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1巻
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私が何も言わないでいると、彼の声音がひどく沈鬱なものになる。
「イザベラ。この縁談話は、お前にも関わる話だと俺は思っている」
「わ、私にですか?」
突然、自分にも関係があると言われて、心臓がドキンと跳ねた。どうしても心のどこかで、彼は自分のことを好いているのではないかと期待してしまう。
だが、彼の答えは、私の心をひどく痛めつけた。
「そうだ。もし俺がこの縁談話を断れなかったら、将来お前がアイリーン嬢の世話をしないといけなくなるんだからな」
そう言って、彼は私から視線を逸らす。
『縁談話を断れなかったら、俺とイザベラは結ばれなくなる』
そんな都合の良い言葉を私は求めていたのだ。
……やっぱり、ウィリアム様にとって、私は使用人でしかないんだわ。
悲しくて泣きそうになるが我慢する。
彼に握られた手が、悲しさをより一層強くさせた。こういう彼の所作も、私が特別な存在だからしているのではないのだろう。
……そもそも、ウィリアム様は、私以外には愛想が良い方だもの。
……きっと、使用人に気安く触れている感覚なのよ。
そう思い悩んでいると、ウィリアム様が問いかけてくる。
「イザベラ。お前は、俺とアイリーン嬢が婚約したら、どう思うんだ?」
胸がぎゅっと苦しくなる。
だが自分の気持ちを落ち着かせながら、私は努めて冷静な返しをすることに決めた。
「もし、アイリーン様とウィリアム様の婚約が成立したら、一生懸命アイリーン様に仕えさせていただきたく思っています。私はブルーム伯爵家に仕える使用人ですから。良くしてくださる主人の奥様になる方なので、誠心誠意お仕えするだけです」
そう答えると、ウィリアム様は蒼い瞳を見開き、自嘲気味に呟いた。
「お前から、そんな答えが聞きたかったんじゃない。イザベラからしたら、俺とお前は主と使用人でしかないか」
少しだけ陰りを帯びた瞳で彼は続ける。
「おい、イザベラ」
彼はいつもよりも暗い調子で私を呼んだ。
「お前にしか出来ないことだ」
「え? ……きゃっ!」
突然、彼に腕を掴まれ、身体を引き寄せられた。
「んっ……」
気づけば、彼の膝の上に乗っていた。彼の唇が私のそれを塞いでくる。
「ウィリアム様っ……あっ……」
うなじを押さえつけられ、口の中に彼の舌がねじ込まれ、しばらくなすがままになる。
ひとしきり、くちゅくちゅと唇を弄ばれたあと、彼の柔らかな唇が離れた。
そうして彼はタイを緩めながら、私に告げる。
「昔から抱いていた願いが叶いそうにない。俺を慰めてくれないか?」
彼の切望するような声が、胸を穿つ。
海を連想させる爽やかな彼の香水が、鼻腔をついた。
「私が、ウィリアム様を慰める……?」
――結局、彼の願いが何かは分からないまま、とさりと、私はベッドの上に組敷かれていた。
目まぐるしい状況の変化についていけない。
身体の上に何か重みを感じる。どうやらウィリアム様のようだった。
子どもの頃の取っ組み合いとは違う。大人の男性が身体の上に乗ってきたのは生まれて初めてで、全身が強張ってしまう。
「そうだ、お前の身体で、俺を慰めろ。お前にしか出来ない役割だ」
「私にしか出来ない……?」
今まで、彼からそんな慰め方をしろと言われたことはなかった。
シャンデリアの逆光で、ウィリアム様の表情が分からず漠然とした不安が広がる。
けれども、同時に「私にしか出来ない」という言葉に、おかしな期待をしてしまう自分がいた。
「ウィリアム……様っ……んっ……」
私の唇に、また彼の唇が押しつけられる。
子どもの頃に交わした頬にするキスとは明らかに違う、大人の深い口づけ。舌が絡み合っては離れ、何度も口づけられる。
「あっ……ウィリアム様っ……どうして……?」
私が言いかけたのを聞いて、一旦ウィリアム様は顔を離した。
「……願いが叶わないぐらいで落ち込んでいる、そんな情けなくて格好悪い姿を、他のやつらに見せることは出来ないだろう?」
彼の縋るような瞳を見て、困惑は深まる。
激しい口づけで、頬が火照りきったまま、私は唇をきゅっと噛み締めた。
「イザベラなら、幼い頃から俺のことを知っている……理由は……それだけだ」
彼は視線をふいと逸らす。
彼の言葉は私の心を抉った。
……他の人には情けないところを見せられなくて、他に頼める人がいないから私が選ばれた?
