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第七記録【ワンルームと、見知らぬ長い髪】
しおりを挟むタクシーが停まったのは、世田谷の閑静な住宅街にある、タイル張りのマンションの前だった。
私が住んでいる郊外の団地とは、空気が違う。
エントランスにはオートロックがあり、ガラス扉の向こうには観葉植物が飾られている。
80年代の今、ここはいわゆる億ションとまではいかないまでも、独身のサラリーマンが一人で住むには分不相応な場所だ。
親の援助があるという噂は、本当だったらしい。
「……どうぞ。散らかってますけど」
高橋係長――徹さんが、鍵を開けてドアを押さえてくれた。
私は濡れた仔犬のように身体を縮こまらせて、その境界線を跨いだ。
ガチャリ。
重厚なドアが閉まる音と共に、外の雨音が遮断された。
玄関に入った瞬間、ふわりと香りがした。
我が家の玄関に染み付いている、古新聞と夫の靴の臭いとは全く違う。
柑橘系の芳香剤と、微かなメンソール。そして、徹さんの残り香。
若くて、雄の匂い。
その匂いを肺に入れただけで、めまいがした。
私は本当に、来てしまったんだ。
夫以外の男の部屋に。
「すぐタオル持ってきます。そこにかけててください」
通されたリビングは、まるでドラマのセットのようだった。
生活感がない。
私の家にあるような、所帯じみた調味料や脱ぎ捨てられた靴下なんて一つもない。
黒い革張りのソファ。
ガラスのローテーブル。
部屋の隅には、背の高い観葉植物のパキラ。
そして壁際を占領しているのは、巨大なシステムコンポーネントステレオだ。
KINGWOODのロゴが青白く光り、イコライザーのバーが上下に揺れている。
床には、流行りのシティポップのレコードが立てかけられていた。
LONG VACATIONと書かれたジャケットのイラストが、間接照明に照らされてお洒落に浮かび上がっている。
……住む世界が、違う
改めて突きつけられた気がした。
彼は、このバブルへ向かう煌びやかな時代の主人公。
私は、その背景にいるエキストラ。
ここに私が立っていること自体が、何かの間違いみたいだ。
『へえ、いい部屋じゃない』
不意に、明菜がシステムコンポのスピーカーの上に腰掛けた。
彼女は部屋を見回し、値踏みするように口笛を吹く。
『黒の家具に間接照明、そして最新のコンポ……。これ、典型的な女を落とすための部屋ね』
落とすため、って……
『洋子、心拍数が上がってるわよ。わかる? 貴女の家は「日常」だけど、ここは「非日常」。アウェイ戦なのよ。気をしっかり持たないと、このお洒落な空気に飲まれて、身ぐるみ剥がされるわよ』
明菜の警告はもっともだ。
でも、濡れた服が肌に張り付く冷たさと、エアコンの効いた部屋の温度差で、私の思考は朦朧としていた。
「佐々木さん、これ」
徹さんが戻ってきた。
手には分厚いバスタオルと、グレーのトレーナーを持っていた。
「服、乾かさないと風邪引きます。これ、俺のですけど……着替えてください」
「え、でも……」
「いいから。洗面所、あっちです」
強引に押し付けられ、私は逃げるように洗面所へ入った。
鏡に映った自分の顔を見て、愕然とした。
雨で化粧は崩れ、髪は濡れそぼり、顔色は青白い。
まるで幽霊だ。
こんな惨めな姿を、彼は見ていたのか。
震える手で、濡れたブラウスとスカートを脱ぐ。
冷え切った肌が空気に触れて粟立つ。
私は慌てて、彼から借りたトレーナーに袖を通した。
ふわり。
包まれた瞬間、彼の匂いが全身を覆った。
洗剤の清潔な香りと、彼自身の体臭。
それが鼻腔を満たし、脳髄を痺れさせる。
まるで、後ろから彼に抱きしめられているような錯覚。
サイズは私には大きすぎて、袖は指先まですっぽり隠れてしまう。
裾も太ももの真ん中あたりまである。
下はストッキングを脱いでしまったから、素足だ。
鏡の中の私は、さっきまでの疲れたOLではなく、無防備な「女」の顔をしていた。
『出たわね、男の夢「彼シャツ」』
明菜が鏡の中から私を見て、ニヤリと笑った。
『視覚効果による保護欲求刺激、プラス120点よ。ぶかぶかの服から覗く華奢な手足……これは男の本能を直撃するわ』
