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第二十五記録【WAKUWAKUさせてよ
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八月九日、金曜日。
お盆休み前の最終出社日。
午後三時のオフィスは、熱気と埃っぽさに包まれていた。
窓の外では、入道雲が凶暴なまでに膨れ上がり、アスファルトを溶かすような陽射しが照りつけている。
冷房はフル稼働しているはずだが、大掃除のために窓を開け放ったり、人が動き回ったりしているせいで、室温は上がる一方だ。
私は給湯室のシンクに向かい、クレンザーをつけたスポンジでステンレスを磨いていた。
ゴシゴシ、という単調な音が、私の鬱屈した心を少しだけ削ってくれる気がする。
あの日。
剛にレシートを突きつけられ、逆ギレして徹さんの家に逃げ込んだあの日から、一週間が経とうとしていた。
翌日、私は何食わぬ顔で家に帰った。
剛は怒鳴るかと思ったが、拍子抜けするほど静かだった。
それどころか、「実家で少しは頭冷えたか?」なんて、妙に落ち着いた声で迎えてくれたのだ。
離婚話を切り出そうと構えていた私は、出鼻をくじかれた。
それ以来、なんとなくタイミングを逃し続けている。
夫はいつも通りの飯、風呂、寝るのサイクルに戻り、私はまた、仮面夫婦の妻を演じている。
でも、徹さんには「ちゃんと話す」と約束してしまった。
彼の期待を裏切っているようで、胸が痛い。
「佐々木さーん」
背後から声をかけられた。
経理部の堀さんだ。
三十代半ば、ショートカットで快活な一児の母。
そして、社内一の情報通でもある。
「ここ、終わったら冷蔵庫の中もやっときます?」
「あ、はい。お願いします」
私は手を止めずに答えた。
堀さんは私の隣に来て、声をひそめた。
「ねえ、不倫してるの」
ドクン。
心臓が跳ね上がった。
手が滑り、スポンジをシンクに落としてしまう。
「えっ!?」
私は強張った顔で堀さんを見た。
バレた?
誰かに見られた?
徹さんとの関係が?
「……って聞いたんだけど」
堀さんは楽しそうに続ける。
「部長よ、部長。あの寿退社したエミちゃんと不倫してたんだって」
……え?
全身の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになった。
私じゃ、ない。
「あ、あの……エミちゃん、結婚したんじゃ……」
「それがねー、真っ赤な嘘だったらしいのよ」
堀さんはスポンジを手に取りながら、得意げに話し始めた。
「実はね、結婚前に奥さんにバレちゃって、修羅場になったんだって。で、手切れ金代わりに退職させられたってわけ。寿退社なんて体のいいカモフラージュよ」
そういえば。
ここ数日、部長の姿を見かけても、以前のような脂ぎった覇気がなく、顔色が土気色だったことを思い出す。
エミちゃんのあの幸せそうな笑顔も、演技だったということか。
「なんで……バレたんですか?」
恐る恐る尋ねる。
他人事ではない。私の喉はカラカラに乾いていた。
「なんでも、奥さんが探偵雇ってたんですって」
ヒュッ、と息を吸い込んだ。
探偵。
その二文字が、鋭利な刃物となって私の鼓膜を突き刺す。
「怖いー。やっぱり女の勘って当たるのよね。こそこそ隠れてても、プロにかかれば一発よ。写真撮られて、言い逃れできなくなって、慰謝料ガッポリ請求されたらしいわ」
堀さんはケラケラと笑っているが、私には死刑宣告にしか聞こえなかった。
もし。
もし、剛が探偵を雇っていたら?
