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花の盛るを夢に見て1

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 一叢の草も一本の木もない、平坦な荒野だった。
 感じるか感じないか程度の微かな風が、時折さらりと頬を撫でていく。暖かくもない、かといってひんやりともしない、ちょうど私の体ほどの温度の風だった。
 右側へ顔を向けると、燃え盛るような夕陽が遮るものの何一つない地平線の果てに沈んでいこうとしている。大地も空も毒々しいほど鮮やかなオレンジ色に染め上げられ、目を落とせば私自身もまた夕陽の色に染め抜かれている。
 左を向けば、右側の景色を切り取ってそのまま貼り付けたかのような、ほとんど同じ平坦な荒野がやはり地平の果てまで続いている。乾いたオレンジ色の大地には、私の背丈よりずっと大きな、長い長い影法師がべったりと伸びている。ただ空にだけは、凄絶な夕陽の力も及んでいない。まだ月を隠したままの地平線からは、宵闇の静謐な薄青い色がじわじわと空へ滲み出している。
 空を仰いでみると、ちょうど私の真上が夕焼けと夕暮れとの共存区域であるらしかった。右から押し寄せるオレンジ色と左から湧き上がる薄青色は、少しずつ主張を弱めながら空を塗り上げ、混ざり合い、私の頭上では花のような柔らかな薄紫色となっている。
 見上げるのをやめて自分の後ろを振り返ると、やはり何もない荒野が延々と続いている。ただ私が歩いてきた足跡だけが蜃気楼のような頼りなさで、はるか遠くから私の足元まで続いていた。
 振り返ることもやめて、最初に向いていたほうへ顔を向けた。右か左に行っても、斜めに歩き出しても一向に構わないのだが、なんとなくそのまままっすぐに歩き出す。
 歩いても歩いても、景色は変わらない。行く手にも、歩きながら見回してみる周囲にも、私以外の動物がいないのはおろか、石も草もない。太陽や月さえもその座す位置を変えることなく、地平線の上と下とで息を潜めている。ただ一つ、大きな私の影だけが、私とともにずっと歩き続けている。
 夢から覚めるまでずっと、私は果てのない荒野を歩き続けていた。

 目覚めてまず感じたのは、喉の渇きだった。
 眠気よりも尿意よりも強い、何物にも勝る切実なその欲求に急かされて、私は布団を跳ね除けるようにしてベッドから出た。
 冷蔵庫からお茶を取り出すことすらもどかしくて、水道の水をコップに汲んで一気に飲み干した。塩素のにおいに思わず顔をしかめたが、水分を渇望していた体に水がいきわたるような感覚にほうっと息を吐く。あの夢の荒野のように乾ききっていた体に、恵みの雨がしみこんでいくようだった。
 渇きから開放され、体を動かしたことで眠気も覚めて、少し理性と気持ちの余裕が戻ってきた。時計を見ると出勤まで程よく時間があったので、まずは朝食の用意をしようと冷蔵庫を開ける。
 果物を切り、器に盛り付け、ヨーグルトをかけ、包丁とまな板を洗い、器とスプーンを座卓へ運ぶ。その間にも、フルーツヨーグルトを口に運びながらも、思考はまたあの荒野の夢へと舞い戻っていった。
 このところずっと、同じ夢を見ている。誰もいない、何もない平坦な荒野を、ただ歩いていく夢だ。大きくても握りこぶしほどもない石が時折転がっているだけの、草木はおろか岩もない、道も泉もない、あまりにも空疎な荒野。時間帯はうす青い明け方であったり、眩しい白い光が照りつける真昼であったり、今朝の夢でそうだったように黄昏時であったり、無数の星が空を埋め尽くす夜であったりする。時間帯は様々でも、夢の空にはいつも雲ひとつなく、雨の気配の片鱗さえない荒野はいつも乾ききっている。
 その荒野のどこかにある何かを、私は歩きながらずっと探している。何夜を費やしてもそれは見つからないままで、物足りないもどかしい思いを抱えて毎朝目を覚ます。まるで本当に一晩中、乾ききった大地を歩き続けていたかのような、切実な喉の渇きに急かされるようにして。
 つらつらと考え事をしながら何気なく時計に目をやって、私は慌てて立ち上がった。悠長に構えていたせいで、出勤時間が迫っている。
 大慌てで食器を洗い、着替えと化粧を済ませ、持ち物をざっとチェックして家を飛び出した。余裕を持って出勤が可能な電車にはもう間に合わないから、「これを逃せば遅刻」の最後の一本に飛び乗った上で駅から走るしかない。
 遅刻の大義名分となる「電車の遅延」が起きていることを祈りながら、あまり期待せずに私は坂道を駆け下りていった。

