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第十九記録【真夏の下着と、夫の湿った手】
しおりを挟む八月に入り、夏は凶暴なまでの熱気を帯びていた。
ベランダに出ると、ムッとする熱風が全身にまとわりつく。
団地のコンクリートがフライパンのように熱せられ、ジリジリと空気を焦がしている。
蝉時雨が耳をつんざくほど喧しい。
私は額に浮いた汗を手の甲で拭いながら、洗濯物を物干し竿に並べていった。
夫のよれたトランクス。
首回りの伸びたTシャツ。
生活感の塊のような布きれの中に、一つだけ異質なものが混じっている。
黒いレースのランジェリー。
繊細な刺繍が施された、透け感のあるショーツとブラジャー。
以前の私が愛用していたベージュの綿パンツとは、まるで別の生き物だ。
これは、徹さんのために新調した勝負下着。
彼に見られるためだけに、デパートの売り場で勇気を振り絞って買ったものだ。
太陽の光を浴びて、黒いレースが艶かしく光る。
この一枚の布を見るだけで、夜の記憶が蘇る。
彼の指がこのレースをなぞり、ゆっくりと剥ぎ取っていく感触。
子宮の奥がキュンと疼いた。
その時。
背中に視線を感じた。
粘着質な、ねっとりとした気配。
振り返ると、網戸越しにリビングから夫がこちらを見ていた。
寝転がってテレビを見ていたはずが、いつの間にか起き上がり、じっと私の手元――黒い下着を凝視している。
「……」
目が合った。
彼は視線を外さない。
普段なら邪魔だとしか言わない夫が、獲物を品定めするような目をしている。
「派手だな。そんなの、持ってたか?」
網戸越しに、くぐもった声が響く。
ドキリと心臓が跳ねた。
「え? あ、ああ……これ?」
私は慌ててタオルで下着を隠すように干した。
「駅前のデパートで安売りしてたから。夏だし、少しは涼しいのがいいかなって」
口から出任せの言い訳。
声が裏返りそうになるのを必死で抑える。
「……ふーん」
剛は納得したのかしていないのか、曖昧に鼻を鳴らすと、再びゴロリと横になった。
テレビの野球中継の音が戻ってくる。
ふう、と深く息を吐いた。
冷や汗が背中を伝う。
バレたわけではない。
でも、夫のあの目つきが、皮膚の裏側に張り付いて離れない。
『うっわ、気持ち悪っ』
物干し竿の上に、日傘をさした明菜が座っていた。
彼女は剛の方を見て、露骨に顔をしかめている。
『あの視線、見た? 完全に品定めよ。自分の所有物が急に色づいたことに気づいて、センサーが反応したのね』
確かに、ちょっと嫌な感じだった。
かつては愛して結婚した人なのに、今の私には、彼がただの「不気味な同居人」に見えてしまう。
でも。
同時に、胸の奥で小さな棘がチクリと痛んだ。
悪いのは私だもの。
彼を騙し、他の男のために着飾っているのは私だ。
夫が妻の下着を見るのは、本来なら当たり前のこと。
それを気持ち悪いと感じてしまう自分こそが、不義理で、汚れた存在なのだ。
私は逃げるようにベランダから部屋に戻った。
夕方。
台所に立ち、夕飯の支度を始めた。
暑いので、メニューは冷やし中華だ。
キュウリを千切りにし、錦糸卵を焼く。
トントントン、という包丁のリズムだけが、気まずい沈黙を埋めてくれる。
剛はまだテレビを見ていた。
朝からビールを飲んでいるせいで、部屋の中に独特のアルコール臭が漂っている。
麺を茹でようと、大鍋にお湯を沸かしている時だった。
ぬっ。
背後から、突然ぬるい何かが巻き付いてきた。
「ひっ!?」
私は驚いて、菜箸を取り落としそうになった。
剛だ。
彼が後ろから、私の腰に腕を回して抱きついてきたのだ。
体が石のように硬直する。
警戒心が全身の毛穴を開かせる。
近い。
耳元で彼の荒い呼吸音がする。
そして、臭い。