あのレシート事件の後、彼は妙に静かだ。
怒りもしないし、追及もしてこない。
それが逆に不気味だ。
まさか。
あのケチな夫が、高いお金を払って探偵なんて雇うはずがない。
そう自分に言い聞かせるが、指先の震えが止まらない。
『……あらあら』
シンクの縁に、明菜が腰掛けていた。
彼女は私の青ざめた顔を覗き込み、冷ややかに笑う。
『人の振り見て我が振り直せ、ってね。……アンタの背中にも、もうレンズが向けられてるかもよ? 望遠レンズの冷たいガラス玉が』
やめて。
脅さないで。
私は逃げるように水道の蛇口を全開にした。
ジャーッ! という水音が、明菜の声と私の不安をかき消していく。
夕方。
徹さんの車で、最寄り駅まで送ってもらう。
他の社員に見つからないよう、少し離れた路地裏で降ろしてもらうのが、私たちのルールだ。
車内は冷房が効いていて快適だが、私の心はさっきの探偵の話で冷え切っていた。
「……明日からお盆休みですね」
ハンドルを握る徹さんが、少し寂しそうに呟く。
「そうね……」
「洋子さんは、ご主人とどこか行かれるんですか?」
「ううん。特には……」
生返事しかできない。
夫の予定なんて聞いていないし、聞きたくもない。
「そうですか……。もし、行けるなら」
信号待ちで車が止まると、彼が私を見た。
少年のような、期待に満ちた目。
「洋子さんと、川遊びに行きたいです。涼しいし、誰もいないような場所を知ってるんです」
川遊び。
なんて魅力的な響きだろう。
日常を忘れて、冷たい水に足を浸す。
彼と二人きりで。
でも、現実は厳しい。
お盆休みはずっと夫が家にいるだろう。
三食作って、機嫌を取って、針の筵(むしろ)のような日々を過ごさなければならない。
「……行きたいけど。わかんない」
私は曖昧に濁した。
「そっか……。まあ、もし都合がついたら連絡ください。待ってますから」
彼の健気さが、胸を打つ。
車を降りる時、彼の手がそっと私の手に触れた。
その温もりだけを頼りに、私は家路についた。
帰宅すると、剛はすでにビールを開けて野球中継を見ていた。
テーブルには枝豆の皮が散乱している。
「おかえり」
「……ただいま」
剛はチラリと私を見ただけで、すぐに視線をテレビに戻した。
その横顔には、以前のような険悪さはなく、どこか上機嫌に見える。
「あのさ」
剛がビールを煽りながら切り出した。
「俺、今年のお盆は一人で青森の実家に帰るわ」
「えっ?」
私は目を丸くした。
着替えようとしていた手が止まる。
「一人で?」
「ああ。オヤジがちょっと体調崩したみたいでな。見舞いも兼ねて行ってくる」
剛の実家は青森だ。
ここからは遠い。
新幹線を使っても半日はかかる。
「そ、そう……。大丈夫なの? お義父さん」
「大したことねえよ。ただの夏バテだろ」
剛はプハッと息を吐き、ニヤリと笑った。
「お前はこっちでゆっくりしろよ。たまには一人の時間も欲しいだろ?」
ドキリとした。
剛の目が、笑っていない気がした。
底知れない暗闇が、瞳の奥に潜んでいるような。
でも、その言葉の意味を深く考えるよりも先に、私の脳内では別の計算が弾き出されていた。
夫がいない。
お盆の間ずっと。
青森に行けば、少なくとも三日か四日は帰ってこない。
自由だ。
完全なる自由。
これは罠かもしれない。
「泳がされている」のかもしれない。
でも、今の私にとって、それは渡りに船だった。
目の前に垂らされた蜘蛛の糸に、縋り付かずにはいられない。
「……わかった。気をつけて行ってきてね」
私は努めて冷静に答えたが、声が弾むのを抑えるのに必死だった。
剛が風呂に入った隙に、私は足早で、徹さんに電話をかけた。
『はい、高橋です』
「徹さん! 私、行ける!」
『えっ?』
「夫が、実家に帰るの。一人で。だから……」
『本当ですか!?』
受話器の向こうで、徹さんの声が裏返った。
