21 / 35
第二十一記録【攻撃は最大の防御】
しおりを挟むジリリリリリリ!!
夕闇に沈むリビングで、黒電話のベルが鳴り響く。
それはまるで、私の心臓を直接鷲掴みにするような、暴力的な音だった。
剛の手が、ゆっくりと受話器に伸びる。
私は動けない。
まな板の上の鯉のように、ただその光景を見つめることしかできない。
誰?
カオリ? 徹さん? それとも――。
剛が受話器を取り、耳に当てた。
「……はい、佐々木ですが」
低い、不機嫌な声。
張り詰めた沈黙が部屋を支配する。
私は息を潜め、彼の表情の変化を食い入るように見つめた。
一秒、二秒。
剛の眉がピクリと動いた。
「……あぁ。なんだ、カオリちゃんか」
私の心臓が大きく跳ねた。
さっき、スーパーで「金曜日に会った」と嘘の口実に使った相手だ。
まずい。
もし剛が、「金曜日、洋子がお世話になって」なんて言ったら。
カオリは正直だ。「え? 会ってないよ?」と答えるに決まっている。
剛の声色が、少しだけ柔らかくなる。
「おう、久しぶりだな。……え? 飲み?」
彼はチラリと私の方を見た。
その視線には、探るような色が混じっている。
「いいよ、俺は空いてるけど。……洋子? ああ、いるよ。……え? 三人で? 次の日曜か。……わかった、伝えとくわ」
剛は頷き、ガチャリと受話器を置いた。
プー、プー、プー。
通話の切れた音が、幻聴のように残る。
私は強張った顔で、必死に平静を装った。
カオリは何も言わなかったのだろうか?
「久しぶり」という会話の流れからすると、金曜日の話は出ていないのかもしれない。
三人で飲みに行こうという誘いなだけに、私の心臓は落ち着いた。
剛がゆっくりと振り返る。
「……カオリちゃんだったよ」
「そ、そう……。珍しいね、日曜の夕方に」
私はエプロンの裾を握りしめながら答えた。
声が上ずらないように、腹に力を入れる。
「今度の休み、三人で飲みに行こうだってさ。俺も含めて」
剛はテーブルの上のタバコに手を伸ばしながら、何気ない口調で続ける。
「最近会ってないから、積もる話もあるだろうしって」
助かった。
私は心の中で大きく安堵の息を吐いた。
カオリは余計なことを言わなかったのだ。
それどころか、私の嘘を補強するような誘いをしてくれた。
これなら、「金曜日に会った時に盛り上がって、またすぐ剛さんも誘おうって話になったのよ」と言い訳ができる。
私は強張っていた頬を緩め、笑顔を作った。
「あ、そうだった。金曜日に会った時も、そんな話してたかも。『剛さんとも久しぶりに飲みたいね』って。……楽しみだね」
完璧だ。
これでレシートの件も誤魔化せるかもしれない。
そう思った、次の瞬間だった。
バンッ!!
剛がテーブルを拳で叩いた。
灰皿が飛び跳ね、吸い殻が散乱する。
私は悲鳴を上げて身を竦めた。
剛が私を睨みつけている。
その目は、さっきまでの無関心なものではない。
獲物を追い詰め、喉笛に食らいつこうとする獣の目だ。
「……嘘つくなよ」
地を這うような低い声。
「え……?」
「さっきの電話。……ただの間違い電話だ」
時が止まった。
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「……え?」
「向こうが無言で切ったんだよ。カオリちゃんなんて、掛けてきてねえ」
剛は口元を歪め、冷酷に笑った。
「俺が、お前の嘘を確かめるために芝居打っただけだ」
サーッと、頭から血の気が引いていくのがわかった。
罠だ。
鎌をかけられた。
私が「金曜日にカオリと会った」と言ったのが本当なら、間違い電話に対して「カオリと話した」なんて嘘をつくはずがない。
私がそれに同調した時点で、私は「嘘をついている」と自白したも同然なのだ。
剛はズボンのポケットから、あのクシャクシャになったレシートを取り出し、テーブルの上に投げ捨てた。
白い紙切れが、私の罪状のように横たわる。
「やっぱりな。カオリちゃんと会ったなんて大嘘だ」
彼はゆっくりと立ち上がり、私に詰め寄った。
酒の臭いと、怒りの臭いが押し寄せてくる。
「お前、金曜日どこ行ってたんだ? この『円山町』で」
彼の指が、レシートの住所をトントンと叩く。
「誰と会ってた? まさか一人でカップルシートの喫茶店に入って、サンドイッチ食ったわけじゃねえよな?」
逃げ場がない。
完全に詰んだ。
思考が真っ白になる。
謝る?