……恥ずかしい。こんな格好で出るなんて
『恥じらいなさい。その赤くなった頬が、最高の化粧なんだから。それにね、彼の匂いに包まれることで、貴女の脳は無意識に「所有された」と錯覚し始めてる。これは危険な儀式よ』
所有、された。
その言葉に、背筋がゾクゾクと震えた。
夫の服を洗濯する時は、ただの布としか思わないのに。
どうしてこのトレーナーは、こんなに熱を持っているんだろう。
私は深呼吸をして、覚悟を決めてリビングへ戻った。
徹さんは、キッチンで電気ポットでお湯を沸かしていた。
濡れたワイシャツのまま、背中を向けている。
「……あの、借りました」
声をかけると、彼が振り返った。
そして、私の姿を見て、数秒間固まった。
「あ、いや、その」
彼は珍しく動揺したように視線を泳がせ、耳まで赤くした。
「似合いますね、意外と」
「そうかな……?ブカブカだし。変じゃない?」
「変じゃないです。……すごく、いいです」
その瞳の熱っぽさに、私は居たたまれなくなって俯いた。
沈黙を埋めるように、お湯の沸く音が響く。
「髪、まだ濡れてますね」
彼はそう言うと、私をソファに座らせた。
そして、バスタオルを私の頭に乗せた。
「拭きますよ」
「自分でやります」
「いいから。俺が連れてきたんだから、俺に世話させてください」
彼は私の背後に回り、優しくタオル越しに髪を揉み込んだ。
ワシャ、ワシャ。
タオルの擦れる音。
そして、彼の温かい指先が、頭皮に触れる感触。
近い。
背中に彼の気配を感じる。
彼の呼吸音が聞こえる距離。
「ごめんなさい。強引に連れてきて」
頭の上から、低い声が降ってきた。
「ううん……ありがとう。助かった」
「次はドライヤーしましょう」
彼の手が止まった。
タオルが取り除かれ、濡れた髪が空気に晒される。
コンセントに繋がれたドライヤーのスイッチが入った。
ゴオオオオ……。
温風の音が、部屋の静寂を塗り替える。
それはまるで、私たち二人を世界から切り離す結界のようだった。
彼は私の髪を指で梳きながら、丁寧に温風を当てていく。
美容師さんのような手つきではない。
少し不器用で、でも愛おしむような手つき。
指が首筋に触れるたび、電流が走る。
気持ちいい。
夫に髪を乾かしてもらったことなんて、一度もない。
「邪魔だ」と言われたことはあっても、「綺麗だ」と触れられたことなんて、新婚当初だってなかった。
私は目を閉じて、この甘美な時間に身を委ねた。
ドライヤーの音が止まる。
「乾きました」
私が振り返ると、ソファの背もたれに手をついた彼と、至近距離で目が合った。
彼の前髪も乾き始めていて、さらりと揺れている。
整った顔立ち。
真っ直ぐな瞳。
時間が止まった。
雨音も、冷蔵庫の音も聞こえない。
ただ、互いの鼓動だけが聞こえる気がした。
「紅茶、淹れたので……持ってきます。」
彼が視線を外し、ローテーブルにマグカップを置いた。
アールグレイの香りが立ち上る。
「ありがとう」
私はカップを両手で包み込んだ。
温かい。
指先の冷えが、ゆっくりと溶けていく。
「佐々木さんがここにいるなんて……なんだか、夢みたいだ」
彼はソファの隣ではなく、床のカーペットの上に座り、私を見上げるように言った。
その位置関係が、なんだか彼に崇拝されているようで、くすぐったい。
「俺、ずっと考えてたんです。会社のデスクで佐々木さんの背中を見るたびに、いつかこうして、二人きりで話せたらなって」
「私も」
嘘じゃない。
私も、あなたの背中を見ていた。
広い背中。仕立てのいいスーツ。
その向こう側に、どんな生活があるのか想像していた。
彼の手が伸びてきた。
私の頬に、そっと触れる。
熱い。
火傷しそうなくらい。
「洋子さん」
初めて、名前で呼ばれた。
その瞬間、私の中の理性が完全に機能を停止した。
彼が顔を近づけてくる。
唇が、触れそうになる。
いい。
もう、いい。
一度だけなら。この夜だけなら。
私は「欠陥品」になって、彼と堕ちてしまいたい。
――その時だった。
ふと私の視界の端に、異物が映り込んだ。
黒い革張りのソファの、クッションの隙間。
そこに、一本の線が見えた。
茶色くて、緩くウェーブのかかった、長い髪の毛。
私の髪じゃない。
私は黒髪の直毛だ。
じゃあ、誰の?