『じゃあ、明日からずっと一緒にいられますね!』
「うん……!」
罪悪感の欠片もなかった。
あるのは、明日への期待と、高揚感だけ。
翌日。
徹さんの白いマークⅡは、奥多摩の山道を走っていた。
都心から二時間。
窓を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。
緑の匂い。土の匂い。
車を止め、獣道のような小道を下っていくと、そこには秘密の楽園があった。
透き通った渓流。
白い岩肌。
木漏れ日が水面をキラキラと照らしている。
他には誰もいない。
蝉時雨と、川のせせらぎだけが世界を満たしている。
「うわぁ、綺麗……!」
私は思わず声を上げた。
昨日のオフィスの澱んだ空気とは別世界だ。
今日の私は、白いサンドレスを着ている。
その下には、昨日慌ててタンスの奥から引っ張り出した水着を着ていた。
徹さんはTシャツに短パン。
少年のような格好が、眩しい。
大きな岩の上にシートを広げ、お弁当を開く。
今朝、早起きして作ったものだ。
卵焼き、唐揚げ、おにぎり。
定番のおかずだけど、愛情だけはたっぷり込めた。
「いただきます!」
徹さんは大きなおにぎりを頬張り、目を輝かせた。
「うまい! 洋子さんの料理、毎日食べたいなあ」
その言葉に、胸が熱くなる。
いつかではなく、今の幸せ。
こうして二人で笑い合って、美味しいものを食べて。
これが、私が求めていた夫婦の形だったのかもしれない。
食後、私たちは靴を脱いで川に入った。
「冷たっ!」
氷水のように冷たい。
足首がキーンと痛くなるほどだ。
「ほら、洋子さん!」
徹さんが水をすくって、私にかけてきた。
「あっ、冷たい! もう、やったなー!」
私も負けじと水をかけ返す。
バシャバシャと水しぶきが上がり、お互いの服を濡らしていく。
キャッキャと騒ぐ私たちは、まるで夏休みの子供みたいだ。
年齢も、立場も、背負っている罪も忘れて。
ふと、徹さんの動きが止まった。
私のサンドレスが濡れて、肌に張り付いていた。
薄い生地の下から、水着のラインと、柔らかな曲線のシルエットが透けて見える。
徹さんの視線が、私の胸元から腰へと滑る。
その目が、さっきまでの少年の目から、急に雄の目に変わった。
喉がゴクリと鳴る音が聞こえた気がした。
周囲には誰もいない。
岩陰の死角。
彼は無言で私に近づき、濡れた腰を引き寄せた。
「……洋子さん」
低い声。
彼の体温が、冷たい水の中で際立つ。
「……冷たい」
私が震える声で言うと、彼は私の耳元に唇を寄せた。
「温めます」
熱いキスが降ってくる。
濡れた服同士が擦れ合う音が、水音に紛れていやらしく響く。
太陽の下での情事。
誰かに見られるかもしれないというスリルが、背徳感を極限まで高める。
私は彼にしがみつき、青空を見上げた。
入道雲が、私たちを見下ろしている。
これが、最後の夏休みになるかもしれない。
そんな切ない予感が、私の情熱をさらに燃え上がらせた。
日はすっかり落ちて、あたりは闇に包まれていた。
私たちは山の中腹にある、夜景が見えるスポットに車を止めた。
眼下に広がる街の灯り。
宝石箱をひっくり返したような、無数の光の粒。
あの光の一つ一つに、誰かの生活がある。
剛の実家のある青森の方角はどっちだろう。
彼は今頃、何をしているのだろう。
徹さんがシートを倒し、私を引き寄せた。
車内は狭く、密着度が高い。
「……帰りたくないですね」
彼が私の髪を撫でながら呟く。
「このまま、時間が止まればいいのに」
私も同じ気持ちだった。
家に帰りたくない。
誰もいない家でも、そこには剛の気配が染み付いている。
私は決心した。
この夏は、全部彼に捧げよう。
後先なんて考えない。
「……徹さん」
私は彼の目を見つめた。
「昨日も言ったけど夫、いないの。お盆の間ずっと」
「それはつまり……」
「だから……泊まっていい?」
徹さんの目が大きく見開かれた。
