22 / 35
第二十二記録【アラベスク・ロマネスク】
しおりを挟む世田谷のマンションの一室には、焼きたてのトーストとコーヒーの香りが満ちていた。
私はキッチンに立ち、フライパンの上でスクランブルエッグをかき混ぜている。
身につけているのは、徹さんのYシャツ一枚だけ。
サイズが大きくて、裾が太もものあたりまである。いわゆる彼シャツというやつだ。
袖をまくり上げる仕草ひとつにも、甘い陶酔が含まれている気がした。
鼻歌が漏れる。
昨夜の地獄のような修羅場が、まるで嘘みたいだ。
洗面台には、彼の青い歯ブラシの隣に、私のオレンジの歯ブラシが並んでいる。
昨日の夜、コンビニで買ったものだ。
その二本が寄り添っている姿を見るだけで、胸の奥がキュンと締め付けられる。
リビングの窓からは、都会のビル群が見える。
団地の窓から見える、灰色のコンクリート壁と物干し竿の風景とは大違いだ。
ここは、私の新しい居場所。
夫という敵から逃げ出し、愛する人と築く、新しい城。
ベッドルームの方を見る。
徹さんはまだ、シーツにくるまってまどろんでいる。
昨夜、泣きじゃくる私を抱きしめ、何度も愛してる、守ると囁いてくれた彼。
その体温の余韻が、まだ私の肌に残っている。
腰のあたりが気だるく、そして甘く疼く。
『……ふふん。ロマンティック浮かれモードね』
私の右隣に、明菜が肘をついて立っていた。
彼女は私の着ているYシャツの裾を摘まみ、ニヤニヤと笑っている。
『昨日の夜は散々だったのに、一夜明けたらこの有様。女の適応能力って怖いわね』
明菜は指を折りながら、昨夜からの出来事を振り返る。
『夫に逆ギレして家出。泣き落としでカレの家に転がり込み、ベッドで慰められて、朝には新婚さんごっこ。ジェットコースターも裸足で逃げ出す展開よ』
そうだね。
私はフライパンから卵を皿に移しながら、心答えた。
自分でも驚くほど、心が軽い。
罪悪感なんかない。
そんなもの、ここにある幸せに比べたら塵みたいなものだ。
私はトーストにバターを塗り、徹さんを起こしに行こうとした。
その時だった。
ピンポーン。
静かな部屋に、無機質な電子音が響き渡った。
インターホンの音だ。
ビクッとして動きを止める。
こんな朝早くに、誰?
新聞の勧誘? それとも……まさか、剛?
ベッドルームから、徹さんが弾かれたように飛び出してきた。
髪はボサボサで。
「……誰だ?」
彼はインターホンの受話器を取り、小さなモニターを覗き込んだ。
瞬間、彼から血の気が引くのが見えた。
「……まずい。絵里だ」
絵里。
あの赤いスポーツカーの女。
別れ話がもじれていると言っていた、元カノ。
「えっ……どうして」
「洋子さん、隠れて! クローゼットの中に!」
徹さんは私の腕を掴み、寝室へと引きずり込んだ。
「え、ちょっと……」
「お願いです、見つかったら殺される! 早く!」
彼の必死の形相に、私は事態の深刻さを悟った。
コンロの火は消しただろうか。
そんなことを考える暇もなく、私は寝室のウォークインクローゼットに押し込まれた。
バタン。
扉が閉められる。
一瞬にして、視界が闇に包まれた。
狭い。
暗い。
クローゼットの中は、防虫剤の匂いと、徹さんの服に染み付いたコロンの香りが充満していた。
ハンガーに掛かったスーツやコートが、亡霊のように私を取り囲んでいる。
心臓が早鐘を打つ。
ドクン、ドクン、ドクン。
うるさい。静かにして。聞こえてしまう。
私は膝を抱え、息を殺した。
ルーバー(通気口のついた扉)の隙間から、わずかに寝室の様子が見える。
徹さんが慌ててリビングの方へ戻っていくのが見えた。
ガチャリ。
玄関の方で、金属音がした。
鍵が開く音だ。
え?
徹さんはインターホンに出ただけで、解錠ボタンを押していないはずだ。
まさか。
合鍵。
彼女はまだ、この部屋の鍵を持っているの?
