夫に疲れ果てた昭和60年の私。脳内のボディコン美女に唆されて、年下上司と一線を超えました

ベルガ・モルザ

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第八記録【バブルの女王と、排気ガスの妻】

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 月曜日。
 空は、どんよりとした鉛色だった。
 私の心の色をそのまま映し出したような、重苦しい曇天。

 週末のあの夜、私は高橋係長の部屋から逃げ出した。
 彼が追いかけてくることはなかった。
 当然だ。
 あんな動かぬ証拠を見つけられて、どんな顔をして追いかければいいというのか。

 私はオフィスの自分の席で、機械のように伝票を整理していた。

 カシャッ、カシャッ。

 ホッチキスを留める音だけが、無機質に響く。

 視界の端に、高橋係長の姿が見える。
 彼はひどい顔色をしていた。
 いつもの爽やかな笑顔は消え、目の下には深いクマがあり、背中がひと回り小さくなったように見える。

 時折、彼が私の方を見ている気配がする。
 けれど、私は絶対に目を合わせない。
 合わせたら、またあの熱を思い出してしまうから。

 私は正しいことをしたんだ。
 あそこで逃げ出したのは正解だった。
 彼には彼女がいる。私には夫がいる。
 元のレールに戻っただけ。何も間違っていない。

『……なにその顔。お通夜?』

 書類の山の上から、明菜の声がした。
 彼女はつまらなそうに私を見下ろしている。

『自分に言い聞かせてるわね。「私は正しい」って。でも、その顔に書いてあるわよ。「傷ついた私を追いかけてきてほしかった」って』

 ……バカなこと言わないでよ。
 追いかけてこられたら迷惑なだけ。

『嘘つき。洋子は今、彼が憔悴してるのを見て、心のどこかで安心してる。私を失って傷ついてるんだって確認して、自尊心を満たしてるだけじゃない』

 図星を突かれて、ホッチキスの針がズレた。
 なんて意地悪な言い方をするんだろう。
 でも、否定できない自分が嫌になる。

 確かに私は、傷ついた彼の顔を見て、わずかにスッとした。
 私だけが苦しいんじゃない。彼も苦しんでいる。
 それが、この泥沼の中で唯一の救いだったからだ。

 定時のチャイムが鳴った。
 私は誰よりも早く席を立った。
 これ以上、この空間にいて彼の空気を吸いたくない。

 ロッカーで荷物をまとめ、足早に会社の玄関を出ようとした時だった。

 ドロロロロロ……!

 腹に響くような、重低音のエンジン音が響き渡った。
 会社の前の通りに、一台の車が滑り込んでくる。

 真っ赤なスポーツカー。
 流線型のボディに、パカッと開いたリトラクタブル・ヘッドライト。

 国産車なのか外車なのか私にはわからないけれど、それが「特別な車」であることは一目でわかった。

 灰色のオフィス街に、そこだけ鮮血を撒き散らしたような赤。

「なんだあれ……すごい車だな」
「誰の迎えだ?」

 一緒に退社した社員たちが足を止め、ざわめいている。

 私も、何かに吸い寄せられるように足を止めた。

 バタン。

 運転席のドアが開く。
 降りてきたのは、この世の春を謳歌しているような女性だった。

 20代前半だろうか。
 髪は腰まで届く長いソバージュヘア。
 前髪をスプレーで高く立ち上げ、太く描かれた眉が意思の強さを主張している。

 肩パッドの入ったショッキングピンクのスーツに、ジャラジャラと揺れるゴールドのネックレス。
 手にはシャネルのキルティングバッグ。

 派手だ。
 目が痛くなるほどに。

 地味な事務服を着て、スーパーの袋を隠し持っている私とは、生物としての種族が違う。

 彼女はサングラスを外すと、会社の入り口に向かって大声で叫んだ。

「とーおーるー! 遅いっ!」

 徹。

 その名前を聞いた瞬間、私の心臓が凍りついた。

 まさか。
 彼女が?
 あの部屋に残されていた、長い髪の主?