そして、爆発するような喜びが顔いっぱいに広がる。
「もちろんです! ずっといてください! 俺の家に!」
彼は私を強く抱きしめた。
骨が軋むほどの強さ。
「じゃあ、明後日の夏祭りも一緒に行きましょう! 近くの神社であるんです」
「夏祭り……」
「浴衣、着てくれますか? 洋子さんの浴衣姿、見たいです」
浴衣。
もう何年も着ていない。
でも、彼のためなら。
「うん。……着る」
私たちは夜景を背に、再び口づけを交わした。
終わらない夏休み。
破滅へと向かう、甘い逃避行の始まりだった。
車のボンネットの上に、明菜が座っていた。
彼女は夜景を見下ろし、呆れたようにため息をつく。
『最後の晩餐ならぬ、最後の夏休みね』
彼女は夜空を見上げた。
一筋の流星が、不吉な尾を引いて流れていく。
『夫が本当に実家に帰ったかどうかも確かめずに、よくやるわ。……青森行きの切符、払い戻されてたりしてね?』
明菜の言葉は、夜風にかき消された。
洋子は徹の腕の中で、ただ幸せな夢を見続けることを選んだ。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:事務職/夏の逃亡者
■ 現在のステータス
・脳内麻薬:全開
(「探偵」の恐怖を快楽で上書き保存中)
・警戒心:欠如
(夫の不在を無邪気に信じ込んでいる)
・背徳感:Sランク
(真昼の情事により覚醒)
■ 明菜の分析ログ
「探偵」という単語に震え上がったくせに、
目の前に「餌(夫の不在)」がぶら下がると、すぐに飛びつく。
学習能力のない女ね。
でも、それが恋という病気の特徴よ。
リスクが高ければ高いほど、燃え上がる。
「これが最後かもしれない」という切なさが、最高のスパイスになるの。
濡れた服、夜景、そしてお泊まり。
材料は揃ったわ。
さあ、盛大な花火を打ち上げましょうか。
……自爆という名のね。
八月九日、金曜日。
お盆休み前の最終出社日。
午後三時のオフィスは、熱気と埃っぽさに包まれていた。
窓の外では、入道雲が凶暴なまでに膨れ上がり、アスファルトを溶かすような陽射しが照りつけている。
冷房はフル稼働しているはずだが、大掃除のために窓を開け放ったり、人が動き回ったりしているせいで、室温は上がる一方だ。
私は給湯室のシンクに向かい、クレンザーをつけたスポンジでステンレスを磨いていた。
ゴシゴシ、という単調な音が、私の鬱屈した心を少しだけ削ってくれる気がする。
あの日。
剛にレシートを突きつけられ、逆ギレして徹さんの家に逃げ込んだあの日から、一週間が経とうとしていた。
翌日、私は何食わぬ顔で家に帰った。
剛は怒鳴るかと思ったが、拍子抜けするほど静かだった。
それどころか、「実家で少しは頭冷えたか?」なんて、妙に落ち着いた声で迎えてくれたのだ。
離婚話を切り出そうと構えていた私は、出鼻をくじかれた。
それ以来、なんとなくタイミングを逃し続けている。
夫はいつも通りの飯、風呂、寝るのサイクルに戻り、私はまた、仮面夫婦の妻を演じている。
でも、徹さんには「ちゃんと話す」と約束してしまった。
彼の期待を裏切っているようで、胸が痛い。
「佐々木さーん」
背後から声をかけられた。
経理部の堀さんだ。
三十代半ば、ショートカットで快活な一児の母。
そして、社内一の情報通でもある。
「ここ、終わったら冷蔵庫の中もやっときます?」
「あ、はい。お願いします」
私は手を止めずに答えた。
堀さんは私の隣に来て、声をひそめた。
「ねえ、不倫してるの」
ドクン。
心臓が跳ね上がった。
手が滑り、スポンジをシンクに落としてしまう。
「えっ!?」
私は強張った顔で堀さんを見た。
バレた?
誰かに見られた?
徹さんとの関係が?
「……って聞いたんだけど」
堀さんは楽しそうに続ける。
「部長よ、部長。あの寿退社したエミちゃんと不倫してたんだって」
……え?