やはり、単に都合が良いだけなのだろうか。
彼にとって自分は特別な存在ではないと思い知らされて、打ちひしがれてしまう。
「でも、ウィリアム様なら引く手数多ですし、わざわざ使用人に手を付けずとも――」
「言ったはずだ、お前にしか出来ないと」
私の言葉を遮り、強い口調で彼が告げる。
「そうですが、私は簡単に異性に身体を委ねたくはありません」
自分が孤児だったからこそ、特にそう思うのだ。
一瞬の快楽に溺れ、その結果生まれた子どもを育てきれなかったがゆえに、両親は私を手放したのだろう。
夫でもない人物に身を任せるなど、危険性が高すぎる。
「だったら、一晩だけ、俺の恋人になれ」
そう言いながら、緩めたタイを捨て、彼が前開きの上着を放った。
なんて甘美な誘惑だろうか。
――一晩だけでも好きな人の恋人になれるなんて。
彼の逞しく育った胸板、均整のとれた引き締まった体躯が目に入る。
私の頭の中では、危険だと警笛が鳴っている。
だけど、本能的に彼に身体を任せてしまいたいと思っている自分が、心のどこかに存在した。
……ウィリアム様に縁談話はあるけれど、決定事項ではない。まだお互いにパートナーがいない状態だもの。
一晩限りの恋人になるために都合の良い解釈をして、自分を納得させようとする。
そんな気持ちとは裏腹に、ダメだ、ダメだ、危険だ、と頭の中でもうひとりの自分が何度も警告してきていた。
それでも、私は悪魔の囁きに負けてしまう。
「それは……命令でしょうか……?」
子どもの頃、『他の男と話すな』と言ってきた彼に問いかけた言葉が口をついて出た。
自分でも卑怯だとは思った。馬鹿な女だとも。
でも、どうしても私はウィリアム様と……
少しだけ目頭が熱くなる。
愛する人に一度だけでも抱かれたいと思うのは罪だろうか?
「そうだ、命令だ」
ウィリアム様は続ける。
「イザベラ。使用人なら、主の命令は絶対だろう? お前が俺の使用人だと言い張るなら、言うことを聞くんだ」
言い方こそ命令調だが、彼の口調はどことなく苦しそうに聞こえる。
「……はい。命令なら。孤児だった私を拾っていただいた恩義がありますから」
私は伏し目がちに、ゆっくりと返す。
しばし、ふたりの間に沈黙が流れる。
「……そうだ。俺に恩を返すと思え……」
ウィリアム様が自虐的に笑った。泣きそうな子どものように見えて、胸がざわつく。
……どうしてそんなに寂しい表情をしているの?
彼の大きな手が服に伸びてきた。
「想像していた以上に、大人びた身体になってしまっているな……」
衣服越しに、彼の綺麗で長い指が胸の膨らみに沈み込む。ゆっくりと変形させられ、唇から声が漏れ出た。
「あっ、は、あ……」
メイド服の白いエプロンが乱れる。
いつの間にか黒いワンピースの裾から、彼の大きな手が侵入していて、脚を撫でていた。
「俺以外の男に触れさせたりはしていないだろうな?」
「……っ……そんなこと……あるはずが……」
ひどく優しい愛撫が続き、彼が私のことを愛しているのではないかと錯覚してしまいそうになる。
「あっ……ウィリアム様っ……」
「イザベラ……ああ、お前が誰のものでもないことは分かっている……」
熱に浮かされたかのように、彼に名前を呼ばれ、胸が疼く。
穿いていた下着を、彼が引きずりおろした。そのまま足首まで一気に下げられ、ベッドの上に放り捨てられる。
「おい、イザベラ……脚を開け」
「ウィリアム様……」
命じられるがままに、条件反射で両脚を開いてしまう。
脚の間に、硬い何かがぬるりと触れてくる。
……私は夢を見ているの?
これから本当に彼によって身体を開かれるのだろうか?
くちゅりくちゅりと淫靡な水音が鳴った。
「ウィリアム様っ……これ以上は……今ならまだ……」
――引き返せる。
「もうお前の頼みを聞いてやることは出来ない……潔く、覚悟を決めろ……イザベラ……」
だが獣のような彼の器官は、もう引き返せないほどに荒ぶり昂っていた。
恐怖と快楽の両方が首をもたげてくる。
けれども、明らかに快楽が強かった。ずっと恋い焦がれていた相手と、互いの秘めたる場所を触れ合わせる幸せの方が勝っている。
「イザベラ。俺はずっと……。今だけで良い、俺のことだけ見てはくれないか。……なあ、イザベラ……」
「ウィリアム様……私は、ずっと、あなたを……」
彼がひどく愛おしそうに私の名を呼んでくる。
互いの視線が絡み合った。
呼吸が浅く、鼓動が高鳴っていく。
それ以上は、何も考えられない。
ぬるぬると脚の間で動いていた先端が狭穴を一気に穿ってきた。彼の欲棒が純潔の襞をみちみちと破って進んできて、いまだかつて感じたことのない熱と重量を下腹部に感じる。
「ああっ……!」
純潔を失うときはひどく痛むらしいが、あまりにも彼が何度も私の名を口にするものだから、痛みよりもそちらに意識が向かった。
「イザベラ、痛くはないか……?」
心配そうな声音で、彼が髪を撫でてくる。
あまりに優しくて、胸がぎゅっと苦しくなった。
「ああ……イザベラ……今は、今だけは、俺の……」
そうして、いつになく熱っぽい口調で彼が私の名を呼ぶ。
圧迫された隘路の中、ぐちゅんぐちゅんと熱塊が出たり入ったりを繰り返す。
突き動かされる激しさに耐えるために、彼の広い背中に両手を回した。
「イザベラ……イザベラ……」
「あっ、あっ、はっ、あ……」
目に涙が浮かんで視界がぼやける。
身体を揺らし、私の中に出入りを繰り返す青年は、熱に浮かされたまま、愛する女性を呼ぶかのように私の名前を繰り返していた。
どうしてこんなにも、ウィリアム様は優しく名を呼ぶの?
