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第二十三記録【ひまわり畑の逃避行と、枯れない疑念】
しおりを挟むオフィスの空気は、澱んだ水槽のように重苦しかった。
クローゼット事件の直後。
私たちは示し合わせたように時間をずらして出社した。
徹さんは私の斜め前の席に座っているが、一度も目が合わない。
私が意識的に避けているからだ。
彼が視線をこちらに向けようとする気配を感じるたび、私はわざとらしく書類の山に顔を埋める。
今朝の優しい嘘が、喉の奥に小骨のように引っかかって取れない。
「おい、佐々木君」
不意に、野太い声が降ってきた。
部長だ。
脂ぎった顔で、空になった湯呑みを私のデスクに置く。
「お茶。熱めで頼むよ」
いつもの命令。
お茶くみは女の仕事。それがこの会社の、いや、この時代の常識。
いつもなら、「はい、ただいま」と笑顔で立ち上がるところだ。
でも、今の私は違う。
夫に逆ギレして家を飛び出し、不倫相手の嘘を飲み込んで、精神のバランスが崩壊寸前の女だ。
プツン。
脳内で、何かが切れる音がした。
私はゆっくりと顔を上げた。
能面のような無表情で、部長を見据える。
「……部長」
静かな声だった。
「ご自分で淹れられたらいかがですか?立派な手足がおありでしょう?」
部長がポカンと口を開けた。
周囲の社員たちが、動きを止める。
「な、なんだと?」
「聞こえませんでしたか?」
私はペンを置き、冷ややかに続けた。
「私だって忙しいんです。あなたのお茶の温度調節をしてる暇はありません」
部長の顔が赤くなっていく。
「な、生意気な……!熱いのがいいって言ってるだけだろ!」
「そうですか」
私は書類の束を、ドンッ、とデスクに叩きつけた。
「そんなに熱いのがお好きなら、ご自分の脇の下にでも挟んで、体温で温めたらどうですか。きっと適温になりますよ」
シーン……。
オフィスが凍りついた。
絶対零度。
お局様の安藤さんでさえ、メガネをずり落として固まっている。
『ぶっ……あはははは!』
爆笑したのは、明菜だけだった。
彼女は部長のデスクの上に座り、腹を抱えて笑い転げている。
『ナイスパンチ! 最高よ洋子!ストレス発散の矛先が全部おっさんに向かってるわね!今の部長の顔見た? 茹でダコみたい!』
私は涼しい顔で業務に戻った。
もう、どうでもいい。
夫の家も捨てた。
貞操観念も捨てた。
会社での評判なんて、今さら守る価値もない。
チラリと徹さんを見る。
彼は驚いた顔で私を見ていたが、その目には少しだけ怯えが混じっていた。
そうよ。
私を怒らせたらこうなるの。
よく覚えておきなさい。
***
その日の夜。
部屋には、ニンニクとバジルの香ばしい匂いが漂っていた。
徹さんがキッチンに立ち、エプロン姿でフライパンを振っている。
ジェノベーゼのパスタ。
サラダと、白ワイン。
おしゃれなディナー。
今朝のクローゼット事件への、精一杯の罪滅ぼしなのだろう。
私たちは向かい合って座り、パスタを口に運んだ。
「……どうですか? 味」
徹さんが不安そうに尋ねる。
「うん。美味しい」
嘘だ。
味なんてしない。
疑念というスパイスは強烈で、どんな料理の味も台無しにしてしまう。
フォークが皿に当たるカチャカチャという音だけが、気まずい沈黙を埋めていく。
耐えきれなくなったのか、徹さんがワイングラスを置いて切り出した。
「……あの、洋子さん」
「何?」
「今週の金曜日。有給、取りませんか?」
私は手を止めた。
「どうして?」
「どこか……遠くに行きましょう。二人だけで」
彼は真剣な眼差しで私を見つめた。
「今朝のこと、挽回させてください。……洋子さんを、笑顔にしたいんです」
笑顔。
私の笑顔が消えたのは、あなたの嘘のせいなのに。
でも、断る理由もなかった。
この部屋に閉じこもっていても、私の疑念は膨らむばかりだ。
「どこに行くつもり?」
「ひまわり畑です。山梨の方に、いいところがあるらしくて。今が見頃だって」
ひまわり。
真夏の花。
私は小さくため息をつき、ワインを一口飲んだ。
「わかった。……行く」
徹さんの表情が、パァッと明るくなる。
その無邪気な笑顔が、今朝、絵里に向けられていたかもしれないと思うと、胸がチクリと痛んだ。
有給を取った日の金曜日。
徹さんの白いマークIIは、中央道を走っていた。
天気は快晴。
入道雲がモクモクと湧き上がり、夏真っ盛りといった空だ。
目的地に着くと、そこは黄金色の海だった。
一面のひまわり畑。
何万本、いや何十万本あるのだろう。
見渡す限り、黄色、黄色、黄色。
太陽の光を浴びて、目が痛くなるほど鮮やかだ。
私は白いワンピースの裾を押さえ、麦わら帽子のつばに手をやった。
少女のような装い。
三十歳には痛いかもしれないけれど、彼が似合うと言ってくれたから。
「うわぁ、すごいですね!」
徹さんがはしゃいだ声を上げる。
彼はカメラを取り出し、風景を切り取り始めた。
絶景だ。
本当に、美しい。
でも。
私の心には、分厚い雲がかかったままだった。
『……圧巻ね』
ひまわりの花の上に、明菜がちょこんと座っていた。
彼女は日傘を回しながら、あたりを見渡す。
『ひまわりの学名は「ヘリアンサス・アニュウス」。太陽の花。花言葉は「あなただけを見つめる」。……皮肉なもんねえ』
明菜はサングラスをずらして、私を見る。
『今のアンタの気持ち、代弁してあげましょうか?「あなただけを見つめる」なんて嘘っぱち。この何万本ものひまわりが、全部「目玉」に見えるんでしょ?』
ドキリとした。
その通りだった。
こっちを向いている大きな花たちが、すべて巨大な眼球に見える。
私を責めているのだ。
――夫を捨てて逃げた女。
――若い男にすがりつく哀れな女。
――騙されていることに気づかないフリをする女。
無数の視線が、私を射抜く。
息苦しい。
「洋子さん、こっち向いて!」
徹さんがカメラを構え、私に向けた。
私は反射的に顔を背けたくなった。
疑念が脳裏をよぎる。
彼は、絵里ともここに来たのかな。
あの時も、こんな風に笑って写真を撮ったのかな。
私は、上書き保存されるためのデータに過ぎないの?