全身の力が抜け、膝から崩れ落ちそうになった。
私じゃ、ない。
「あ、あの……エミちゃん、結婚したんじゃ……」
「それがねー、真っ赤な嘘だったらしいのよ」
堀さんはスポンジを手に取りながら、得意げに話し始めた。
「実はね、結婚前に奥さんにバレちゃって、修羅場になったんだって。で、手切れ金代わりに退職させられたってわけ。寿退社なんて体のいいカモフラージュよ」
そういえば。
ここ数日、部長の姿を見かけても、以前のような脂ぎった覇気がなく、顔色が土気色だったことを思い出す。
エミちゃんのあの幸せそうな笑顔も、演技だったということか。
「なんで……バレたんですか?」
恐る恐る尋ねる。
他人事ではない。私の喉はカラカラに乾いていた。
「なんでも、奥さんが探偵雇ってたんですって」
ヒュッ、と息を吸い込んだ。
探偵。
その二文字が、鋭利な刃物となって私の鼓膜を突き刺す。
「怖いー。やっぱり女の勘って当たるのよね。こそこそ隠れてても、プロにかかれば一発よ。写真撮られて、言い逃れできなくなって、慰謝料ガッポリ請求されたらしいわ」
堀さんはケラケラと笑っているが、私には死刑宣告にしか聞こえなかった。
もし。
もし、剛が探偵を雇っていたら?
あのレシート事件の後、彼は妙に静かだ。
怒りもしないし、追及もしてこない。
それが逆に不気味だ。
まさか。
あのケチな夫が、高いお金を払って探偵なんて雇うはずがない。
そう自分に言い聞かせるが、指先の震えが止まらない。
『……あらあら』
シンクの縁に、明菜が腰掛けていた。
彼女は私の青ざめた顔を覗き込み、冷ややかに笑う。
『人の振り見て我が振り直せ、ってね。……アンタの背中にも、もうレンズが向けられてるかもよ? 望遠レンズの冷たいガラス玉が』
やめて。
脅さないで。
私は逃げるように水道の蛇口を全開にした。
ジャーッ! という水音が、明菜の声と私の不安をかき消していく。
夕方。
徹さんの車で、最寄り駅まで送ってもらう。
他の社員に見つからないよう、少し離れた路地裏で降ろしてもらうのが、私たちのルールだ。
車内は冷房が効いていて快適だが、私の心はさっきの探偵の話で冷え切っていた。
「……明日からお盆休みですね」
ハンドルを握る徹さんが、少し寂しそうに呟く。
「そうね……」
「洋子さんは、ご主人とどこか行かれるんですか?」
「ううん。特には……」
生返事しかできない。
夫の予定なんて聞いていないし、聞きたくもない。
「そうですか……。もし、行けるなら」
信号待ちで車が止まると、彼が私を見た。
少年のような、期待に満ちた目。
「洋子さんと、川遊びに行きたいです。涼しいし、誰もいないような場所を知ってるんです」
川遊び。
なんて魅力的な響きだろう。
日常を忘れて、冷たい水に足を浸す。
彼と二人きりで。
でも、現実は厳しい。
お盆休みはずっと夫が家にいるだろう。
三食作って、機嫌を取って、針の筵(むしろ)のような日々を過ごさなければならない。
「……行きたいけど。わかんない」
私は曖昧に濁した。
「そっか……。まあ、もし都合がついたら連絡ください。待ってますから」
彼の健気さが、胸を打つ。
車を降りる時、彼の手がそっと私の手に触れた。
その温もりだけを頼りに、私は家路についた。
帰宅すると、剛はすでにビールを開けて野球中継を見ていた。
テーブルには枝豆の皮が散乱している。
「おかえり」
「……ただいま」
剛はチラリと私を見ただけで、すぐに視線をテレビに戻した。
その横顔には、以前のような険悪さはなく、どこか上機嫌に見える。
「あのさ」
剛がビールを煽りながら切り出した。
「俺、今年のお盆は一人で青森の実家に帰るわ」
「えっ?」
私は目を丸くした。
着替えようとしていた手が止まる。
「一人で?」
「ああ。オヤジがちょっと体調崩したみたいでな。見舞いも兼ねて行ってくる」