一晩だけの恋人扱いだからだろうか?
これからもずっと大事にしてくれると、錯覚してしまいそうなぐらいに彼が甘い声で囁く。
勘違いしたらダメだと分かっている。
だが、今このときだけは、彼に愛されていると思っていたい。
「あっ、ん、ウィリアム様っ……!」
「イザベラ……イザベラ……」
かねてから望んでいたかのように、快感が駆け巡る。
破瓜の痛み以上に、彼と身体をひとつにしていることへの幸せの方が強かった。
じわりと汗の滲む彼の首に腕を回す。
硬い漲りを膣道に抽送され続けていると、両太ももに温かいもの――血液や愛液や精だろう――が流れていくのを感じた。
「あっ、あっ、ウィリアム様……」
「イザベラ……」
彼の愛撫が優しすぎて、頭が蕩けてしまいそうだ。
汗ばんだ肌同士がぶつかり合い、ぱちゅんぱちゅんと淫らな音を鳴らした。
離れたくない気持ちを表現するかのように、彼の剛直を私の肉襞がぎゅうっと締めつける。
「あっ、ウィリアム様っ……」
ギシギシとベッドが軋む音と淫らな水音が間断なく続く。
彼が腰を揺らすたびに、プラチナブロンドの髪がさやさやと揺れた。
熱情を孕んだ蒼い瞳に視線を絡め取られる。
めったに汗をかかない彼の額に、珠のような汗が滲んでいた。
「イザベラ……俺の……名前を……っ……呼んではくれないか?」
「ウィリアム様っ……あっ……あんっ……あっ……」
命じられるがままに名を呼び返すと、揺さぶりが激しくなる。
彼の広い背にしがみつくのに必死だった。
まるで獣の交合かのように激しく揺れ動くふたりの影が遠くに映る。
相手の身体がぶつかってくるたびに、引いては寄せる波のように快感が襲ってくる。
膣内で欲棒が命脈を宿しはじめ、私の頭の中も明滅した。
彼がぶるっと身体を震わせたと同時に、かつてない快楽が全身を走り抜ける。
「ああっ――!」
お腹の奥が一気に熱を帯びる。彼に精を放たれたのだと気づくのに、少しだけ時間がかかった。
「イザベラ……これで……お前の全ては、俺の……」
荒い呼吸を整えながら、彼が私の髪を撫でてくる。
「ウィリアム様」
今だけで良い。彼を独占出来ている今だけで良いから、ウィリアム様に求められて、恋人になった気分に浸りたかった。
「ウィリアム様。……キス、してもらえませんか?」
まだ少し呼吸の速い彼は、何も答えてはくれない。
断わられるだろうかと不安になったが、次の瞬間、彼はひどく甘くて優しい口づけを落としてきた。
「イザベラ、俺に純潔を捧げてくれてありがとう」
涙が滲んで、彼の綺麗な顔がぼやけてくる。
愛しいウィリアム様が本気じゃなかったとしても、それでも私にとっては怖いくらい幸せな思い出になった。
「たとえ、俺の願いが叶わなかったとしても、絶対に今このときのことを忘れない」
涙で彼の表情が分からなかった。
お互い、身につけていた衣服を脱ぎ捨て、生まれたままの姿になる。
室内に熱気がこもり、再び荒い息遣いと水音が支配しはじめた。
そうして純潔を失ったその日は、痛みを忘れ、理性を捨てて、彼に身体を委ね続けたのだった。
――ウィリアム様に一晩中愛され続けた。
彼と私は夜が明ける前に眠りについたのだが、空が白みはじめる前に、私はいつもの習性で目を覚ました。
プラチナブロンドの髪の端整な顔立ちが目に入る。
海を連想させる爽やかな香りが鼻腔をついた。
どうやら彼は、私の頭を腕枕しながら、すやすやと眠っているようだ。
耳もとに、狩猟や騎馬で鍛え抜かれた二の腕を感じ、昨日の情熱的な一夜が思い出される。
ふたりとも生まれたままの姿で、秘する場所はまだ繋がったままだった。下半身に残る違和感と鈍い痛みが、昨晩の出来事が真実だったと突き付けてくる。
……あ、まだ私、ウィリアム様と繋がって……
頬が紅潮したのが自分でも分かった。
言いようのない幸福感とともに、胸を締めつけるような罪悪感が湧いてくる。
本当はずっと、ウィリアム様の寝顔を見ていたい。
だけど、使用人でしかない私に、そんなことは許されていない。
身をよじり、彼の身体から抜け出そうとすると――
「イザベラ……」
名を呼ばれ、彼の腕に引き寄せられた。
強い力で抱きしめられ、逞しく育った胸板が当たり、心臓が弾けそうなぐらいに高鳴ってしまう。
ウィリアム様が目を覚ましたのかと思ったが、どうやら寝惚けているようだった。
このまま夜が続いてくれさえすれば、ずっと彼の恋人のまま過ごせる。
けれども、空の色は藍色から紫色へと変化しつつある。
もう時間がない。
そろそろ他の使用人たちが目を覚ます頃だ。
一抹の寂しさを感じつつも、私は彼の腕の力が緩んだタイミングで抜け出した。
ベッドの上や床に散らばっている下着を身につけようとしたときに、鏡を見る。
