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Ⅰ
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しおりを挟む「そのうち自分で歩くだろ……大丈夫だよ。お気遣い、どうもありがとう」
言葉通り、ノエルは間もなく先ほどと同じように元気に歩き始めた。
翔は坂を下り終えるまで決してノエルの手を離さない。ノエルもカケルの手を離そうとはしなかったし、もう片方の自由な手はしっかりと黒うさぎのぬいぐるみを抱いて離さない。僕は翔たちを見ながら、だんだんと迫ってくる羽黒町の景色を眺めていた。
途中で喉が渇いたと言いだしたノエルは、いちごのジュースのことはなにも言わなかった。忘れていたのかもしれない。翔は立ち止まって背負っていたメッセンジャーバッグの中から小さなペットボトルの飲み物を出すとキャップを開けてノエルに渡した。ノエルが持つと、ペットボトルはいつも自分が飲んでいるものとは全く別のものに思えた。異様に大きくて、不親切な印象を受ける。絶対にこぼすだろうなあと思って見ていたら翔は既にハンカチを片手に持っていて、こぼれた飲み物はノエルの服がぬれる前に全部ハンカチが受け止めていた。
僕はそれをただ見ていた。
「おにいちゃんともつなぐ」
ノエルが僕を見て言う。僕はえ、と上擦った声を出して戸惑う。ノエルの向こうで翔が訝しげにノエルを見下ろしていた。僕とノエルを交互に見て首を傾げている。
「なにおにいちゃん……?」
「ぼ、僕? えっと……」
「なまえ!」
たじたじの僕に痺れを切らしたように、ノエルが頬を膨らませる。その大きくて世界中のどんなものよりも透き通っているような瞳が僕だけを映し出している。
「ゆ、優月、僕の名前は……優月です……」
「ゆづきおにいちゃん」
なんだろう……優月お兄ちゃんて呼ばれちゃった、心がむずむずする……! お菓子あげたくなる……! なんだこの気持ちは……!
「もって、優月おにいちゃんとてをつなげないから」
ノエルが黒うさぎのぬいぐるみを僕に差し出してくる。
僕はよく理解もしないままそれを受け取った。
空いたノエルの手が僕の右手を掴んでくる。
どき、ってするし、ノエルの手、あったかくて……なんか胸が、きゅうってする。
「ノエル……どうして優月はお兄さん付けで俺は呼び捨てなんだよ、聞き捨てならないんだけど、それ」
翔が歩きながら文句を言う。僕と翔の間に挟まれて満足そうなノエルはそれを軽やかに聞き流して楽しそうに歩いていた。
恥ずかしいのは僕だけだったみたい。翔もノエルも、少しも恥ずかしそうじゃなかった。僕は右腕の黒うさぎのぬいぐるみを持て余しながら二人の会話を黙って聞いていた。たまに僕に話を振ってくる翔は不思議なくらい自然体で、僕らって、ついさっき会ったばかりなはずなのになんでこんなに近いところにいるんだろうって、ちょっと思った。
秋のお菓子屋は、人通りの少ない閑静な路地にぽつんと立っている。外観は周りの建物と違って綺麗な三角屋根で、レンガでできた煙突がついている。一度見たら忘れられないくらい場違いな建物だったから、僕は一度で店を覚えることができた。
店先の花壇は綺麗に手入れされていたけれど、花はまだ咲いてない。あとひと月くらい経てば、様々な花々で彩られる。それを、翔とノエルに見てもらいたかったと思った。
僕はノエルの手を離して、店の扉をそっと押す。
扉の向こうの香りは、まだ冬の香りがする空気をまとった僕らを暖かく包み込んでくれた。甘い、甘い優雅な香りがする。扉を開けて真っ先に駆け出したのはノエルだった。ノエルは翔の手を離すとそのままケーキがたくさん並ぶショウケースに磁石のように張り付いて感嘆の声を漏らす。
僕はノエルの黒うさぎを持て余しながら、なんとなく翔のほうを見る。翔もなんとなく僕のほうを見ていたのかもしれない。目が合って、二人で苦笑した。
大人が五人入ったらいっぱいになってしまいそうな小さな店内にはショウケースが二つあって、一つは様々なピースケーキがびっしり。もう一つにはホールケーキや大きなパイ、シュークリーム、そして色とりどりのマカロンがたっくさん、綺麗に並んでいる。お菓子の名前を書いているプレートは店主の手書きでとても味がある。
「パンも置いてる」
カケルが珍しそうにあたりをきょろきょろする。お菓子屋にパンが売っているのは、秋のお菓子屋では普通の光景だ。
秋のお菓子屋のバゲットを、僕は一度だけ食べたことがある。それまでバゲットなんて硬くて好きになれなかったけれど、今は大好き。でも一番美味しいのはクロワッサン。マダムは秋のお菓子屋のクロワッサンを自分のお店のコーヒーに浸して食べるのが大好きだ。初めて見た時は顔をしかめたけれど今は少しも嫌な気がしない。美味しさを知ってしまったから。
騒ぎを聞きつけて奥から出てきた店主の慶秋さんが、僕を見て「こんにちは」と言った。僕も「こんにちは」と言って簡単に頭を下げる。
慶秋さんもマダムも、めったにいらっしゃいませとは言わない。『こんにちは』の挨拶になにかのおまじないが込められているかのように頑なに「こんにちは」と言った。
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