三十五歳。まだ加齢臭という年齢ではないはずなのに、鼻をつく脂っぽい臭いと、安酒とタバコの入り混じった饐えた臭い。
徹さんの爽やかなコロンや、清潔な石鹸の香りとは対極にある、澱んだ生活臭。
「お前、なんか最近……肌艶いいな」
耳元で囁かれる声。
湿った空気が首筋にかかり、ぞわぞわと寒気が走る。
「化粧、変えたか?」
「そ、そう? 夏だから、汗かいてるだけよ」
私は強張った声で答えた。
早く離れてほしい。
彼の腕が、まるで蛇のように私を締め付けている。
「ふーん。……なんか、若返ったみたいだ」
彼はそう言うと、私の首筋に鼻を近づけ、クンクンと匂いを嗅ぐような仕草をした。
無理。
生理的な拒絶反応が、胃の腑から込み上げてくる。
私は彼を突き飛ばしたい衝動をこらえ、お湯が沸騰したフリをして体をずらした。
「お、お湯が……危ないから離れて」
するりと腕を抜ける。
剛は「ちぇっ」と不満げな声を上げたが、大人しく食卓に戻っていった。
シンクの縁に、明菜が腰掛けていた。
彼女は剛の背中を指差し、冷ややかな目で笑っている。
『……ひどい言われようね、三十五歳』
彼女は足をぶらつかせながら語りかける。
『未来の三十五歳男性はね、もっと清潔よ? スキンケアもするし、デオドラントも常識。ここまで「昭和のオヤジ臭」を放つ生物は、むしろ希少種かもね』
……匂いが嫌なだけじゃないわ。私の感覚がおかしいのよ。
『感覚ねぇ…… それもそうかもね』
そう、そうなの。
私は麺を冷水で洗いながら、自分に言い聞かせた。
夫の匂いが変わったわけじゃない。
私が、徹さんの匂いを知ってしまったから。
比較対象ができてしまったせいで、今まで平気だったものが、急に耐え難い悪臭に変わってしまったのだ。
『まあ、細胞レベルで拒絶してるのは確かね』
明菜は冷やし中華のハムをつまみ食いすると、その場から消えた。
食卓に向かい合い、冷やし中華をすする。
ズルズル、という剛の食べる音が、今日はやけに耳障りだ。
彼は上機嫌だった。
三本目のビールを開け、顔を赤くしている。
「いやー、洋子もまだまだ捨てたもんじゃないな」
彼は私の顔をしげしげと眺め、ニヤリと笑った。
「結婚した頃より、今の方が色気があるんじゃないか? なんかこう、女の匂いがするというかよ」
心臓が凍りつく。
褒め言葉のつもりなのだろう。
でも、私にはそれが「お前、外で何かしてるな?」という尋問に聞こえてしまう。
夫は鈍感だ。
私の心の変化にも、髪型の変化にも気づかない人だ。
けれど、雄としての本能は別なのかもしれない。
自分の縄張りにいる雌が、他の雄の匂いをさせていることに、無意識レベルで勘付いている。
恐怖で、麺の味がしなかった。
私は曖昧に微笑み、視線を皿に落とした。
夜。
就寝の時間。
電気を消し、布団に入る。
隣の布団には、剛が寝ている。
いつもなら、すぐに大いびきをかいて寝てしまうはずだ。
けれど、今夜は違った。
暗闇の中で、ゴソゴソと布が擦れる音がする。
彼が寝返りを打ち、こちらを向いた気配がした。
緊張で体が強張る。
来るな。来ないで。
願いも虚しく、布団の隙間から、ぬっと手が伸びてきた。
熱く、湿った手。
それが私のパジャマの裾を探る。
「……洋子」
酒臭い息が顔にかかる。
「……いいだろ?」
数年ぶりの接触。
新婚当初ですら義務的だった行為が、今夜に限って求められるなんて。
彼の手が、私の太ももに触れた。
ザラついた掌の感触。
瞬間、脳裏にフラッシュバックした。
徹さんの指先。
優しく、震えるように私に触れ、壊れ物を扱うように愛してくれた、記憶。
比較してしまった。
徹さんの慈愛に満ちた愛撫と、夫の無神経な欲望の処理。
天と地ほどの差。
気持ち悪い。
汚される。
思考よりも早く、体が反応した。
バシッ!!