土下座して、魔が差したんですと泣いて許しを請う?
……いいえ。
そんなことをしたら、私は一生この男の奴隷になる。
一生、「不貞を働いた女」として頭を上げられず、彼の顔色を伺って生きていくことになる。
あの徹さんとの美しい思い出も、すべて「汚らわしい不倫」として断罪され、踏みにじられる。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
その瞬間。
私の脳内で、パチンと何かのスイッチが切り替わった。
守るんじゃない。
攻めるのよ。
被害者は私。
こんな罠を仕掛けるような陰湿な男に、私を裁く権利なんてない。
汚い思考だとわかっている。
でも、生き残るためにはこれしかなかった。
私は両手で顔を覆い、肩を震わせた。
恐怖の震えを、怒りの震えに変換する。
「……ひどい!」
私は顔を上げ、涙の滲んだ目で彼を睨み返した。
「私を、試したの!?」
剛が面食らったような顔をする。
「はあ? 嘘ついてたのはお前だろ! 俺は事実を――」
「信じてないからでしょう!?」
私は彼の言葉を遮り、金切り声を上げた。
「夫婦なのに! 十年間も連れ添ってきたのに! レシート一枚で、そこまで私を疑うなんて!」
論点のすり替え。
浮気したかどうかという事実から、妻を信用しない夫の酷さという感情論へ。
「私がどんな気持ちで、毎日あなたの料理を作ってると思ってるの!? あなたのパンツを洗って、掃除して、家を守ってると思ってるの!?」
私はエプロンを乱暴に引きちぎり、床に叩きつけた。
「カオリと会ったって言ったのは、あなたがうるさいからよ! 一人で考え事をしたい時だってある! それを、いちいち誰といたか報告しなきゃいけないの!?」
支離滅裂だ。
自分でも何を言っているのかわからない。
でも、勢いだけは止めない。
止めたら、負ける。
剛は口を開けたまま、呆気にとられている。
まさか、謝罪ではなく逆ギレされるとは思っていなかったのだろう。
「もう無理。……こんな、私のことを犯罪者みたいに見る人のご飯なんて、作れない!」
私は台所を飛び出し、寝室へと走った。
「おい、待てよ! 話は終わってねえぞ!」
背後で剛の怒鳴り声が聞こえるが、無視だ。
私はクローゼットからボストンバッグを引っ張り出し、手当たり次第に着替えを詰め込んだ。
下着、化粧ポーチ、財布。
そして、徹さんの電話番号が書かれた手帳。
これさえあれば、どこへでも行ける。
剛が寝室に入ってきた時には、私はもう荷物をまとめていた。
「ふざけんなよ洋子! 逃げる気か!」
彼が私の腕を掴もうとする。
私はそれを激しく振り払った。
「触らないで!」
昨夜の拒絶よりも強く、明確な拒絶。
「頭を冷やしてくる。……今日は実家に帰るから、探さないで!」
もちろん、実家になんて行かない。
あんな田舎に帰れば、すぐに連れ戻される。
それに、親に心配なんてかけられない。
私は剛を押しのけ、玄関へと走った。
サンダルを突っ掛け、ドアノブを回す。
「おい! 洋子!」
バタンッ!!
鉄の扉を、親の敵のように叩きつけて閉めた。
私はエレベーターも待たず、階段を駆け下りた。
外の熱気が、私を包み込む。
夕暮れの空は、血のように赤く染まっていた。
夜21時。世田谷区。
高級マンションのエントランス前。
団地の湿った空気とは違う、洗練された都会の夜風が吹いている。
私は公衆電話の受話器を握りしめていた。
『……もしもし、洋子さん?』
受話器の向こうから、心配そうな徹さんの声が聞こえる。
その声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸が切れ、本物の涙が溢れてきた。
「……徹さん。……今から、行っていい?」
『えっ、もちろん……何かあったんですか? 声が』
「……会いたい。今すぐ」
十分後。
マンションのオートロックが開き、私はエレベーターで彼の部屋へ向かった。
玄関のドアが開く。
部屋着姿の徹さんが立っていた。
「洋子さん!」
彼は私のボストンバッグと、泣き腫らした目を見て、事態を察したように私を招き入れた。
私は靴も脱がずに、彼の胸に飛び込んだ。
「……怖かった」
彼の温もりが、冷え切った心を溶かしていく。
石鹸の香り。
清潔なコットンの感触。
夫のあの脂ぎった臭いとは違う、私の居場所の匂い。
「夫と……喧嘩しちゃった」
私は彼の胸に顔を埋めたまま、用意していた嘘を吐いた。
「些細なことで怒鳴られて……。お前は俺の所有物だ、みたいなこと言われて。……怖くなって、家を飛び出してきちゃった」
自分が不倫を疑われたことや、レシートが見つかったことは言わない。
ただ、横暴な夫に耐えかねた可哀想な妻を演じる。
彼は優しいから、絶対に私を責めない。
「そうだったんですね」
徹さんは私の背中を優しく撫でた。
その手つきには、同情と、そして私を守ろうとする使命感が宿っていた。