 通勤ラッシュに揉まれながらなんとか遅刻せずに職場へ辿り着き、私は安堵の息を吐きながら鞄から水筒を取り出した。特に何も考えずにごくごくと中身を飲んでから、ふとわれに返って残量を確認する。走ってきたせいかひどく喉が渇いていて、家から持ってきたお茶を半分以上も一気に飲んでしまった。薄くはなるがお湯を注ぎ足そうと、まだ始業開始のチャイムが鳴るまでには猶予があるのを確認して給湯室へ向かった。
 私の所属部署と給湯室は同じ並びにあり、同フロアで最も給湯室に近い部署の一つとなっている。部署の業務自体は一般消費者からの問い合わせ対応が主で、メンタルヘルス上あまりよろしくない環境でもあるのだが、給湯室に近いことは数少ないささやかな利点だ。こうしてお湯を取りに行くのも楽だし、お茶を淹れるふりをしてサボることもできる。電話の向こうからの言葉のマシンガンでハートをずたぼろにされ、ハンカチを引っつかんで給湯室へ飛び込んで声を殺して泣いたことも何度かある。水道があり、トイレよりも近いうえ、トイレよりも利用頻度の少ない場所なので、人目を忍んで泣くには便利なのだ。
 給湯室ではいつも、その日最初にお茶なりコーヒーなりを飲もうとした人がお湯をたっぷり沸かしてくれてあり、保温にだけ使われている電気ポットになみなみと入っている。私をはじめとして後から出勤してくる大多数の人間は、労せずしてその恩恵にあずかるばかりのフリーライダーだ。少しばかりの申し訳なさを抱えつつも、もっと早く出勤して湯沸し係を買って出る気概が私には欠けている。
 私の水筒は小さいので、電気ポットの注ぎ口の下にぽんとおいて直接お湯を注ぐことができる。いつものように水筒をセットして給湯ボタンをぐっと押し込むと、じゃばじゃばという音と白い湯気とともに熱湯が水筒へ落ちていく。蓋が閉められる程度まで湯が入ったところで手を離したときに、始業開始時刻を知らせるチャイムが鳴り出した。私は慌てて水筒の蓋を閉め、電気ポットのロックを掛けなおして給湯室を飛び出した。

『もういい、二度とお宅の商品なんか買わないから!』
 それまで以上に大きな怒声に思わず受話器を耳から放すと、がちゃんとすさまじい音がして通話が向こうから切られた。大声にも怯まずに素直に傾聴していたら、私の鼓膜はかなりのダメージを負っただろう。相手方の電話にひびでも入ってると良いなあ、などと思ってしまうのは、私の性格が悪いせいばかりではないと思う。
 少なくとも、長い長い気の遠くなるほど長い電話からはようやく開放されたことには違いない。疲労と安堵がどっと押し寄せ、私は思わず机に倒れこんだ。ヒステリックに怒鳴り散らす声が、まだ頭の中に響いている。 
 時計を見ると、実に四十分もの長きにわたり、相手は怒鳴り続け、私は謝り続けていたらしい。具体的な数字で知ってしまうと、加速度的に疲労が増した。
「今の電話、何だって?」
ぐったりしながら机の隅においてある水筒に手を伸ばすと、隣の席に座る先輩が声をかけてきた。多少なり気にかけてくださるのはありがたい限りなのだが、四十分間の間に渇ききった私の喉の状態も酌んでいただけると、私はとても嬉しい。
「ああ、うちの会社のエアコンが壊れたってお話だったんです。もう製造終了していて、エアコン市場からも撤退していて、サポート期間も二年前に切れてるので、当社からは何もお手伝いできかねますってお答えしたら、お怒りで」
 水筒の蓋を捻りながら先輩へ答えを返し、続けてのコメントがやってくる前にさっさと水筒に口をつけた。渇ききっていた喉を、程よい温度の薄いほうじ茶が気持ちよく流れ落ちる。乾ききった喉に水分が染み渡る心地よさに思わず一気に飲み干してしまい、ふうっと息を吐いた。
 とにかく喉の渇きを潤したいという生命維持に関わる欲求が解消されると、また先ほどの電話の内容が頭の中でガミガミと響き始めた。
 なんて無責任な、そんなのはおたくの都合でしょう、消費者のことを考えろ、この暑い時期にエアコンが使えなくなってどんなに大変か分かるのか、熱中症になったらどうしてくれる、二年前までやってたんなら今でもできるだろう、何とかしろと、よくまあ臆面もなく主張できるものだと思わず感心してしまうようなマシンガントークだった。二十年近くにわたってエアコンを愛用してくれたのはありがたい限りではあるのだが、私がその状況に陥ったならごり押しでの修理よりも買い替えを選ぶ。というか、二十年目にして初の故障は、もはや寿命を無理やり延命措置で引き伸ばした末の自然死ではなかろうか。そうは思っても口が裂けても言うわけにはいかないので、「恐れ入ります。繰り返しになりますが、修理の面ではお力になれません」を、棒読みにならないように注意を払いながら、少なくとも十三回は繰り返した。