私は反射的に、剛の手を払いのけていた。
乾いた音が、静かな寝室に響く。
「やめて!」
叫び声に近い拒絶。
自分でも驚くほど、強い嫌悪感が声に乗っていた。
剛が動きを止めた。
暗闇の中で、彼の目が驚きと、そして怒りに変わっていくのが気配でわかる。
「……あ?」
低い、ドスの効いた声。
「なんだよ。夫婦だろ」
正論だ。
妻には、夫の性的要求に応じる義務がある。法律的にも、道徳的にも。
それを拒む私は、完全に有責配偶者だ。
でも、無理なのだ。
理屈じゃない。
体が、細胞が、全神経がこの男を受け入れてはいけないと悲鳴を上げている。
「……疲れてるの」
私は布団を頭までかぶり、背中を向けた。
「ごめんなさい。……今日は、無理」
震える声で謝罪する。
剛はしばらく無言だったが、やがて大きく舌打ちをした。
「チッ。……調子乗んなよ」
吐き捨てるような言葉。
彼は乱暴に寝返りを打ち、私に背を向けた。
しばらくして、不機嫌そうないびきが聞こえ始めた。
私は暗闇の中で目を見開き、自分の体を抱きしめた。
触られた太ももが、火傷したように熱く、そして汚れている気がした。
どれくらい時間がたっただろうか。
私はたまらず布団を抜け出し、洗面所へ駆け込んだ。
「……おぇっ」
胃の中のものがこみ上げてくる。
吐くものは何もないのに、吐き気だけが止まらない。
生理的嫌悪感。
夫に触れられたという事実が、異物のように体内で暴れている。
浴室で私は太ももを、石鹸でゴシゴシと洗う。
何度も、何度も。
皮膚が赤くなるまで擦っても、あの湿った感触が消えない。
鏡を見る。
そこには、青白い顔をした、罪深い女が映っていた。
徹さんに抱かれた体で、夫に抱かれることはできない。
それは操を立てるなんて美しい話じゃない。
体が受け付けないという、動物としての拒絶反応だ。
私はもう、夫の妻として機能しない。
家事という労働力は提供できても、妻としての最も根源的な義務を果たせなくなってしまった。
『あらあら。大変ね』
湯船の方から声がした。
振り向くと、お湯の張っていないバスタブの中に、明菜が体育座りをしていた。
『医学的に説明するとね、これは「主要組織適合遺伝子複合体(MHC)」の拒絶反応に近いわ』
彼女は膝に顔を埋めながら、こもった声で解説する。
『女性は本能的に、より優秀な遺伝子を求める。今、アンタの遺伝子は徹を「最高」、夫を「不要」と判断した。だから夫の接触を「異物侵入」とみなして、免疫系が総攻撃を仕掛けてるのよ』
明菜は顔を上げ、真剣な眼差しで私を見た。
『夫は馬鹿じゃないわよ。男のプライドを傷つけられた恨みは深いの。釣った魚に餌はやらないくせに、他人に盗まれるのは絶対に許せない。それが男という生き物の、歪んだ独占欲よ』
明菜が、警告するように指を立てる。
『彼は悟ったかもしれないわね。妻の中に、自分以外の誰かが入り込んでいることを』
寝室に戻る。
夫はいびきをかいて寝ている。
その背中が、さっきまでとは違って、恐ろしい怪物のものに見えた。
そっと布団に入る。
私と剛の布団の隙間。
わずかの空間に、明菜が仰向けに寝転がった。
彼女は天井を見つめながら、独り言のように呟く。
『洋子。これでアンタの体は、完全に「徹専用」に書き換え完了ね』
徹専用。
その響きに、背徳的な甘さを感じてしまう自分が憎い。
『でも、妻の業務放棄は高くつくわよ?』
明菜は横目で私を見て、ニヤリと笑った。
『行き場を失った夫の性欲は、別の形で爆発するかもしれない。……暴力か、束縛か、それとも……探偵か』
私は耳を塞ぎ、目を閉じた。
徹さんに会いたい。
今すぐ彼に会って、この穢れた気分を上書きしてほしい。
夫の隣で眠る夜が、これほどまでに恐ろしく、孤独なものだとは知らなかった。
夏の夜の湿気が、私の罪をべっとりと包み込んでいた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:事務職 / 不適合者
■ 現在のステータス
・生理的嫌悪感: MAX(夫への接触拒否反応)
・妻としての機能: 停止(夜の営み不可)
・リスク: 増大(夫の疑惑レベルが上昇)
■ 明菜の分析ログ
「拒絶」は最大の告白よ。
言葉で何を誤魔化しても、体は嘘をつけない。
夫の手を払いのけたあの一瞬で、洋子は「私はあなたのものじゃない」と宣言してしまったの。
鈍感な夫でも、雄としての勘は働く。
自分の所有物が、急に色気づき、自分を拒むようになった。
その答えは一つしかないわよね。
さあ、いよいよ大詰め。
次は「証拠」が出てくる番よ。
隠しきれない残り香が、洋子を追い詰めるわ。
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