「大丈夫ですか? ……今日はもう、ここにいてください。俺がついてますから」
その言葉を待っていた。
私は小さく頷き、彼に身を委ねた。
リビングのソファに座り、彼が淹れてくれた温かいコーヒーを飲む。
エアコンが効いた部屋は涼しく、快適だ。
ここには、私を責める視線も、生活に疲れた臭いもない。
ここはシェルター。
そして、共犯者の隠れ家。
ふと、視線を感じて見上げると、キャビネットの上に明菜が座っていた。
彼女はワイングラスを片手に、私を見下ろしてニヤリと笑った。
『……すごいわね』
彼女は感心したように、ため息混じりに溢す。
『自分の浮気がバレかけたのに、夫を加害者にして、堂々と不倫相手の家に逃げ込むなんて』
明菜はグラスを掲げた。
『アンタ、自分が思ってるよりずっと悪女の才能あるわよ。生存本能が理性を凌駕してる』
私はコーヒーカップを両手で包み込んだ。
罪悪感。
そんなものは、この部屋の快適さと彼の優しさに比べれば、埃みたいなものだ。
私は助かったのだ。
そして、堂々と彼のそばにいられる理由を手に入れた。
徹さんが心配そうに私の顔を覗き込む。
私は彼に向けて、弱々しく、でも計算された儚い笑みを向けた。
「……ありがとう。徹さんがいてくれて、よかった」
そう。
この場所こそが、今の私にとっての現実であり正義なのだ。
団地に残された夫が、今頃どんな顔をしているかなんて、知ったことではない。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:事務職/亡命者
■ 現在のステータス
・演技力:Sランク(窮地での「逆ギレ」と「被害者演技」が開花)
・住居:世田谷区(一時的な避難所だが、永住を希望中)
・夫への情:消滅(ただの「敵」として認識)
■ 明菜の分析ログ
「攻撃は最大の防御」とはよく言ったものね。
図星を突かれた時ほど、人間は怒る。
心理学的に説明すると、これは「防衛機制」の一種、「投影」の暴走よ。
自分が抱えている不貞を直視する苦痛から逃れるために、その感情を相手に転嫁して、「私を信用しないあなたが悪い!」と攻撃する。
そうすることで、脳内で「私は加害者じゃなく被害者だ」という認知の書き換え(正当化)を瞬時に行ったのよ。
さらに言えば、扁桃体が恐怖で発火して「闘争・逃走反応」が起きた状態ね。
理性(前頭葉)をシャットダウンして、生き残るために「逆ギレ(闘争)」からの「家出(逃走)」を選んだ。
見事な生存本能だわ。
夫の鎌かけは鋭かったけど、詰めが甘かったわね。
洋子に「逃げる口実」を与えてしまった。
さて、ここからが本当の地獄よ。
逃げ込んだ先は楽園に見えるけど……そこにも先客の影があることを、洋子はまだ知らない。
クローゼットの中の、居心地はどうかしら?
0
あなたにおすすめの小説
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
腹黒上司が実は激甘だった件について。
あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。
彼はヤバいです。
サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。
まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。
本当に厳しいんだから。
ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
胸がきゅんと、甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちだというのに。
入社して配属一日目。
直属の上司で教育係だって紹介された人は、酷く人相の悪い人でした。
中高大と女子校育ちで男性慣れしてない私にとって、それだけでも恐怖なのに。
彼はちかよんなオーラバリバリで、仕事の質問すらする隙がない。
それでもどうにか仕事をこなしていたがとうとう、大きなミスを犯してしまう。
「俺が、悪いのか」
人のせいにするのかと叱責されるのかと思った。
けれど。
「俺の顔と、理由があって避け気味なせいだよな、すまん」
あやまってくれた彼に、胸がきゅんと甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちなのに。
星谷桐子
22歳
システム開発会社営業事務
中高大女子校育ちで、ちょっぴり男性が苦手
自分の非はちゃんと認める子
頑張り屋さん
×
京塚大介
32歳
システム開発会社営業事務 主任
ツンツンあたまで目つき悪い
態度もでかくて人に恐怖を与えがち
5歳の娘にデレデレな愛妻家
いまでも亡くなった妻を愛している
私は京塚主任を、好きになってもいいのかな……?
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる