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第六記録【理性の傘と、本能の雨音】
しおりを挟む六月の雨は、冷たくて、重い。
空から落ちてくるのは水滴ではなく、鉛の粒のようだ。
私は駅へと続く歩道を、傘もささずに歩いていた。
当然、通り過ぎる人々は怪訝な目で私を見ていく。
事務服のブラウスはすでに水を吸って重くなり、肌に張り付いている。
スカートの裾からは雨水が滴り落ち、ストッキングの中までぐしょぐしょだ。
冷たい。
骨の髄まで凍えるような寒さ。
でも、今の私にはこれが心地よかった。
この冷たさが、私の中で燻っている熱を奪ってくれる気がしたからだ。
私は欠陥品。
私は裏切り者。
私は、誰にも愛される資格のない女。
一歩歩くたびに、カオリの言葉が呪詛のようにリフレインする。
そうだ、これが罰なんだ。
調子に乗って、身の程知らずな夢を見た罰。
風邪を引いて寝込めばいい。
高熱にうなされて、この浮ついた脳みそを焼き切ってしまえばいい。
『はいはい、悲劇のヒロインごっこ、お疲れ様』
雨音に混じって、呆れた声が降ってきた。
彼女は私の頭上にふわりと浮かび、優雅に私を見下ろしている。
『あんたねえ、そうやって自分を痛めつけて私は反省してますってポーズとって、誰に見せてるつもり? 神様? それとも世間?』
ほっといてよ。私は今、禊をしてるの。
『バカねえ。体温低下で免疫力が下がってるだけよ。このまま風邪引いて寝込んでも、あの家に看病してくれる人がいるとでも思ってるの?』
明菜は冷酷な事実を突きつける。
『あの昭和ザウルスはね、熱を出して震えるあんたを見てもこう言うわ。「俺の飯は?」「うつすなよ」ってね。それが現実。あんたの殉教者ごっこなんて、誰も救わないのよ』
反論できなかった。
その光景がありありと想像できてしまったからだ。
熱を出した私に、舌打ちをする夫。
「家事もできないのか」と不機嫌になる夫。
涙が溢れてきた。
雨に紛れて誰にもバレないけれど、私の頬を伝う液体は、雨よりもずっと熱かった。
その時だった。
バシャ、バシャ、バシャ!
背後から、激しい水音が近づいてきた。
誰かが走っている音。
それも、必死に。
「佐々木さん!!」
名前を呼ばれた瞬間、私の右腕を強い力で掴まれた。
「……っ!」
引き止められて振り返る。
そこには、息を切らした高橋係長が立っていた。
彼は傘を持っていた。
それなのに、全身ずぶ濡れだった。
セットしていたテクノカットは雨で無惨に崩れ、前髪が額に張り付いている。
ダブルのスーツは水を吸って黒く変色し、ワイシャツが透けて肌に密着している。
いつも完璧で、キラキラしていたエリートの彼。
なのに今は、まるで迷子になった子供のように、必死な形相で私を見ていた。
「……なん、で」
私の声は震えていた。
「なんで追いかけてくるんですか。迷惑だって、言ったじゃないですか」
「嫌です」
彼は即答した。
雨水が彼の長い睫毛から滴り落ちる。
「迷惑なんかじゃない。佐々木さんがこんな……こんな姿で帰るのを、見て見ぬふりなんてできません!」
「関係ないでしょ! 部下の管理なら会社でやってください!」
私は腕を振りほどこうとした。
でも、彼の力は強かった。
彼は自分の持っていた傘を、強引に私の方へ差し出した。
「風邪、引きますから! 傘、使ってください!」
「いらない! あなたが差せばいいじゃない!」
「僕はいいんです! 佐々木さんが濡れるくらいなら、僕が濡れた方がマシだ!」
彼は怒鳴った。
普段の穏やかな彼からは想像もできない、荒々しい声。
彼は傘を私に押し付け、自分は雨ざらしのまま、私の前に立ちはだかった。
前髪の隙間から覗く瞳が、燃えるように熱い。
雨で崩れた髪型のせいで、いつもの大人びた雰囲気が消え、年相応の……いや、もっと幼い素顔が剥き出しになっている。
その無防備な姿が、私の胸を激しく揺さぶった。
だめ。
これ以上優しくされたら、決心が鈍る。
私は正しく生きると決めたんだ。
「……優しくしないで」
私は後ずさった。
「私はおばさんなの。結婚して十年も経つ、中古品なの。友達にも言われた、欠陥品だって。あなたみたいな若い人が関わっていい人間じゃないの!」
私はカオリの言葉を盾にした。
自分を卑下し、傷つけることで、彼を遠ざけようとした。
でも、彼は一歩も引かなかった。
濡れた前髪を乱暴にかき上げ、私を真っ直ぐに射抜く。
「欠陥品?」
彼は低い声で言った。
「誰かを好きになる気持ちを我慢できないのが欠陥品なら……じゃあ、僕も欠陥品でいいです」
「え……」
「正しさなんてどうでもいい。世間体とか、倫理とか、そんなのクソ食らえだ」
クソ食らえ。
彼がそんな汚い言葉を使うなんて。
「僕は、佐々木さんが泣きそうな顔をしてるのが、一番辛いんです。あなたが傷ついてるのを見るくらいなら、僕は喜んで共犯者になりますよ!」
彼の叫びが、雨音を切り裂いた。
時間が止まったようだった。
傘を叩く雨の音だけが、やけに大きく響く。
『警告。警告』
明菜の声が、脳内に響いた。
彼女は真剣な顔で、空中に赤いアラートを表示させている。
『理性ダム、決壊レベル到達。もう止められないわよ』
明菜が指を鳴らす。
『聞こえる? この雨音。これは「ホワイトノイズ」よ。社会の雑音、道徳、カオリの正論……そういう余計な情報を遮断して、二人だけの世界を作る壁』
明菜は私の震える肩を指差した。
『そして今、あんたの体は極限まで冷えてる。哺乳類はね、生命の危機を感じる寒さの中にいると、本能的に「他者の体温」を渇望するの。これを「スキンハンガー」と言うわ』
皮膚が、飢えている。
そうだ。
私は飢えている。
10年間、夫と暮らしていても一度も満たされなかった、肌の温もり。
『理屈なんて後回し。今は本能に従いなさい。抱きしめられたいんでしょう?』
明菜の言葉が終わるか終わらないかのうちに、彼が動いた。
ぐいっ、と私の体が引き寄せられる。
「佐々木さん……」
次の瞬間、私は彼の腕の中にいた。
冷たい雨の中で、彼の体だけが、焼きごてのように熱かった。
濡れたスーツ越しに伝わる、彼の心臓の鼓動。
雨の匂いと、微かに香るコロンの匂い。
男の人の、硬い腕の感触。
突き飛ばさなきゃいけない。
「離して」と言わなきゃいけない。
頭ではわかっているのに、私の体は正直だった。
私は傘を取り落とし、彼の背中に手を回していた。
しがみついていた。
この熱を逃がしたら、私は本当に凍え死んでしまう気がして。
「……あったかい」
無意識に呟いていた。
「うん、あったかい」
彼は私の頭に頬を埋め、震える声で言った。
二人の体温が混ざり合い、雨の冷たさを溶かしていく。
どれくらいそうしていただろう。
通りかかった車のライトが、私たちを照らし出した。
ハッとして体を離す。
一台のタクシーが、空車のランプを光らせて近づいてくる。
彼は迷わず手を挙げた。
キーッ、とタイヤが水を跳ね上げて、タクシーが停まる。
自動ドアが開く。
車内からは、独特の芳香剤の匂いと、演歌のラジオが漏れ聞こえてきた。
「……送り、ます」
彼は私を見て、強い瞳で言った。
「このままじゃ帰せない。濡れたままだし、話もしたいし……今は、あなたを一人にしたくない」
それは、ただの送迎ではない誘い文句だった。
この車に乗れば、もう戻れない。
日常という安全地帯から、切り離されてしまう。
でも。
私は頷いた。
「……うん」
私たちは逃げ込むように、タクシーの後部座席に滑り込んだ。
バタン、とドアが閉まる。
雨音が遠くなり、密室の静寂が訪れた。
シートには、白いレースのカバーがかかっている。
「どちらまで?」
運転手さんがバックミラー越しに聞いてくる。
彼は一瞬沈黙し、それから行き先を告げた。
会社の方向でも、私の家の方向でもない場所を。
車が走り出す。
流れる景色は雨で滲んで、どこへ向かっているのかもわからない。
シートの上で、彼の手が私の手を探り当てた。
濡れて冷たい私の手を、彼の大きな手が包み込む。
ギュッと、痛いほど強く。
もう、言葉はいらなかった。
繋いだ手から伝わる熱だけが、今の私にとっての唯一の真実だった。
『カーン!』
明菜がどこからか取り出したゴングを鳴らした。
助士席に座っている明菜が、ニヤリと笑っている。
『さあ、第2ラウンドの開始よ。タクシーの中は、法律が届かない無法地帯だからね』
窓の外では、激しい雨が世界を洗い流し続けていた。
私の「正しさ」も「理性」も、すべて雨水と一緒に側溝へ流れていけばいい。
私は彼の手を、強く握り返した。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名: 佐々木 洋子(29)
職業: 事務職 / 転落者(確定)
現在のステータス
メンタル: 融解(理性のダム決壊により水没)
皮膚飢餓度: 充足中(高橋係長の体温により回復)
共犯者レベル: Lv.MAX(逃避行の開始)
明菜の分析ログ
「雨」「寒さ」「自己否定」。
この三つの要素が揃った時、人間は最も脆く、そして大胆になる。
カオリの正論が、皮肉にも洋子を「欠陥品同士の連帯」へと追い込んだわね。
タクシーという動く密室。
ここは社会から切り離されたカプセルよ。
運転手は背中しか見せない証人。
さあ、どこへ行くのかしら?
ホテル? それとも……?
どっちにしろ、今夜の夕飯は、誰にも食べられないまま腐っていくだけね。
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