 いっそのこと「お前みたいな小娘じゃだめだ、上司を出せ!」と相手が言ってくれたなら、しおらしく相手と上司に謝ってみせながら、内心では「待ってました!」とばかりに上司へ押し付けてしまえたのだ。しかしありがたくも迷惑なことに、相手は私をある程度の責任と知識を持って回答のできる社員だと思ってくれたらしく、私にごり押しすれば無理も通ると過剰な期待をかけてくれたらしい。実際はといえば、電話が三コール以上鳴るのに任せてしまうと、「何をぐずぐずしているの?」「あなたが一番暇なのよ?」「ほら、さっさと出たらどうなの?」という先輩方の無言の圧力を受けることになる、部署で一番の下っ端なのだが。そのうえ私は、そうした圧力に気づかないふりができるほどの度胸や肝っ玉さえ、残念ながら持ちあわせていない小心者なのだ。
 すぐに仕事に戻るには疲労が大きすぎるが、業務時間中に自分の席でいつまでも悠長に構えてもいられない。トートバッグに空になった水筒と財布を放り込み、「ちょっと飲み物行ってきますねー」と誰にとはなく周囲へと声をかけて席を立った。
 自動販売機で買うかお茶を淹れるかしようと思っての持ち物二つだったが、足は自然と給湯室へ向く。飲み物にできるだけお金を費やしたくないという経済観念は、私にしっかりと根付いているようだ。
 給湯室へ入り、全部署共用の薬缶に水を多めにいれて火にかけた。電気ポットにも半分くらいはお湯が残っていたが、下っ端の分際で、誰だか分からないが少なくとも私よりは上役の方が沸かしてくださったお湯を、一日に何度も使うだけなのは申し訳ない。というのは建前として、お湯を沸かす時間を休憩に当てたいというのが偽らざる本音だ。
 換気扇のうなりと、ガスが燃える音と、水がお湯へと変化していく音。そうした小さな無数の音を聞きながら、私はまだ渇ききっている喉を自覚して小さな違和感を覚えた。
 水筒に水道水を入れてインフルエンザ予防のような念入りなうがいをしてみたり、洗った水筒にまた水道水を入れなおして飲んでみたりしたが、依然として渇きは喉に張り付いている。首を傾げながらもう一度うがいをし、水道水を今度は一口ずつ味わうようにして飲んでみた。
 それでも、渇きは収まらない。こんなに水分を取ったのだから気のせいだと自分に言い聞かせ、私は湯気を吹き始めた薬缶に手を伸ばした。

 とりたてて急ぐ仕事もなかったので、定時を過ぎたところで片付けに着手した。人によっては定時ちょうどに席を立てるように業務時間のうちからさりげなく片付け始めているが、若輩の私などにはそんな真似はできかねる。もとい、そんな事をしてはほぼ間違いなく、隣の席の先輩からお叱りを受ける。
 どのみち、机の片付けなど十五分もかからない。パソコンの電源がきちんと切れていること、忘れ物がないことを確認して、私は立ち上がった。
「お先に失礼しまーす」
 まだ片付けや残務整理をしている先輩・上司の皆様に挨拶して、私は職場を後にした。人の波に混ざって歩きなれた駅までの道を歩き、そこそこに混み合った電車に文庫本を読みながら揺られ、自宅の最寄り駅で他の人々と一緒に降車する。その足で駅前のスーパーへ入った。
 週に三回ほどの頻度で、私はいつも食材の買出しをしている。今日も二日分の肉や野菜を見繕って買い込み、えっちらおっちらと帰宅した。部屋着に着替えて一息ついて、そして夕飯作りに取り掛かる。
 コンロが一口しかないのでお茶を淹れるお湯は電気ポットで沸かしながら、まず味噌汁を作る。淹れたばかりのお茶に氷を入れて飲んでから鍋を脇に退けて、おかずの調理に取り掛かった。鶏肉を照り焼きにしながら、努めて仕事のことを考えないようにわざと鼻歌を歌ったりなどしてみる。だが努力の甲斐もなく、気を抜けばいつの間にか仕事のことを考えている私がいた。
 私はいつもそうだった。あの電話ではこう言えばよかったとか、あの時は先輩相手でも黙っていないでこう言い返せばよかったとか、もうどうにもできないことばかりを悔やみ、自分自身に苛立ってしまう。どんどん落ち込みストレスも溜まるので考えないようにしたいのだが、料理をしていても、風呂に浸かっていても、テレビを見ていても本を読んでいても、ふと気がつくと仕事の失敗や嫌なことを思い出してばかりいる。