……赤い花びらのように、キスマークが全身に残っているではないか。
気をとられている時間はなかったため、慌ててワンピースとエプロンをつけなおした。
いざ、部屋を飛び出ようとした際に、くぐもったウィリアム様の声が聞こえる。
「イザベラ、行かないでくれ……」
心臓がドキンと跳ねた。
「ウィリアム様、起きて――」
彼の方を見るが、ベッドに横になったままで目覚めてはいない。
私は一度、眠る彼の元へと戻る。
凛々しい眉に、金色の長い睫毛、長い鼻梁に、弓なりの美しい唇。
部屋を出たら、もう一晩限りの恋人は終わりだ。元の主と使用人の関係に戻らなければならない。
たった一晩だったけれど、ひどく幸せだった。
何度も愛おしそうに名を呼んでくれたことを思い出すと、なんだか泣きそうになる。
これで最後。
自分にそう言い聞かせ、そっと彼の唇に自身の唇を重ねた。
「さようなら、ウィリアム様」
後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、廊下に誰もいないことを確認してから、部屋を飛び出したのだった。
住み込みの使用人たちの住まいは城館の地下にある。こっそりと自室へ戻ったが、やはり身体は痛くて仕方がなかった。
仕事の支度の時間になり、他の使用人と同じように準備を始める。
しかし、身体の違和感は残ったままで、なかなか普段通りに動くことが出来ない。
「イザベラ、大丈夫? もし体調が悪いなら、休んだ方が良いわ。今日一日くらいなら、バーバラ様も許してくれるはずよ」
そう言って仲の良い使用人のひとりが、家政婦長に報告してくれたため、一日だけ休みを得ることになった。
自業自得なのに休んでしまって、皆に申し訳ない。
自ら望んで愛する男性に純潔を捧げたうえに、休むなんて情けないなと思ってしまう。
ただ、その相手が相手だけに、痛みについて誰にも相談出来ない。
悶々としながら、昼間のベッドの上で休む。
「おい、イザベラ」
突然、聞き慣れたウィリアム様の甘い声が耳に届く。
「部屋に入って良いか? 体調が悪いと聞いて、見舞いに来たんだが――」
私は驚いてしまい、どう反応して良いのか分からない。
それに、愛する男性と今ここで顔を合わせてしまうと、婚約が決まるかもしれない彼との最後の情事だと、自分に言い聞かせた気持ちが揺らぎそうで仕方がなかった。
返事が出来ないまま、動けずにいた。
「おい、イザベラ、倒れてるんじゃないだろうな⁉」
慌てた様子で、ウィリアム様が勢い良く部屋の扉を開けて入ってくる。
咄嗟に、私は寝たふりをした。ばれないように気をつけて、寝息を立てているように見せかける。
「……なんだ、寝てるだけじゃないか。驚かさないでくれ」
安堵した様子の彼は、そっとベッドに腰かける。
いつもの爽やかな海の香り以外に、彼から甘い香りがした。
「イザベラ」
優しい手つきで、ウィリアム様は私の長い髪を何度も撫ではじめた。
そうして、ぽつりぽつりと呟く。
「優しいお前は迷惑だと思うかもしれない。けれど、アイリーン嬢との縁談話を断ったら、改めて俺の気持ちをお前に伝えたいんだ」
心臓が高鳴る。思わず、目を開きそうになった。
「いつもお前にはひどい言い方ばかりしてきたから、すぐには信じてもらえないだろう。だが、一からやり直したいんだ。情けないことに、順番は前後してしまったけれど」
私が眠っていると信じているからか、いつになく素直な物言いをする主人に少しばかり驚かされる。
「あとは、そうだな。これは昨晩の礼に、たった今手に入れたんだ」
彼はそう言うと、私の左手を取り、何かしていた。
(たった今? 何?)
それから彼は立ち上がると、私の髪を払い、こめかみに口づけてくる。
「イザベラ。次にお前とふたりになれたときに、また」
そうして、彼は私の唇に口づけた。
時間が止まったと錯覚してしまいそうになるほど長いキス。
「イザベラ、俺はお前を思い出にする気はない。俺の幸運を祈ってくれ」
それだけ言い残すと、彼は部屋を去っていった。
ぱたんと扉が閉まると、私はそっと目を開ける。
「一晩だけの恋人だって、言っていたのに……」
彼が何かをしていた左手を、顔の前に掲げる。
金の細いリングに蒼いサファイアが嵌まった指輪が、薬指に輝いていた。
精緻な細工に、どんな女性たちも胸を躍らせるに違いない。
「瞳と同じ色。これは……使用人の私には過ぎたものです、ウィリアム様……」
これは、たった数時間で準備出来るものではない。
昨晩の礼と言うには、持ってくるのが早すぎる。
……アイリーン様とウィリアム様が婚約することに気をとられすぎて、素直じゃない彼のことが見えなくなっていたのだろうか?
それとも、指輪はアイリーン様のために準備していたものなのだろうか?
期待したら、その分辛くなるのは分かっている。
枕元には、甘やかに香るグラジオラスの赤い花が一輪。
「……結ばれなかったとしても、この優しい主人のそばにずっといたい」
涙が溢れる。
だけど、もしも奇跡が起きて、ウィリアム様の……いいえ、私の願いが叶うのなら……
破瓜の痛みがどこかにいってしまうほどに、彼の優しさや想いを感じて、幸せな涙が流れ続けたのだった。
「イザベラ。この縁談話は、お前にも関わる話だと俺は思っている」
「わ、私にですか?」
突然、自分にも関係があると言われて、心臓がドキンと跳ねた。どうしても心のどこかで、彼は自分のことを好いているのではないかと期待してしまう。
だが、彼の答えは、私の心をひどく痛めつけた。
「そうだ。もし俺がこの縁談話を断れなかったら、将来お前がアイリーン嬢の世話をしないといけなくなるんだからな」
そう言って、彼は私から視線を逸らす。
『縁談話を断れなかったら、俺とイザベラは結ばれなくなる』
そんな都合の良い言葉を私は求めていたのだ。
……やっぱり、ウィリアム様にとって、私は使用人でしかないんだわ。
悲しくて泣きそうになるが我慢する。
彼に握られた手が、悲しさをより一層強くさせた。こういう彼の所作も、私が特別な存在だからしているのではないのだろう。
……そもそも、ウィリアム様は、私以外には愛想が良い方だもの。
……きっと、使用人に気安く触れている感覚なのよ。
そう思い悩んでいると、ウィリアム様が問いかけてくる。
「イザベラ。お前は、俺とアイリーン嬢が婚約したら、どう思うんだ?」
胸がぎゅっと苦しくなる。
だが自分の気持ちを落ち着かせながら、私は努めて冷静な返しをすることに決めた。
「もし、アイリーン様とウィリアム様の婚約が成立したら、一生懸命アイリーン様に仕えさせていただきたく思っています。私はブルーム伯爵家に仕える使用人ですから。良くしてくださる主人の奥様になる方なので、誠心誠意お仕えするだけです」
そう答えると、ウィリアム様は蒼い瞳を見開き、自嘲気味に呟いた。
「お前から、そんな答えが聞きたかったんじゃない。イザベラからしたら、俺とお前は主と使用人でしかないか」
少しだけ陰りを帯びた瞳で彼は続ける。
「おい、イザベラ」
彼はいつもよりも暗い調子で私を呼んだ。
「お前にしか出来ないことだ」
「え? ……きゃっ!」
突然、彼に腕を掴まれ、身体を引き寄せられた。
「んっ……」
気づけば、彼の膝の上に乗っていた。彼の唇が私のそれを塞いでくる。
「ウィリアム様っ……あっ……」
うなじを押さえつけられ、口の中に彼の舌がねじ込まれ、しばらくなすがままになる。
ひとしきり、くちゅくちゅと唇を弄ばれたあと、彼の柔らかな唇が離れた。
そうして彼はタイを緩めながら、私に告げる。
「昔から抱いていた願いが叶いそうにない。俺を慰めてくれないか?」
彼の切望するような声が、胸を穿つ。
海を連想させる爽やかな彼の香水が、鼻腔をついた。
「私が、ウィリアム様を慰める……?」
――結局、彼の願いが何かは分からないまま、とさりと、私はベッドの上に組敷かれていた。
目まぐるしい状況の変化についていけない。
身体の上に何か重みを感じる。どうやらウィリアム様のようだった。
子どもの頃の取っ組み合いとは違う。大人の男性が身体の上に乗ってきたのは生まれて初めてで、全身が強張ってしまう。
「そうだ、お前の身体で、俺を慰めろ。お前にしか出来ない役割だ」
「私にしか出来ない……?」
今まで、彼からそんな慰め方をしろと言われたことはなかった。
シャンデリアの逆光で、ウィリアム様の表情が分からず漠然とした不安が広がる。
けれども、同時に「私にしか出来ない」という言葉に、おかしな期待をしてしまう自分がいた。
「ウィリアム……様っ……んっ……」
私の唇に、また彼の唇が押しつけられる。
子どもの頃に交わした頬にするキスとは明らかに違う、大人の深い口づけ。舌が絡み合っては離れ、何度も口づけられる。
「あっ……ウィリアム様っ……どうして……?」
私が言いかけたのを聞いて、一旦ウィリアム様は顔を離した。
「……願いが叶わないぐらいで落ち込んでいる、そんな情けなくて格好悪い姿を、他のやつらに見せることは出来ないだろう?」
彼の縋るような瞳を見て、困惑は深まる。
激しい口づけで、頬が火照りきったまま、私は唇をきゅっと噛み締めた。
「イザベラなら、幼い頃から俺のことを知っている……理由は……それだけだ」
彼は視線をふいと逸らす。
彼の言葉は私の心を抉った。
……他の人には情けないところを見せられなくて、他に頼める人がいないから私が選ばれた?