「とおるー! 起きてるー?」
元気な、そして甘ったるい声が響いてきた。
パタパタという足音。
我が物顔で廊下を歩く音。
「学校行くついでに寄っちゃった!」
リビングに入ってきたのは、派手な服装の若い女だった。
隙間から見える姿。
腰まで届く長いソバージュヘア。前髪をスプレーで高く立ち上げ、太く描かれた眉。
ボディコンシャスなミニスカートから、健康的な太ももが伸びている。
年齢は確か二十二歳で、女子大生だったはず。
若さという、暴力的なまでのエネルギーの塊。
「……勝手に入ってくるなよ」
徹さんの声が聞こえる。
拒絶しているようだが、どこか力がない。
「もう別れただろ。鍵、返せって言ったじゃないか」
「えー? だってまだ荷物あるじゃん。私のドライヤーも、シャンプーも」
絵里は悪びれる様子もなく、部屋の中を見回している。
「あ、いい匂い。……ねえ、朝ごはん作ってるの?」
彼女がキッチンの方へ歩み寄る気配がした。
まずい。
二人分のトースト。
二人分のコーヒーカップ。
「……自分で食う分だよ。腹減ってるから多めに作っただけだ……」
徹さんが苦しい言い訳をする。
「ふーん。でも二つあるし……あっ! 私の分でしょ!」
「違うよ。……帰ってくれ」
「冷たいなぁ」
絵里が不満そうに唇を尖らせるのが、声の調子でわかる。
「先週の火曜日、泊めてくれた時は優しかったのに」
――え?
クローゼットの中で、私の呼吸が止まった。
先週の火曜日?
記憶を巻き戻す。
先週の火曜日。
剛が「今日は飯いらない」と言った日だ。
私はチャンスだと思って、会社帰りに徹さんをご飯に誘った。
でも、彼は断ったのだ。
『ごめん、今日は大学時代の男友達が遊びに来るから、無理なんだ』
男友達?
嘘だったの?
あの夜、私は一人で寂しい夕食をとりながら、彼を想っていたのに。
彼はこの部屋で、この女を泊めていたの?
全身の血が逆流するような感覚。
足元が崩れ落ちていくような絶望感。
「あれは……」
徹さんの声。
否定していない。
泊めたことは事実なのだ。
「でもぉ、なんだかんだ言って入れてくれたじゃん」
絵里の声が、甘く絡みつく。
「徹はさ、寂しがり屋だから。私がいなきゃダメなんだって。ね?」
彼女が徹さんに抱きついた気配がした。
衣擦れの音。
突き飛ばせ。
「触るな」と。
「俺には好きな人がいる」と。
祈るような気持ちで、隙間から彼を見る。
彼は、抵抗しなかった。
されるがままになっている。
「……そういうんじゃない。離れろよ」
言葉だけは拒絶しているが、態度は受け入れている。
優柔不断。
事なかれ主義。
これが、彼の本性なのか。
私はクローゼットの中で膝を抱え、耳を塞ぎたくなった。
でも、塞げない。
残酷な真実が、容赦なく鼓膜を叩く。
彼は私を愛しているんじゃない。
ただ、寂しさを埋めてくれる誰かなら、誰でもいいのだ。
私が都合よくそばにいたから、手を出しただけ。
この若い彼女の代用品として。
自分が、惨めな愛人に成り下がったことを自覚させられる。
ここは楽園なんかじゃない。
別の地獄だ。
「ちぇっ。まあいいや、授業あるから行くね」
絵里がパッと離れる気配がした。
「また来るから。じゃあねー」
チュッ。
乾いた音が響いた。
キスの音だ。
頬か、唇か。
吐き気がした。
「じゃあね、とおる」
バタン。
玄関のドアが閉まる音。
嵐が去った後のような静寂が戻ってくる。
私は動けなかった。
暗闇の中で、体が冷え切っていた。
さっきまでの「浮かれモード」は跡形もなく消え失せ、代わりにドロドロとした不信感が胸を満たしていた。
数分後。
寝室のドアが開き、徹さんが入ってきた。
彼はクローゼットの前に立ち、ためらいがちに扉を開けた。
光が差し込む。
まぶしい。
でも、私の心は闇の中だ。
「……洋子さん。もう、大丈夫です」
彼はバツが悪そうな、困ったような顔で私を見下ろしていた。
その顔は、危機を乗り越えたとでも言いたげな安堵に満ちている。
私はゆっくりと立ち上がった。
足が痺れていて、うまく力が入らない。
「……行ったの?」
「はい。すみません、あんな……勝手に入ってきて」
彼は頭を掻きながら、必死に弁解を始めた。
「合鍵、まだ持ってて……返せって言ってるんですけど、なかなか返してくれなくて。困りますよね、もう関係ないのに」
関係ない?
キスさせておいて?