瞬間、脳裏にフラッシュバックした。
洗面所に置いてあった、外国製のクレンジングクリーム。
洗面台の端にあった、ピンク色の歯ブラシ。
見ないふりをしていた「痕跡」たちが、一斉に牙を剥いて私に襲いかかってきた。
ここは、私の場所じゃない。
サーッ、と血の気が引いていくのがわかった。
さっきまでの熱が、嘘のように冷えていく。
この部屋には、日常的に女が出入りしている。
彼女はここに座り、彼の服を着て、このマグカップで紅茶を飲み、彼と笑い合っているのだ。
私はただの「侵入者」。
雨宿りに迷い込んだ、哀れな野良猫に過ぎない。
「……っ!」
私はパッと顔を背け、立ち上がった。
唇が触れる寸前だった彼は、驚いて私を見上げた。
「え? 洋子さん?」
「帰ります」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。
「やっぱり、だめ」
「ど、どうしたんですか急に。何か俺、気に障ること……」
彼が慌てて立ち上がり、私の腕を掴もうとする。
私はそれを振り払った。
「触らないで!」
「洋子さん……」
「……あるじゃない」
私は震える指で、クッションの上の「それ」を指差した。
「髪の毛。……彼女さんの、でしょ」
彼はハッとして視線をやり、そして凍りついたように動かなくなった。
その反応が、何よりの答えだった。
「洗面所にもあった。歯ブラシも、化粧品も。……ここは、あなたが彼女と愛を育んでる場所なんでしょ? なんで私を連れ込んだの? 私に見せつけたかったの?」
「ち、違います! そんなつもりじゃ!」
「じゃあ何? 私なら、彼女がいても遊べると思った? おばさんだから、ちょろいと思った?」
惨めだった。
嫉妬と自己嫌悪で、胸が張り裂けそうだった。
勝手に夢を見て、勝手に舞い上がって、勝手に傷ついている自分が、どうしようもなく滑稽だった。
「……着替えます」
私は洗面所に駆け込み、濡れたままの冷たいブラウスとスカートに着替えた。
ストッキングは破れてしまったから、素足のままパンプスを履いた。
気持ち悪い。
冷たくて、湿っぽくて、これが私の現実だ。
リビングに戻ると、彼は項垂れて立っていた。
「洋子さん、送ります。こんな夜に一人じゃ」
「来ないで!」
私は叫んだ。
「もう、関わらないで。仕事以外で話しかけないで」
「……」
彼は何も言えなかった。
あの「長い髪」という動かぬ証拠の前では、どんな言葉も言い訳にしかならないことを、彼もわかっていたからだ。
私は玄関を飛び出した。
重厚なドアが閉まり、オートロックの外に出る。
雨は上がっていた。
でも、アスファルトは濡れて黒く光り、空気は冷たいままだった。
私は走った。
駅へ向かう夜道を、なりふり構わず走った。
体にはまだ、あのトレーナーの感触と、彼の部屋の匂いが残っている気がした。
それが涙を誘う。
バカみたい。私、本当にバカみたい……
でも、消せなかった。
あのドライヤーの温風と、彼の指の感触。
そして、クッションに残っていた茶色い髪の毛への、焼き尽くすような嫉妬心。
私は知ってしまったのだ。
「与えられる喜び」と、「奪われる痛み」を同時に。
『……賢明な判断ね』
並走する明菜が、静かに言った。
彼女は、茶化したり笑ったりしていなかった。
『あそこで流されてたら、あんたはただの「都合のいい女」で終わってた。彼の暇つぶしのオモチャになってたわ』
わかってるから今は話しかけないで!
『でも、傷ついたでしょ? 悔しいでしょ?』
明菜は私の顔を覗き込む。
『その痛みこそが燃料よ。ただの憧れだった恋が、今、「執着」に変わった。……面白くなってきたじゃない』
私は涙を拭わずに、夜の闇の中を走り続けた。
遠くで、電車の走る音が聞こえていた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名: 佐々木 洋子(29)
職業: 事務職 / 嫉妬の女王(覚醒中)
現在のステータス
* メンタル: 複雑骨折中(夢と現実の落差により重傷)
* 恋愛感情: 変質(「好き」から「許せない、でも欲しい」へ)
* 嫉妬心: Sランク(「見知らぬ女」の影に対し殺意を感知)
明菜の分析ログ
「彼シャツ」からの「彼女の痕跡」。
天国から地獄への直通エレベーターね。
男ってのはバカな生き物で、新しい獲物を部屋に入れた興奮で、古い縄張りの痕跡を消すのを忘れるのよ。
でも、これで良かった。
洋子の中で、彼は「優しい王子様」から「私を傷つけた悪い男」になった。
憎しみと愛情は紙一重。この嫉妬心が、彼女を次のステージ(修羅場)へ引きずり込むわ。
次回、いよいよご対面ね。
その「茶色い髪の女」と。
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