカードを押す。
オフィスの空気は湿気を含んでいて、肌にまとわりつくようだ。
『ひどい顔』
自分のデスクに座るなり、明菜が現れた。
彼女は私の顔をマジマジと見て、ケラケラと笑う。
『目の下のクマ、動物園のパンダの方がまだ愛嬌あるわよ。コンシーラーくらい塗りなさい』
あいにく、そんな上等な化粧品は持ってないの。
私はため息をつきながら、山積みになった書類を手に取った。
「佐々木さーん、これ、会議用に20部コピーお願いできる?」
「はい、わかりました」
課長から渡されたのは、分厚い決算資料の束だった。
私はそれを抱えて、廊下の突き当たりにある資料室へと向かった。
資料室兼、コピー室。
そこは、窓のない三畳ほどの狭い空間だ。
巨大な箱のようなコピー機が二台鎮座し、常に熱を帯びている。
独特のトナーの匂いと、紙の匂いが充満する密室。
ドアを開ける。
ムッとした熱気が顔にかかる。
そして、私は息を飲んだ。
先客がいたのだ。
「……はぁ」
コピー機の前で、深く、重い溜息をついている背中。
高橋係長だった。
彼はコピーを取っているわけではなく、機械に手をついて、うなだれていた。
いつものキラキラしたオーラが消え、まるで雨に濡れた子犬のようだ。
「あ、あの……高橋係長?」
私が恐る恐る声をかけると、彼はビクリと肩を震わせて振り返った。
「うわっ! ……あ、佐々木さんか。びっくりした……」
「すみません。あの、大丈夫ですか? 顔色が……」
彼は弱々しく笑って、ネクタイを少し緩めた。
「いや、ちょっと……休憩です。ここ、静かだから」
嘘だ。
彼の目は充血していて、昨日の私と同じくらい疲れて見えた。
『アラート発生! アラート発生!』
突然、明菜が私の視界に赤いパトランプを点滅させた。
『ターゲットのメンタル値、急降下中! 防御力ゼロ! 今が最大の攻略チャンスよ!』
明菜は高橋係長の周りを飛び回りながら、私の前に新しいウィンドウを突きつけた。
【クエスト開始:弱った心に入り込め】
【報酬:二人だけの「秘密」】
入り込むって……どうやって。
とりあえずなにか話さないと
「お仕事、大変なんですね」
私は当たり障りのない言葉を選んで、隣のコピー機に資料をセットした。
ガシャン、ガシャン、と機械が動き出す。
リズム好く紙が吐き出されていく音だけが、狭い部屋に響く。
「……期待、されすぎちゃって」
機械音に紛れるような小さな声で、彼が呟いた。
「え?」
「僕、そんなにすごくないんです。ただ親のコネと、運が良かっただけで。でも、みんな社長の親戚だから、海外帰りだからって……」
彼は自嘲気味に笑った。
「失敗できないんです。失敗したら、何を言われるか」
いつも完璧に見える彼が、今だけは弱々しく見える。
エリートにはエリートの地獄がある。そんなこと、考えたこともなかった。
「それに……プライベートでも、そうで」
彼は独り言のように続けた。
「学生時代から付き合ってる彼女がいるんですけど……そろそろ結婚しろって、周りがうるさくて」
彼女。
その単語を聞いた瞬間、私の胸がズキリと痛んだ。
やっぱり、いるよね。
こんな素敵な人に、相手がいないわけがない。
「彼女も、僕と結婚するのが正解だと思ってる。僕の家柄とか、将来性とか……そういう条件しか見てない気がして」
彼は眉間を押さえて、深く息を吐いた。
「僕自身を見てくれてる人なんて、どこにもいない気がするんです」
その言葉は、私の心の柔らかい部分に突き刺さった。
私と、同じだ。
私も、夫にとって家政婦という機能でしかない。
「佐々木洋子」という人間を見てくれる人なんて、どこにもいない。
ガガガガッ!
ピーーーッ!
突然、コピー機が嫌な音を立てて停止した。
赤いランプが点滅している。紙詰まりだ。
「あ、すみません。僕が変な話したから……」
「いえ、よくあることですから」
私はパネルを開けようと手を伸ばした。
同時に、彼も手を伸ばす。
触れた。
私の指先と、彼の指先が。
ビクッとして引っ込めようとしたけれど、狭い機械の内部だ。避ける場所がない。
『逃げないの!』
明菜が叫んだ。
『そのまま! わざと指を絡ませなさい! スキンシップ係数、爆上げチャンスよ!』
そんなことできるわけがない。
でも、私は手を引っ込めなかった。
熱を持った機械の中で、彼の体温が伝わってくる。
「……佐々木さんの手、冷たいですね」
彼は私の手から離れようとせず、そっと触れたままで言った。
「私、心も体も、冷え性なんです……なんちゃって」
自然と、そんな言葉が口をついて出た。
「え?」
「私も……同じです。いや、高橋係長と悩みが一緒ってわけじゃなくて…… 家に居場所なんてありません。夫にとって私は、ただの便利な家政婦ですから」
言ってしまった。
会社の、しかも上司に、家庭の愚痴をこぼすなんて。
でも、止まらなかった。
詰まっていた紙を取り除くように、心に詰まっていたものが溢れ出した。
「誰にも必要とされてない。ただ毎日を消化してるだけ。……だから、高橋係長の気持ち、少しだけわかります」
私は詰まった紙を引き抜き、顔を上げた。
至近距離に、彼の顔があった。
彼の瞳が、私を映している。
「佐々木さん……」
彼は何かを言いかけて、口を閉ざした。
けれど、その瞳の熱っぽさが、言葉以上のものを語っていた。
『おめでとう、洋子』
二人の間に流れる濃厚な沈黙の中、明菜の声だけがクリアに響いた。
視界の上部に、金色の紙吹雪が舞う。
【クエストクリア:秘密の共有】
【獲得:共犯者の絆】
私はコピー機のカバーを閉じた。
ウィーン、という駆動音が再開し、私たちの沈黙をかき消した。
けれど、もう戻れない。
この狭い資料室で、私たちは「上司と部下」のラインを、ほんの少しだけ踏み越えてしまった気がする。
勘違いかもしれないけれど
「……また、話聞いてもらってもいいですか?」
帰り際、彼が小声で言った。
「はい。いつでも」
私は絆創膏の巻かれた指で、自分のスカートの裾をぎゅっと握りしめた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名: 佐々木 洋子(29)
職業: 事務職 / 共犯者(New!)
現在のステータス
女子力: E
夜のテクニック: G
忍耐力: S → B
共犯者レベル: Lv.1
明菜の分析ログ
「弱みの共有」は最強の媚薬よ。
エリート男の「自信の無さ」と、主婦の「孤独」。この二つのピースがパチリとハマったわね。
コピー室での接触事故は、洋子の脳に「彼は特別な存在」というタグ付けを完了させた。
もう後戻りはできない。
夫の悪臭が強ければ強いほど、徹の香水の匂いが「救い」に変わるのよね。
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