「……さっき、泊めたって言ってたけど」
私は震える声で切り込んだ。
これだけは、確認せずにはいられなかった。
徹さんの目が泳ぐ。
「ああ、あれ……。あれは、嘘ですよ」
彼は即答した。
「彼女、すぐ話を盛るから。俺の気を引こうとして、わざと言ってるんです。泊めたなんてこと、別れてからあるわけないじゃないですか」
嘘だ。
女の勘が告げている。
絵里のあの口調は、明らかに「既成事実」を語っていた。
それに、彼のあの時の反応。
あれは、泊めたことを認めていた証拠だ。
彼は私に嘘をついている。
私を安心させるための、優しい嘘。
保身のための、汚い嘘。
問い詰めたい。
嘘つき、と叫んで、この部屋を出て行きたい。
でも。
出て行って、どこに行くの?
夫の待つ団地?
それとも、実家?
私にはもう、帰る場所がない。
この優柔不断な男の腕の中しか、逃げ場所がないのだ。
私は唇を噛み締め、感情を飲み込んだ。
プライドを捨て、真実を見ないふりをする。
「……そうなんだ」
私は引きつった笑顔を張り付けた。
「大変ね、モテる男は。……ストーカーみたいにされて」
徹さんはホッとしたように表情を緩めた。
「本当ですよ。……信じてくれますか?」
「うん。信じる」
嘘つきは、私の方だ。
彼は嬉しそうに私を抱きしめた。
その温もりは、さっきまでと同じはずなのに、今はどこか薄ら寒く感じられた。
彼シャツの襟元から、ほんのりと違う女の香水の匂いがするような気がして、私は息を止めた。
『……やれやれ』
クローゼットのハンガーパイプに、明菜がぶら下がっていた。
彼女は憐れむような目で、抱き合う私たちを見下ろしている。
『優しい男っていうのはね、誰にでも優しいの。「優柔不断」と「優しさ」は、成分表示が同じなのよ』
彼女はゆらゆらと揺れながら、残酷な事実を告げる。
『ここも地獄、あっちも地獄。……さあ洋子、アンタはどっちの地獄で踊るの?』
私は徹さんの背中に回した手に力を込めた。
爪が食い込むほど強く。
どっちの地獄でもない。
私は、この男を私だけのものにする。
あの女からすべてを奪い取ってやる。
不信感は、やがて歪んだ執着へと変わっていく。
クローゼットの闇は、私の心の中に住み着いてしまったようだった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:事務職 / 密航者
■ 現在のステータス
・SAN値(正気度):低下(クローゼット内での精神的圧迫により)
・疑心暗鬼:Aランク(徹の言葉をすべて疑い始めている)
・執着心:覚醒(「信じる」のではなく「奪う」方向へシフト)
■ 明菜の分析ログ
「クローゼットの密室」。
それは浮気相手が味わう、最も屈辱的な特等席よ。
目の前で本命(元カノ)が彼に触れ、彼がそれを拒まない。
その事実を「見えないふり」をして許すことで、二人の主従関係は決定づけられたわ。
洋子はもう、対等なパートナーじゃない。
「都合のいい女」のポジションに片足を突っ込んでる。
でもね、追い詰められた女の執念をナメちゃいけない。
彼女が飲み込んだ「疑念」は、体の中で腐敗して……猛毒に変わるわよ。
次はどんな手で、彼を縛り付けるつもりかしら?
0
あなたにおすすめの小説
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
腹黒上司が実は激甘だった件について。
あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。
彼はヤバいです。
サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。
まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。
本当に厳しいんだから。
ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
**********
この作品は、他のサイトにも掲載しています。
子持ち愛妻家の極悪上司にアタックしてもいいですか?天国の奥様には申し訳ないですが
霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
胸がきゅんと、甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちだというのに。
入社して配属一日目。
直属の上司で教育係だって紹介された人は、酷く人相の悪い人でした。
中高大と女子校育ちで男性慣れしてない私にとって、それだけでも恐怖なのに。
彼はちかよんなオーラバリバリで、仕事の質問すらする隙がない。
それでもどうにか仕事をこなしていたがとうとう、大きなミスを犯してしまう。
「俺が、悪いのか」
人のせいにするのかと叱責されるのかと思った。
けれど。
「俺の顔と、理由があって避け気味なせいだよな、すまん」
あやまってくれた彼に、胸がきゅんと甘い音を立てる。
相手は、妻子持ちなのに。
星谷桐子
22歳
システム開発会社営業事務
中高大女子校育ちで、ちょっぴり男性が苦手
自分の非はちゃんと認める子
頑張り屋さん
×
京塚大介
32歳
システム開発会社営業事務 主任
ツンツンあたまで目つき悪い
態度もでかくて人に恐怖を与えがち
5歳の娘にデレデレな愛妻家
いまでも亡くなった妻を愛している
私は京塚主任を、好きになってもいいのかな……?
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる