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第二十記録【落ちたレシートと、断罪のベル】
しおりを挟む昨夜の拒絶から一夜明けた、八月の日曜日。
昼下がりの午後。
駅前のスーパーマーケットは、買い物客でごった返していた。
自動ドアが開くと同時に、強烈な冷気が肌を刺す。
外の殺人的な猛暑から逃れてきた人々が、生鮮食品売り場の冷気に安堵の溜息を漏らしている。
けれど、私と夫の間にある空気だけは、冷凍庫の中のように凍てついたままだった。
私は精肉コーナーで立ち止まり、特売のステーキ肉を手に取った。
一枚千二百円。
普段の我が家の家計では絶対に手を出さない高級品だ。
これは、罪滅ぼしだ。
昨夜、夫の手を払いのけ、夫婦としての営みを拒絶したことへの、ささやかな賠償金。
美味しいものを食べさせれば、機嫌が直るかもしれない。
そんな浅はかな計算が、私の指先を動かす。
パックをカゴに入れる。
夫は無言でカートを押している。
その顔は不機嫌に歪み、視線はどこか虚空を彷徨っている。
昨夜の「調子乗んなよ」という捨て台詞が、まだ耳の奥で反響している気がした。
普通を演じなきゃ。
昨日のあれは、たまたま疲れていただけ。
生理的に無理だったわけじゃない。
そう思わせないと、この生活は破綻する。
私は必死に口角を持ち上げ、明るい声を絞り出した。
「ねえ、今日はステーキにしましょうか。スタミナつけないと、この暑さじゃバテちゃうもんね」
「……あぁ」
剛は私を見ずに、生返事をした。
カートを乱暴に押す。
キャスターがキュルキュルと悲鳴を上げている。
『怒ってる怒ってる』
カートのカゴの中の彼女は、玉ねぎやジャガイモの山の上にちょこんと座り、剛の顔を見上げてケラケラと笑っている。
『見てよあの顔。プライドをへし折られた男の典型的なスネ方ね。「俺は傷ついたんだぞ」って全身でアピールしてるわ』
茶化さないでよ。胃が痛いんだから。
『どうしてよー? 男のプライドが傷つく様は、いつ見てもアタシの身体を幸福に満たしてくれるわー』
明菜は手にしたジュリ扇をパタパタと扇ぎ、優雅に足を組んだ。
『自分が絶対的な王様だと思ってた場所で、突然反乱を起こされた王様の顔。傑作じゃない』
あんたくらいのメンタルがあれば、人生楽しいでしょうね。
私はため息をつき、レジの列に並んだ。
レジ打ちのパート女性が、手際よく商品をスキャンしていく。
ピッ、ピッ、という電子音がリズミカルに響く。
「お会計、4850円になります」
私はバッグから財布を取り出そうとした。
ここのスーパーは冷房が効きすぎていて肌寒いから、今日は薄手のカーディガンを羽織っていた。
財布はバッグの底に入り込んでいて、なかなか見つからない。
焦る。
後ろに人が並んでいる。
剛のイライラした視線を感じる。
あった。
私は財布を掴み出し、同時にカーディガンのポケットに手を入れていたハンカチも出そうとした。
その時だった。
ヒラリ。
ポケットから、一枚の白い紙切れがこぼれ落ちた。
私の意思とは無関係に、それは重力に従って床へと舞い落ちる。
白い、小さな紙片。
レシートだ。
あ。
思考が停止した。
血の気が引いていく。
それは、先週の金曜日。
残業の後、徹さんと二人で行った喫茶店のレシートだった。
いつものように捨てようとしたけれど、ゴミ箱が見当たらなくて、無意識にカーディガンのポケットに突っ込んだまま忘れていたものだ。
落ちたレシートは、無情にも表を向いていた。
剛が動いた。
私が拾うよりも早く、彼の手が伸びる。
「ん? なんだこれ」
彼がそれを拾い上げる。
「あ……!」
返して、と言う間もなかった。
彼はレシートを目線の高さに持ち上げ、印字された文字を読み取った。
『喫茶 モンシェリー』
『アイスコーヒー 2点』
『ミックスサンド』
『1985年 7月26日 20:30』
そして、店名の下にある住所。
『渋谷区円山町』。
円山町。
東京に住む大人なら、誰もが知っている地名。
そこは、ラブホテルがひしめき合う、欲望の街だ。
そしてこの喫茶店は、薄暗い照明と高い背もたれの「カップルシート」が売りで、ホテルに行く前のカップルが時間を潰すための場所として有名だった。
剛の目が、すぅっと細められた。
その瞳から、感情の色が消える。
「モンシェリー……? 円山町じゃねえか」
低い声。
怒鳴り声ではない。
爬虫類が獲物を見つけた時のような、冷たく、観察するような声。
彼はゆっくりと私の方を向き、レシートを突きつけた。
「お前、こんなとこ行ったのか? 金曜の夜に」
心臓が止まりそうになった。
冷や汗が毛穴という毛穴から噴き出す。
スーパーの喧騒が遠のき、耳鳴りだけが響く。
言い訳。
言い訳をしなきゃ。
納得できる、完璧な嘘を。
「え、ええ……」
私は引きつった笑顔を張り付けた。
声が震えているのが自分でもわかる。
「カオリと。久しぶりに会って、お茶しようってなって」