やはり、単に都合が良いだけなのだろうか。
彼にとって自分は特別な存在ではないと思い知らされて、打ちひしがれてしまう。
「でも、ウィリアム様なら引く手数多ですし、わざわざ使用人に手を付けずとも――」
「言ったはずだ、お前にしか出来ないと」
私の言葉を遮り、強い口調で彼が告げる。
「そうですが、私は簡単に異性に身体を委ねたくはありません」
自分が孤児だったからこそ、特にそう思うのだ。
一瞬の快楽に溺れ、その結果生まれた子どもを育てきれなかったがゆえに、両親は私を手放したのだろう。
夫でもない人物に身を任せるなど、危険性が高すぎる。
「だったら、一晩だけ、俺の恋人になれ」
そう言いながら、緩めたタイを捨て、彼が前開きの上着を放った。
なんて甘美な誘惑だろうか。
――一晩だけでも好きな人の恋人になれるなんて。
彼の逞しく育った胸板、均整のとれた引き締まった体躯が目に入る。
私の頭の中では、危険だと警笛が鳴っている。
だけど、本能的に彼に身体を任せてしまいたいと思っている自分が、心のどこかに存在した。
……ウィリアム様に縁談話はあるけれど、決定事項ではない。まだお互いにパートナーがいない状態だもの。
一晩限りの恋人になるために都合の良い解釈をして、自分を納得させようとする。
そんな気持ちとは裏腹に、ダメだ、ダメだ、危険だ、と頭の中でもうひとりの自分が何度も警告してきていた。
それでも、私は悪魔の囁きに負けてしまう。
「それは……命令でしょうか……?」
子どもの頃、『他の男と話すな』と言ってきた彼に問いかけた言葉が口をついて出た。
自分でも卑怯だとは思った。馬鹿な女だとも。
でも、どうしても私はウィリアム様と……
少しだけ目頭が熱くなる。
愛する人に一度だけでも抱かれたいと思うのは罪だろうか?
「そうだ、命令だ」
ウィリアム様は続ける。
「イザベラ。使用人なら、主の命令は絶対だろう? お前が俺の使用人だと言い張るなら、言うことを聞くんだ」
言い方こそ命令調だが、彼の口調はどことなく苦しそうに聞こえる。
「……はい。命令なら。孤児だった私を拾っていただいた恩義がありますから」
私は伏し目がちに、ゆっくりと返す。
しばし、ふたりの間に沈黙が流れる。
「……そうだ。俺に恩を返すと思え……」
ウィリアム様が自虐的に笑った。泣きそうな子どものように見えて、胸がざわつく。
……どうしてそんなに寂しい表情をしているの?
彼の大きな手が服に伸びてきた。
「想像していた以上に、大人びた身体になってしまっているな……」
衣服越しに、彼の綺麗で長い指が胸の膨らみに沈み込む。ゆっくりと変形させられ、唇から声が漏れ出た。
「あっ、は、あ……」
メイド服の白いエプロンが乱れる。
いつの間にか黒いワンピースの裾から、彼の大きな手が侵入していて、脚を撫でていた。
「俺以外の男に触れさせたりはしていないだろうな?」
「……っ……そんなこと……あるはずが……」
ひどく優しい愛撫が続き、彼が私のことを愛しているのではないかと錯覚してしまいそうになる。
「あっ……ウィリアム様っ……」
「イザベラ……ああ、お前が誰のものでもないことは分かっている……」
熱に浮かされたかのように、彼に名前を呼ばれ、胸が疼く。
穿いていた下着を、彼が引きずりおろした。そのまま足首まで一気に下げられ、ベッドの上に放り捨てられる。
「おい、イザベラ……脚を開け」
「ウィリアム様……」
命じられるがままに、条件反射で両脚を開いてしまう。
脚の間に、硬い何かがぬるりと触れてくる。
……私は夢を見ているの?
これから本当に彼によって身体を開かれるのだろうか?
くちゅりくちゅりと淫靡な水音が鳴った。
「ウィリアム様っ……これ以上は……今ならまだ……」
――引き返せる。
「もうお前の頼みを聞いてやることは出来ない……潔く、覚悟を決めろ……イザベラ……」
だが獣のような彼の器官は、もう引き返せないほどに荒ぶり昂っていた。
恐怖と快楽の両方が首をもたげてくる。
けれども、明らかに快楽が強かった。ずっと恋い焦がれていた相手と、互いの秘めたる場所を触れ合わせる幸せの方が勝っている。
「イザベラ。俺はずっと……。今だけで良い、俺のことだけ見てはくれないか。……なあ、イザベラ……」
「ウィリアム様……私は、ずっと、あなたを……」
彼がひどく愛おしそうに私の名を呼んでくる。
互いの視線が絡み合った。
呼吸が浅く、鼓動が高鳴っていく。
それ以上は、何も考えられない。
ぬるぬると脚の間で動いていた先端が狭穴を一気に穿ってきた。彼の欲棒が純潔の襞をみちみちと破って進んできて、いまだかつて感じたことのない熱と重量を下腹部に感じる。
「ああっ……!」
純潔を失うときはひどく痛むらしいが、あまりにも彼が何度も私の名を口にするものだから、痛みよりもそちらに意識が向かった。
「イザベラ、痛くはないか……?」
心配そうな声音で、彼が髪を撫でてくる。
あまりに優しくて、胸がぎゅっと苦しくなった。
「ああ……イザベラ……今は、今だけは、俺の……」
そうして、いつになく熱っぽい口調で彼が私の名を呼ぶ。
圧迫された隘路の中、ぐちゅんぐちゅんと熱塊が出たり入ったりを繰り返す。
突き動かされる激しさに耐えるために、彼の広い背中に両手を回した。
「イザベラ……イザベラ……」
「あっ、あっ、はっ、あ……」
目に涙が浮かんで視界がぼやける。
身体を揺らし、私の中に出入りを繰り返す青年は、熱に浮かされたまま、愛する女性を呼ぶかのように私の名前を繰り返していた。
どうしてこんなにも、ウィリアム様は優しく名を呼ぶの?
