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しおりを挟む(清一郎……今、貴方はどこで何をしているの……?)
だが、今現在の椿には、いなくなった下男の心配をしている余裕はなかったかもしれない。
「椿」
聞き慣れた婚約者の声で、椿は正気に戻った。
華族令嬢のはずの彼女は、肩掛け代わりにショールを一応羽織っている。けれども、普段着ている煌びやかな着物ではなく、着古したような木綿の着物に袖を通していた。
彼女の馬車の座席の隣には、先ほどの声の主であり、一見すると生真面目そうに見える丸眼鏡に袴姿の男性――婚約者である桜庭忍が、お行儀良く膝を綺麗に揃えて座っている。
「…………」
ガタゴトと揺れる馬車の中、二人は終始無言だった。
窓の外からは橙色の灯が差し込む。
外を見やれば、紅い橋が見えて、椿の身体が一人でに震えてきたため、自身の身体を両腕でぎゅっと抱きしめた。
そう――椿は、今まさに墨田川にかかる吾妻橋を渡り、煌びやかな苦界・吉原へと足を踏み入れようとしているのだ。
「ここから先、お前にとって悪い場所ではないはずだ……ちゃんと逃げおおせてみせろ」
仏頂面をした忍が言わんとするところの意味が分からずに困惑してしまう。
椿の中での彼への見解は、この数日でガラリと変わった。
聖人君子の面を被っているが、とても残忍な性格をしているのだろう、と――。
そうでなければ、元婚約者である椿のことを吉原に売って、あまつさえ「悪い場所ではない」というはずがないのだから――。
(忍さんはとても恐ろしい人だったのだわ……)
下男だった清一郎とも仲良くしていた忍。
誰にでも分け隔てのない性格なのだと錯覚してしまっていたようだ。
身体の中心から這い上がってこようとする恐怖を打ち消そうと、椿は首を横に一度大きく振った。
「椿、お前は何かご――」
忍が何かを謂わんとした、その時――。
ガタンと一際大きく馬車が揺れ動く。
小さな地震には遭遇したことがあるが、こんなに大きな揺れには遭遇したことがなかったため、彼女は小さな悲鳴を上げた。
忍は彼女の身体を支えることなく、外へと飛び出したかと思うと――。
「お前は、なぜ……?」
彼の声が戦慄いていた。
(いったいどうしたというの……?)
気になった椿は、夕暮れ時に紅く染まった下界へと顔を覗かせる。
そこにいたのは――。
興奮冷めやらぬ馬をどうどうと諫めながら、忍と対峙する一際背の高い男――。
新進気鋭の銀幕スタアに比肩する――否、それ以上の美貌の持ち主。
陽に透けると黄金に輝いて見える髪に、限りなく透明に近い碧の瞳。
髪の色に程近い臙脂色のスーツで隠されているが、引き締まった筋肉の持ち主であることが遠目から見ても分かる。
「清一郎……」
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