剛の実家は青森だ。
ここからは遠い。
新幹線を使っても半日はかかる。
「そ、そう……。大丈夫なの? お義父さん」
「大したことねえよ。ただの夏バテだろ」
剛はプハッと息を吐き、ニヤリと笑った。
「お前はこっちでゆっくりしろよ。たまには一人の時間も欲しいだろ?」
ドキリとした。
剛の目が、笑っていない気がした。
底知れない暗闇が、瞳の奥に潜んでいるような。
でも、その言葉の意味を深く考えるよりも先に、私の脳内では別の計算が弾き出されていた。
夫がいない。
お盆の間ずっと。
青森に行けば、少なくとも三日か四日は帰ってこない。
自由だ。
完全なる自由。
これは罠かもしれない。
「泳がされている」のかもしれない。
でも、今の私にとって、それは渡りに船だった。
目の前に垂らされた蜘蛛の糸に、縋り付かずにはいられない。
「……わかった。気をつけて行ってきてね」
私は努めて冷静に答えたが、声が弾むのを抑えるのに必死だった。
剛が風呂に入った隙に、私は足早で、徹さんに電話をかけた。
『はい、高橋です』
「徹さん! 私、行ける!」
『えっ?』
「夫が、実家に帰るの。一人で。だから……」
『本当ですか!?』
受話器の向こうで、徹さんの声が裏返った。
『じゃあ、明日からずっと一緒にいられますね!』
「うん……!」
罪悪感の欠片もなかった。
あるのは、明日への期待と、高揚感だけ。
翌日。
徹さんの白いマークⅡは、奥多摩の山道を走っていた。
都心から二時間。
窓を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。
緑の匂い。土の匂い。
車を止め、獣道のような小道を下っていくと、そこには秘密の楽園があった。
透き通った渓流。
白い岩肌。
木漏れ日が水面をキラキラと照らしている。
他には誰もいない。
蝉時雨と、川のせせらぎだけが世界を満たしている。
「うわぁ、綺麗……!」
私は思わず声を上げた。
昨日のオフィスの澱んだ空気とは別世界だ。
今日の私は、白いサンドレスを着ている。
その下には、昨日慌ててタンスの奥から引っ張り出した水着を着ていた。
徹さんはTシャツに短パン。
少年のような格好が、眩しい。
大きな岩の上にシートを広げ、お弁当を開く。
今朝、早起きして作ったものだ。
卵焼き、唐揚げ、おにぎり。
定番のおかずだけど、愛情だけはたっぷり込めた。
「いただきます!」
徹さんは大きなおにぎりを頬張り、目を輝かせた。
「うまい! 洋子さんの料理、毎日食べたいなあ」
その言葉に、胸が熱くなる。
いつかではなく、今の幸せ。
こうして二人で笑い合って、美味しいものを食べて。
これが、私が求めていた夫婦の形だったのかもしれない。
食後、私たちは靴を脱いで川に入った。
「冷たっ!」
氷水のように冷たい。
足首がキーンと痛くなるほどだ。
「ほら、洋子さん!」
徹さんが水をすくって、私にかけてきた。
「あっ、冷たい! もう、やったなー!」
私も負けじと水をかけ返す。
バシャバシャと水しぶきが上がり、お互いの服を濡らしていく。
キャッキャと騒ぐ私たちは、まるで夏休みの子供みたいだ。
年齢も、立場も、背負っている罪も忘れて。
ふと、徹さんの動きが止まった。
私のサンドレスが濡れて、肌に張り付いていた。
薄い生地の下から、水着のラインと、柔らかな曲線のシルエットが透けて見える。
徹さんの視線が、私の胸元から腰へと滑る。
その目が、さっきまでの少年の目から、急に雄の目に変わった。
喉がゴクリと鳴る音が聞こえた気がした。
周囲には誰もいない。
岩陰の死角。
彼は無言で私に近づき、濡れた腰を引き寄せた。
「……洋子さん」
低い声。
彼の体温が、冷たい水の中で際立つ。
「……冷たい」
私が震える声で言うと、彼は私の耳元に唇を寄せた。
「温めます」
熱いキスが降ってくる。