過去の女の影が、真夏の太陽の下でも消えない。
徹さんがカメラを下ろし、私に近づいてきた。
彼は私の麦わら帽子のリボンを直し、そっと頬に触れた。
「……洋子さん」
心配そうな声。
「笑ってください。洋子さんは、笑ってる顔が一番綺麗です」
その言葉に嘘はない。
彼の瞳は、私だけを映している。
澄んだ、綺麗な瞳。
でも、私にはそれがご機嫌取りにしか聞こえなかった。
後ろめたいことがあるから、優しくするんでしょ?
悔しい。
信じられない自分が悔しいし、
それでも彼に触れられると胸がときめいてしまう自分の体が悔しい。
私は彼の手に自分の手を重ねた。
「暑いね」
「そうですね」
私たちは人目を避けるように、ひまわり畑の奥へと進んだ。
背の高いひまわりが壁になり、二人だけの空間ができる。
太陽の匂いと、土の匂い。
蝉の声が遠のく。
彼が立ち止まり、私を抱き寄せた。
汗ばんだ肌が触れ合う。
不快ではない。
むしろ、その湿り気が背徳感を煽る。
キス。
太陽の下での、大胆な口づけ。
彼の唇は柔らかく、そして情熱的だった。
私を愛おしむように、何度も角度を変えて重なる。
溶けてしまいそうだ。
疑念も、不安も、この熱の中に溶かしてしまいたい。
唇が離れる。
お互いに、荒い息を吐いている。
私は彼を見上げ、彼のシャツの胸元をぎゅっと握りしめた。
「徹さん」
「はい」
「私を……裏切らないでね」
それは懇願ではなかった。
呪いのような、重い命令。
徹さんの表情が、一瞬だけ止まった。
でも、すぐに彼は目を細め、愛おしそうに私を抱きしめ直した。
「……もちろんです」
彼は私の髪にキスを落とす。
「俺には、洋子さんしかいませんから」
甘い言葉。
完璧な回答。
でも、私にはわかってしまった。
彼が一瞬、言葉に詰まったその間の意味を。
彼は嘘をついているわけじゃない。
ただ、今は私しかいないと、言い聞かせているのだ。
その背後にある、絵里という存在や、世間体という雲を、必死で見ないようにしながら。
『……枯れるわね』
ひまわりの茎に捕まりながら、明菜がポツリと呟いた。
『彼は太陽(アンタ)を見てるようで、実はその周りの雲(絵里やリスク)を気にしてる。……この夏が終わる頃、枯れるのはこの花か、それとも二人の愛か』
明菜は黄色い花びらを一枚むしり取り、風に飛ばした。
『ま、今はせいぜい、この偽りの黄金郷を楽しむことね』
私は徹さんの背中に腕を回し、目を閉じた。
まぶたの裏に、黄色い残像が焼き付いている。
ひまわりたちは見ていた。
嘘と秘密で塗り固められた、私たちの逃避行を。
そして、それが長くは続かないことを、静かに嘲笑っているようだった。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:事務職 / 亡命者
■ 現在のステータス
・視界:フィルター異常(美しい景色も疑念で曇って見える)
・精神状態:依存と不信の板挟み
・衣装:白ワンピと麦わら帽子(「清純」を演じるための舞台衣装)
■ 明菜の分析ログ
「綺麗な景色」ほど、心に余裕がない時には残酷な鏡になるわね。
ひまわりの明るさが、洋子の心の闇をくっきりと浮き彫りにした。
「裏切らないで」という言葉はね、
「裏切られるかもしれない」と思っている人しか使わないの。
信頼関係のあるカップルは、そんな確認作業なんてしない。
その言葉を口にした時点で、洋子はもう、彼を信じていないってことよ。
さあ、夏休みはまだ始まったばかり。
次はどんな「裏切り」の証拠が出てくるのかしら?
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