カオリ。
私の親友。
こういう時のためのスケープゴート。
「たまたま入ったの。場所なんて知らなくて……入ったら薄暗くて、二人でなんか気味悪いね、気まずいねなんて笑いながら……すぐ出たんだけど」
嘘の上塗り。
言葉を重ねれば重ねるほど、墓穴を掘っている気がする。
アイスコーヒー二つ。サンドイッチ一つ。
女二人にしては、妙な注文だ。
それに、カオリはこんな場所の喫茶店に入るようなタイプじゃない。
剛は無言だった。
じっと、レシートの印字を見つめている。
そして、ゆっくりと視線を上げ、私の顔を見た。
目が合わない。
彼は私の目ではなく、私の「動揺」を見ている。
「……ふーん」
彼は鼻で笑った。
信じていない。
明らかに、疑っている。
「カオリちゃんとか」
彼はレシートを二つ折りにし、さらに小さく折り畳んだ。
捨てるのかと思った。
ゴミ箱なら、すぐそこにある。
しかし、彼はそれを自分のズボンのポケットにねじ込んだ。
持って帰る気だ。
証拠として。
あるいは、後でカオリに確認するために。
「随分と、仲がいいんだな」
捨て台詞のように呟くと、彼は私に背を向けた。
「行くぞ」
カートを押して歩き出す背中。
怒っている背中ではない。
「何かを確信した」背中だった。
その背中から立ち上る黒いオーラが、私を押し潰そうとしている。
私は震える足で、彼の後を追った。
レジの女性が「ありがとうございましたー」と明るい声をかけたが、私には死刑宣告のようにしか聞こえなかった。
自宅のリビングには、窒息しそうなほどの緊張感が充満していた。
剛はソファに座り、ナイター中継を見ている。
いつも通りの光景。
でも、空気が違う。
彼はテレビを見ているようで、その実、台所に立つ私の背中を監視しているような気がする。
トントン、トントン。
私はまな板に向かい、野菜を切っていた。
手が震えて、リズムが乱れる。
包丁で指を切ってしまいそうだ。
あのレシート。
彼はどうするつもりなのだろう。
カオリに電話する?
それとも、探偵に持ち込む?
喫茶店の名前から、何かを調べる?
不安が黒い霧となって、思考を覆い尽くす。
『……いよいよ、チェックメイトが近いわね』
包丁のリズムに合わせて、シンクの横に明菜が現れた。
さっきまでのふざけた態度は消え失せ、彼女は真剣な表情をしていた。
紫のスーツが、夕闇の中で不吉に沈んでいる。
『綱渡りのロープ、完全に切れかかってるんじゃない?』
明菜はリビングの剛を一瞥し、声を潜めた。
『あの男の目、見た? あれは疑ってる目じゃないわ。証拠を探してる目よ』
わかってる。わかってるから。
『昨日の夜の拒絶。そして今日のレシート。点と点が線で繋がった。鈍感な男でも、ここまで材料が揃えば答えを導き出せるわ』
私は包丁を置いた。
もう、料理なんてできる精神状態じゃない。
ジリリリリリリ!!
突然、リビングの黒電話が鳴り響いた。
夕闇を切り裂く、断罪のベル。
ビクッ!
私は心臓が止まるかと思った。
息を飲む。
動けない。
誰?
こんな時間に。
もし、カオリだったら?
剛が先に出て、「先週の金曜日、洋子と会ってた?」なんて聞いたら終わりだ。
それとも、徹さん?
まさか。休日にかけてくるはずがない。
でも、もし間違い電話や、無言電話だったら?
今の剛なら、その「無言」の意味を敏感に察知するだろう。
振り向く。
剛が、ソファから身を乗り出し、受話器に手を伸ばしているのが見えた。
やめて。
出ないで。
『そろそろ覚悟を決めなさい』
明菜が私の耳元で、冷酷に告げた。
『バレて地獄を見るか、自分から地獄(離婚)へ飛び込むか。……もう、現状維持なんて甘い夢は終わりよ』
剛の手が、受話器に触れる。
「……剛さんっ!」
私は震える声で、彼の名前を呼んだ。
それが静止の合図になるのか、自白の始まりになるのかもわからずに。
電話は、まだ鳴り続けていた。
ジリリリリリリ……。
その音が、私の日常が崩壊していくファンファーレのように聞こえた。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:事務職 / 容疑者
■ 現在のステータス
・疑惑度:99%(レシートという物的証拠により確定)
・夫婦関係:崩壊寸前(冷戦から諜報戦へ移行)
・精神状態:パニック(逃げ場なし)
■ 明菜の分析ログ
「ポケットの中のレシート」。
不倫ドラマの古典的ミスだけど、実際にやると心臓が止まるわね。
ラブホテル街の喫茶店。
カップルシート。
言い逃れできない状況証拠。
そして何より、それを「捨てずにポケットに入れた」夫の心理。
彼はもう、洋子を妻として見ていない。
「裏切り者」としてロックオンしている。
この電話が誰からであれ、
受話器を取った瞬間、佐々木家の食卓は法廷に変わるわ。
さぁ、覚悟はいい? 洋子。
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