一晩だけの恋人扱いだからだろうか?
これからもずっと大事にしてくれると、錯覚してしまいそうなぐらいに彼が甘い声で囁く。
勘違いしたらダメだと分かっている。
だが、今このときだけは、彼に愛されていると思っていたい。
「あっ、ん、ウィリアム様っ……!」
「イザベラ……イザベラ……」
かねてから望んでいたかのように、快感が駆け巡る。
破瓜の痛み以上に、彼と身体をひとつにしていることへの幸せの方が強かった。
じわりと汗の滲む彼の首に腕を回す。
硬い漲りを膣道に抽送され続けていると、両太ももに温かいもの――血液や愛液や精だろう――が流れていくのを感じた。
「あっ、あっ、ウィリアム様……」
「イザベラ……」
彼の愛撫が優しすぎて、頭が蕩けてしまいそうだ。
汗ばんだ肌同士がぶつかり合い、ぱちゅんぱちゅんと淫らな音を鳴らした。
離れたくない気持ちを表現するかのように、彼の剛直を私の肉襞がぎゅうっと締めつける。
「あっ、ウィリアム様っ……」
ギシギシとベッドが軋む音と淫らな水音が間断なく続く。
彼が腰を揺らすたびに、プラチナブロンドの髪がさやさやと揺れた。
熱情を孕んだ蒼い瞳に視線を絡め取られる。
めったに汗をかかない彼の額に、珠のような汗が滲んでいた。
「イザベラ……俺の……名前を……っ……呼んではくれないか?」
「ウィリアム様っ……あっ……あんっ……あっ……」
命じられるがままに名を呼び返すと、揺さぶりが激しくなる。
彼の広い背にしがみつくのに必死だった。
まるで獣の交合かのように激しく揺れ動くふたりの影が遠くに映る。
相手の身体がぶつかってくるたびに、引いては寄せる波のように快感が襲ってくる。
膣内で欲棒が命脈を宿しはじめ、私の頭の中も明滅した。
彼がぶるっと身体を震わせたと同時に、かつてない快楽が全身を走り抜ける。
「ああっ――!」
お腹の奥が一気に熱を帯びる。彼に精を放たれたのだと気づくのに、少しだけ時間がかかった。
「イザベラ……これで……お前の全ては、俺の……」
荒い呼吸を整えながら、彼が私の髪を撫でてくる。
「ウィリアム様」
今だけで良い。彼を独占出来ている今だけで良いから、ウィリアム様に求められて、恋人になった気分に浸りたかった。
「ウィリアム様。……キス、してもらえませんか?」
まだ少し呼吸の速い彼は、何も答えてはくれない。
断わられるだろうかと不安になったが、次の瞬間、彼はひどく甘くて優しい口づけを落としてきた。
「イザベラ、俺に純潔を捧げてくれてありがとう」
涙が滲んで、彼の綺麗な顔がぼやけてくる。
愛しいウィリアム様が本気じゃなかったとしても、それでも私にとっては怖いくらい幸せな思い出になった。
「たとえ、俺の願いが叶わなかったとしても、絶対に今このときのことを忘れない」
涙で彼の表情が分からなかった。
お互い、身につけていた衣服を脱ぎ捨て、生まれたままの姿になる。
室内に熱気がこもり、再び荒い息遣いと水音が支配しはじめた。
そうして純潔を失ったその日は、痛みを忘れ、理性を捨てて、彼に身体を委ね続けたのだった。
――ウィリアム様に一晩中愛され続けた。
彼と私は夜が明ける前に眠りについたのだが、空が白みはじめる前に、私はいつもの習性で目を覚ました。
プラチナブロンドの髪の端整な顔立ちが目に入る。
海を連想させる爽やかな香りが鼻腔をついた。
どうやら彼は、私の頭を腕枕しながら、すやすやと眠っているようだ。
耳もとに、狩猟や騎馬で鍛え抜かれた二の腕を感じ、昨日の情熱的な一夜が思い出される。
ふたりとも生まれたままの姿で、秘する場所はまだ繋がったままだった。下半身に残る違和感と鈍い痛みが、昨晩の出来事が真実だったと突き付けてくる。
……あ、まだ私、ウィリアム様と繋がって……
頬が紅潮したのが自分でも分かった。
言いようのない幸福感とともに、胸を締めつけるような罪悪感が湧いてくる。
本当はずっと、ウィリアム様の寝顔を見ていたい。
だけど、使用人でしかない私に、そんなことは許されていない。
身をよじり、彼の身体から抜け出そうとすると――
「イザベラ……」
名を呼ばれ、彼の腕に引き寄せられた。
強い力で抱きしめられ、逞しく育った胸板が当たり、心臓が弾けそうなぐらいに高鳴ってしまう。
ウィリアム様が目を覚ましたのかと思ったが、どうやら寝惚けているようだった。
このまま夜が続いてくれさえすれば、ずっと彼の恋人のまま過ごせる。
けれども、空の色は藍色から紫色へと変化しつつある。
もう時間がない。
そろそろ他の使用人たちが目を覚ます頃だ。
一抹の寂しさを感じつつも、私は彼の腕の力が緩んだタイミングで抜け出した。
ベッドの上や床に散らばっている下着を身につけようとしたときに、鏡を見る。
……赤い花びらのように、キスマークが全身に残っているではないか。
気をとられている時間はなかったため、慌ててワンピースとエプロンをつけなおした。
いざ、部屋を飛び出ようとした際に、くぐもったウィリアム様の声が聞こえる。