濡れた服同士が擦れ合う音が、水音に紛れていやらしく響く。
太陽の下での情事。
誰かに見られるかもしれないというスリルが、背徳感を極限まで高める。
私は彼にしがみつき、青空を見上げた。
入道雲が、私たちを見下ろしている。
これが、最後の夏休みになるかもしれない。
そんな切ない予感が、私の情熱をさらに燃え上がらせた。
日はすっかり落ちて、あたりは闇に包まれていた。
私たちは山の中腹にある、夜景が見えるスポットに車を止めた。
眼下に広がる街の灯り。
宝石箱をひっくり返したような、無数の光の粒。
あの光の一つ一つに、誰かの生活がある。
剛の実家のある青森の方角はどっちだろう。
彼は今頃、何をしているのだろう。
徹さんがシートを倒し、私を引き寄せた。
車内は狭く、密着度が高い。
「……帰りたくないですね」
彼が私の髪を撫でながら呟く。
「このまま、時間が止まればいいのに」
私も同じ気持ちだった。
家に帰りたくない。
誰もいない家でも、そこには剛の気配が染み付いている。
私は決心した。
この夏は、全部彼に捧げよう。
後先なんて考えない。
「……徹さん」
私は彼の目を見つめた。
「昨日も言ったけど夫、いないの。お盆の間ずっと」
「それはつまり……」
「だから……泊まっていい?」
徹さんの目が大きく見開かれた。
そして、爆発するような喜びが顔いっぱいに広がる。
「もちろんです! ずっといてください! 俺の家に!」
彼は私を強く抱きしめた。
骨が軋むほどの強さ。
「じゃあ、明後日の夏祭りも一緒に行きましょう! 近くの神社であるんです」
「夏祭り……」
「浴衣、着てくれますか? 洋子さんの浴衣姿、見たいです」
浴衣。
もう何年も着ていない。
でも、彼のためなら。
「うん。……着る」
私たちは夜景を背に、再び口づけを交わした。
終わらない夏休み。
破滅へと向かう、甘い逃避行の始まりだった。
車のボンネットの上に、明菜が座っていた。
彼女は夜景を見下ろし、呆れたようにため息をつく。
『最後の晩餐ならぬ、最後の夏休みね』
彼女は夜空を見上げた。
一筋の流星が、不吉な尾を引いて流れていく。
『夫が本当に実家に帰ったかどうかも確かめずに、よくやるわ。……青森行きの切符、払い戻されてたりしてね?』
明菜の言葉は、夜風にかき消された。
洋子は徹の腕の中で、ただ幸せな夢を見続けることを選んだ。
【明菜先生の研究メモ】
被験者データ No.001
氏名:佐々木 洋子(30)
職業:事務職/夏の逃亡者
■ 現在のステータス
・脳内麻薬:全開
(「探偵」の恐怖を快楽で上書き保存中)
・警戒心:欠如
(夫の不在を無邪気に信じ込んでいる)
・背徳感:Sランク
(真昼の情事により覚醒)
■ 明菜の分析ログ
「探偵」という単語に震え上がったくせに、
目の前に「餌(夫の不在)」がぶら下がると、すぐに飛びつく。
学習能力のない女ね。
でも、それが恋という病気の特徴よ。
リスクが高ければ高いほど、燃え上がる。
「これが最後かもしれない」という切なさが、最高のスパイスになるの。
濡れた服、夜景、そしてお泊まり。
材料は揃ったわ。
さあ、盛大な花火を打ち上げましょうか。
……自爆という名のね。
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ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。
マジで?
意味不明なんだけど。
めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。
素直に甘えたいとさえ思った。
だけど、私はその想いに応えられないよ。
どうしたらいいかわからない…。
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