 私は咄嗟に、玄関脇の太い柱の陰に身を隠した。
 見ちゃいけない。でも、目が離せない。

 やがて、自動ドアが開いて高橋係長が出てきた。
 彼は赤い車と彼女を見て、あからさまに顔をしかめた。

「……絵里。会社の前まで来るなって言っただろ」

「いいじゃーん! だって電話繋がらないんだもん。徹、ずっと留守電にしてるでしょ?」

 絵里と呼ばれた彼女は、悪びれる様子もなく彼の腕に抱きついた。
 躊躇のない、所有者の仕草。

「予約したお店、時間過ぎちゃうよ? フレンチのコースなんだから遅れたらヤバいって」

「今日は疲れてるんだ。帰らせてくれ」

「はあ? 何言ってんの。私の誕生日、埋め合わせしてくれるって言ったじゃん」

 彼女は高橋係長のネクタイをグイッと引っ張った。

「乗って。エンジンかけっぱなしなんだから」

 それはお願いではなく、命令だった。

 女王様と、従者。
 あるいは、飼い主とペット。

 係長は深く溜息をつき、抵抗を諦めたように肩を落とした。

 彼は優しすぎるのだ。
 そして、この圧倒的なエネルギーを持った彼女に、飲み込まれている。

『うわ、出たわねバブルモンスター』

 明菜が私の隣に現れ、呆れたように彼女を見ている。

『脳みそ空っぽ、欲望全開。全身をブランドで固めて「私は高い女よ」って値札をぶら下げて歩いてるみたい』

 なんかムカつく、あんな女のどこがいいの?

『洋子。悔しいけど、今のこの時代じゃ「ああいう女」が勝ちなのよ』

 明菜の声が冷たく響く。

『声が大きくて、図々しくて、欲しいものを欲しいと叫べる女だけが、愛も男も手に入れる。ここはジャングルよ。慎ましさが美徳? 奥ゆかしさ? そんなのただの負け惜しみ。ここでは食ったもん勝ちなの』

 食ったもん勝ち。

 私の胸の中で、黒い感情が渦を巻いた。

 私は我慢しているのに。
 夫に尽くして、家事をこなして、自分の気持ちを殺して生きているのに。

 なんで、あんな我が儘な女が、徹さんの隣にいるの?
 なんで、徹さんはあんな女に従うの?

「ほら、早く!」

 絵里が助手席のドアを開け、徹さんを押し込もうとする。

 その時だった。

 ふと、徹さんが振り返った。
 何かを感じ取ったように、私の隠れている柱の方へ視線を向けた。

 バチリ。

 目が合った。

 距離は十メートルほど。
 でも、彼の表情ははっきりと見えた。

 困惑。謝罪。
 そして、救いを求めるような、悲痛な瞳。

 助けて。

 そう言っているように見えた。

 私は動けなかった。
 動けるわけがなかった。

 私はただの同僚で、既婚者で、地味なおばさんなんだから。

「何してんの! 行くよ!」

 ドンッ、と背中を押され、徹さんは車の中に飲み込まれた。

 バタン。

 重たいドアが閉まる音が、死刑執行の合図のように聞こえた。

 ブォン! ブォォォォン!!

 スポーツカーは威嚇するような排気音を上げ、急発進した。
 タイヤが軋む音を残し、赤いテールランプがあっという間に遠ざかっていく。

 後に残されたのは、鼻をつくガソリンの臭いと、排気ガスの煙だけ。

 私は柱の陰から出て、呆然とその煙を見つめた。

 咳き込むような臭いにおい
 それが、私の惨めさを際立たせる。

 ……負けた。
 何もかも、負けた。

 若さも、美しさも、強引さも。
 私には何もない。ただの古びた事務員だ。

 でも。

 涙は出なかった。

 代わりに、腹の底からドス黒いマグマのような熱が湧き上がってくるのを感じた。

 あんな女に。
 あんな、徹さんをアクセサリー扱いするような女に。

 彼を渡したくない。

 徹さんは、私を見ていた。
 最後の瞬間、彼女じゃなくて私を見ていた。

 あの目は、彼女を愛している男の目じゃない。
 ここから連れ出してほしいと願う、囚人の目だ。

『いい顔になったじゃない』

 明菜がニヤリと笑った。

『さっきまでの死んだ魚のような目は消えたわね。今のあんたの目、獲物を狙うハイエナみたいよ』

 私はバッグの紐を、指が白くなるほど強く握りしめた。

 許さない。
 私を傷つけたことも、彼があの女の車に乗ったことも。
 全部、許さない。

 私は排気ガスの臭いを肺いっぱいに吸い込み、決意した。

 ただ待っているだけの「いい妻」は、今日で終わりにする。

 奪ってやる。
 あの赤い車から、彼を引きずり下ろしてやる。

 

【明菜先生の研究メモ】

 被験者データ No.001
 氏名: 佐々木 洋子(29)
 職業: 事務職 /復讐者

 現在のステータス
 * 女子力: C(対抗心により、地味ながらも鋭い色気が発現)
 * 忍耐力: S → C(「待つ女」終了のお知らせ)
 * 戦闘意欲: 測定不能(バブルモンスターへの殺意を確認)

 明菜の分析ログ
「圧倒的な敗北」は、時に最高の劇薬になる。
 絵里という「わかりやすい敵」が現れたおかげで、洋子の中でくすぶっていた「罪悪感」が「闘争本能」に書き換わったわね。
 これでもう、彼女は「不倫は悪いこと」なんて迷わない。
「彼を救い出す」という大義名分を手に入れたんだから。
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