「イザベラ、行かないでくれ……」
心臓がドキンと跳ねた。
「ウィリアム様、起きて――」
彼の方を見るが、ベッドに横になったままで目覚めてはいない。
私は一度、眠る彼の元へと戻る。
凛々しい眉に、金色の長い睫毛、長い鼻梁に、弓なりの美しい唇。
部屋を出たら、もう一晩限りの恋人は終わりだ。元の主と使用人の関係に戻らなければならない。
たった一晩だったけれど、ひどく幸せだった。
何度も愛おしそうに名を呼んでくれたことを思い出すと、なんだか泣きそうになる。
これで最後。
自分にそう言い聞かせ、そっと彼の唇に自身の唇を重ねた。
「さようなら、ウィリアム様」
後ろ髪を引かれる思いを断ち切り、廊下に誰もいないことを確認してから、部屋を飛び出したのだった。
住み込みの使用人たちの住まいは城館の地下にある。こっそりと自室へ戻ったが、やはり身体は痛くて仕方がなかった。
仕事の支度の時間になり、他の使用人と同じように準備を始める。
しかし、身体の違和感は残ったままで、なかなか普段通りに動くことが出来ない。
「イザベラ、大丈夫? もし体調が悪いなら、休んだ方が良いわ。今日一日くらいなら、バーバラ様も許してくれるはずよ」
そう言って仲の良い使用人のひとりが、家政婦長に報告してくれたため、一日だけ休みを得ることになった。
自業自得なのに休んでしまって、皆に申し訳ない。
自ら望んで愛する男性に純潔を捧げたうえに、休むなんて情けないなと思ってしまう。
ただ、その相手が相手だけに、痛みについて誰にも相談出来ない。
悶々としながら、昼間のベッドの上で休む。
「おい、イザベラ」
突然、聞き慣れたウィリアム様の甘い声が耳に届く。
「部屋に入って良いか? 体調が悪いと聞いて、見舞いに来たんだが――」
私は驚いてしまい、どう反応して良いのか分からない。
それに、愛する男性と今ここで顔を合わせてしまうと、婚約が決まるかもしれない彼との最後の情事だと、自分に言い聞かせた気持ちが揺らぎそうで仕方がなかった。
返事が出来ないまま、動けずにいた。
「おい、イザベラ、倒れてるんじゃないだろうな⁉」
慌てた様子で、ウィリアム様が勢い良く部屋の扉を開けて入ってくる。
咄嗟に、私は寝たふりをした。ばれないように気をつけて、寝息を立てているように見せかける。
「……なんだ、寝てるだけじゃないか。驚かさないでくれ」
安堵した様子の彼は、そっとベッドに腰かける。
いつもの爽やかな海の香り以外に、彼から甘い香りがした。
「イザベラ」
優しい手つきで、ウィリアム様は私の長い髪を何度も撫ではじめた。
そうして、ぽつりぽつりと呟く。
「優しいお前は迷惑だと思うかもしれない。けれど、アイリーン嬢との縁談話を断ったら、改めて俺の気持ちをお前に伝えたいんだ」
心臓が高鳴る。思わず、目を開きそうになった。
「いつもお前にはひどい言い方ばかりしてきたから、すぐには信じてもらえないだろう。だが、一からやり直したいんだ。情けないことに、順番は前後してしまったけれど」
私が眠っていると信じているからか、いつになく素直な物言いをする主人に少しばかり驚かされる。
「あとは、そうだな。これは昨晩の礼に、たった今手に入れたんだ」
彼はそう言うと、私の左手を取り、何かしていた。
(たった今? 何?)
それから彼は立ち上がると、私の髪を払い、こめかみに口づけてくる。
「イザベラ。次にお前とふたりになれたときに、また」
そうして、彼は私の唇に口づけた。
時間が止まったと錯覚してしまいそうになるほど長いキス。
「イザベラ、俺はお前を思い出にする気はない。俺の幸運を祈ってくれ」
それだけ言い残すと、彼は部屋を去っていった。
ぱたんと扉が閉まると、私はそっと目を開ける。
「一晩だけの恋人だって、言っていたのに……」
彼が何かをしていた左手を、顔の前に掲げる。
金の細いリングに蒼いサファイアが嵌まった指輪が、薬指に輝いていた。
精緻な細工に、どんな女性たちも胸を躍らせるに違いない。
「瞳と同じ色。これは……使用人の私には過ぎたものです、ウィリアム様……」
これは、たった数時間で準備出来るものではない。
昨晩の礼と言うには、持ってくるのが早すぎる。
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それとも、指輪はアイリーン様のために準備していたものなのだろうか?
期待したら、その分辛くなるのは分かっている。
枕元には、甘やかに香るグラジオラスの赤い花が一輪。
「……結ばれなかったとしても、この優しい主人のそばにずっといたい」
涙が溢れる。
だけど、もしも奇跡が起きて、ウィリアム様の……いいえ、私の願いが叶うのなら……
破瓜の痛みがどこかにいってしまうほどに、彼の優しさや想いを感じて、幸せな涙が流れ続けたのだった。
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