 ゲームでもスポーツでも、何か熱中できる趣味があれば、それをしているあいだは仕事のことを考えずに済み、ストレスの発散もできるのかもしれない。だが、趣味は読書だと公言しているものの、それさえもストレスを忘れるほどにはのめりこめない。もっと幼かった頃は時間も寝食も忘れて読み耽ることができていたのに、いつの頃からかそれほど没入した読み方ができなくなってしまった。選ぶ本のせいなのか私の集中力の衰えのせいなのか、理由は定かではない。
 もやもやと胸にわだかまる思いを諦めて抱えなおし、氷を入れて冷ましたお茶をまた一気に飲み干してため息を一つ。そしてできあがった夕飯を座卓へ運び、座布団の上に座った。
「いただきます」
 一人呟いて食事を始める。ニュース番組を見るとも無しに眺めながら、静かな部屋で黙々と食事を終えた。風を入れるために開けた窓の外から、隣の部屋の音楽番組の音が流れてきていた。
 片づけをしながらまたお湯を沸かす。このところ妙に喉が渇くので、帰宅後すぐに一回、夕飯後に一回、寝るまでにまた一回か二回お茶を淹れることが習慣化している。それでも足りずに、水道水も飲んでいる。そのくせトイレの回数が増えたわけでも、汗を大量にかいているわけでもない。飲んだ水分がいったいどこへ行っているのかと自分でも不思議だった。
 渇く渇くと思い続けていたからだろうか。与謝野晶子の短歌に「渇き」に関連したものがあったはずだと、ふと思い出した。
 全国チェーンの中古書店で、何の気なしに文庫版の『みだれ髪』を買ってあったはずだと思い出し、本棚の前に立つ。もうだいぶ前、実家に住んでいた頃に買ったので、このアパートには持ってきていないかもと思ったが、右下の隅のほうにねじ込まれるようにして入っているのを見つけた。自分でやったことではあるが、ほぼ新品同様に手垢も焼けもない美品には申し訳ないほど扱いが雑だ。
 戻すときには丁寧にしまうからと心の中で手を合わせつつ、しゃがみこんだままページを捲る。探す歌は、第一の章「臙脂紫」の中ほどに見つかった。
『水に飢ゑて森をさまよふ小羊のそのまなざしに似たらずや君』
 与謝野晶子は奔放に愛の情熱を歌い上げた歌人だから、この歌も恋の歌だろう。「私は渇ききって水を求めるがごとく切実に、あなたを求めているのよ」という、激しい恋慕の歌なのだろう。
 では、私はどうなのだろう。
 渇ききって水を欲するような切実さで、私は何かを求めている。けれど、その「何か」が何なのか、私には分からない。
 水を飲んでも飲んでも収まらない、この水に飢えたような渇きは、いったい何を求めているのだろう。一体どうすれば、この渇きは収まるのだろう。
 早く見つけなければ、手に入れなければ、この心臓はきっと止まってしまう。そんな致命的な切実さで、私は確かに何かを求めているのに。
 思えばこんなに必死に、こんなに切実に、何かを欲しいと思ったことはついぞない。これまで私はいつだって、手に入れているものだけで満たされて生きてきた。
 いつの間にかニュース番組が終わったテレビでは、リゾート地の紹介をしていた。イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」がBGMとして流れている。私は両親の影響で好きな曲だが、同年代で知っている者は少ない曲かもしれない。
『Welcome to the Hotel California
 Such a lovely place』
 イーグルスの歌声はすぐに終わってしまったが、私はそれ以降の歌詞を鼻歌でなぞりながらテレビを眺めていた。眺めながら、ぼんやりと考えていた。
 あの夢の荒野にも、ホテル・カリフォルニアのような場所があるんだろうか。
 歌の中で「私」は夜の砂漠を走り続け、やがて行き着いたホテル・カリフォルニアで休息を取ろうとする。歓迎されながら「私」は考える。ここは天国なのか、地獄なのか。
『ようこそここへ、ホテル・カリフォルニアへ
 なんて素敵なところでしょう』
 チェックアウトはできるが、立ち去ることはできない。立ち寄ってしまえばそこに留まるしかない。とても居心地が良い素敵な場所で、けれど出て行くことは叶わない、穏やかな牢獄のようなホテル。
 そんな場所がもしかしたら、あの夢の荒野にも口を開けているのだろうか。
 ぞっと背筋を這い上がった寒気を振り払うように私は立ち上がり、入浴の用意を始めた。
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