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第二章
9.うつろ
しおりを挟むルーカスはどうやらフォルトゥーナ嬢に『怖くない人』認定されたらしい。
彼女の意識にどのように認識されているのか、詳細は神官殿にでも尋ねないとわからない。だがあれ以来、クラシオン夫人と一緒に令嬢の側へ近寄っても、令嬢はとくに驚いたり怯えたりしなかった。
及び腰で近づくルーカスは、笑顔の夫人から坊ちゃまだけでお側に行かれても大丈夫かと思いますよと逆に背中を押される始末。
フォルトゥーナ嬢はルーカスの存在に気がつくと、表情は変わらないけれど目の形が柔らかくなる。そしてあの黒曜石みたいな瞳でじっとルーカスを見つめる。
まるでその瞳がどうしてここにいるの? きょうはなにしてあそぶの? と問いかけているような気がして、ルーカスの心拍数は上がりっぱなしになる。
いつものように窓際のクッションに腰をおろしている令嬢の足元の床に座れば、令嬢のやさしい手がルーカスの髪に伸ばされる。
そして何度も飽きもせず撫で続ける。
ありていに言えば仲良くなれた。とルーカスは思う。
けれどこれは、人としてより愛玩動物として認識されているかもしれない、とも思う。
今までほとんど無表情だったフォルトゥーナ嬢が、うっすらとであるが、笑みを浮かべながらルーカスの頭を撫で、頬を撫で、耳の後ろを撫でる。
(うん、これって犬猫扱いだよね……フクザツなきぶんだ……)
嬉しいか嬉しくないか、迷惑か迷惑でないかと尋ねられたら……たぶん、返答に迷うであろう。
令嬢が泣いたり怯えたりしていない事実が素直に嬉しいと思う。むしろ楽しんでいるようにも感じるから、それはとてもとても嬉しい。
しかもそれは自分がいるからかと考えると、あぁ良かったと率直に思う。
でも撫でられている現状が、なんともフクザツな心地になるのだ。
令嬢に触られて……たぶん、嬉しいのだ。ルーカスは。
でも『これじゃない』感がひしひしと押し寄せて来て、けれどそれをうまくことばにすることもできなくて、いったいどうしたものかと思い悩む。
「ルーカス坊ちゃまがお嬢さまよりお小さいことが良かったのかもしれません」
とは、クラシオン夫人の談である。
令嬢がルーカスの存在を受け入れた理由はそれだと。
夫人はルーカスの存在が令嬢にいい刺激を与えているに違いないと安堵したように笑う。
夫人が言うように、ルーカスが側に近づいても平気なのは彼が子どもの姿をしているからだろう。自分に害をなすとは思えない小さい存在だから。
これが本物の犬猫の仔だったらどうなるだろうと考えたが、あいにくと愛玩できそうな生き物はこの地にはいない。犬はいるが城の警備犬で、体躯も立派だし獰猛な牙と爪をもっている。令嬢の側には置けない。
物は試しだとルーカスが自分と契約している風の精霊のうち、手の平に乗るサイズの小さな精霊を呼び出してみた。それなりの魔力がないと精霊の姿も視認できないが、フォルトゥーナ嬢は精霊をちゃんと認識した。精霊の動きに合わせて視線が移動することから分かった。
そして興味津々に瞳を輝かせて見つめ続ける。どうやら魔獣のような怖い物には視えていないらしい。これにも一安心した。
クラシオン夫人が、王都にいたころのフォルトゥーナ嬢は火の精霊と契約していたのだと教えてくれた。彼女は優秀な火の魔法使いだったとも。
本人の意思がなければ、たとえ契約者とはいえ契約した精霊を召喚させることはできない。
つまり、いまの彼女には魔法が使えない。たとえ魔力があろうとも。
風の精霊がルーカスに囁く。
『このひと、ここにいるのにいないんだね。虚ろになってる』
「虚ろ?」
令嬢の手の平に乗ったちび精霊へと話しかけるのに、令嬢を驚かせてはいけないので、ルーカスは小さな声をだす。
『このひと本人の意思が感じられない。どこにいったの?』
精霊は嘘をつけない。明け透けな質問に苦笑いするしかないルーカスだ。
「さあ。どこに行っちゃったのかな」
たぶん近くて遠いところだと心の中だけで返答する。
『このひとと契約した精霊が泣いて怒ってる』
急に。
話していた内容が気に入らなかったのか、令嬢が精霊の頭を指先でつまんで持ち上げた。そのまま口を開けて咥えようとするから驚いた。
『きゃー! 食べないでー!』
悲鳴だけ残して精霊は消えた。
急に消えたのが不思議だったのか、令嬢は目をぱちくりさせたあと首を傾げる。なんども自分の唇のあたりをぺたぺたと触っている。
とてもあどけない仕草だった。
「フォルトゥーナさま、精霊は食べ物じゃないんですよ。はい、こちらは食べてもだいじょうぶなものです」
そう言いながら夫人が剝いてくれた果物を差しだせば、それはいらないのか違うというように首を振る。そのときの表情がなんだかむずがる赤ん坊のようで可愛いなとルーカスは思う。
(だいぶ慣れて、表情も分かるようになったけど……まだことばを発するまでには至らないんだよね……)
令嬢は、クラシオン夫人に対してさえもことばを発したりしない。
ときおり緩慢な動作で動くけれど、なにをするでもない。
黙って座っているさまは、等身大の精巧な人形のようにも見える。
たまに。
ルーカスの存在そのものも気づかないほどぼんやりしているときもある。
そんなときのフォルトゥーナ嬢は決まって大窓から空を見上げている。
少し悲しそうな表情を浮かべているので、ルーカスも物悲しくなる。
令嬢はなにを見ているのだろうか。
閉じこもってしまった自分の殻の中で、過去にあった出来事を反芻しているのだろうか。
クラシオン夫人の声にさえ反応を示さないそんな姿に、夫人も悲しそうな顔になる。そういうときの夫人の姿に、ルーカスはいつもガブリエラ――前辺境伯夫人――を思い出す。
慈しみ深く、愛情に溢れた方だった。
きっと彼女も成長しないルーカスの情けない姿を知ったら、今のクラシオン夫人のように心配しただろうと簡単に想像できた。
(おかあさまは不甲斐ないぼくをご存じないまま逝ってしまわれたから……それだけは良かったな)
フォルトーナ嬢が虚ろな瞳を空へ向けているとき。ルーカスはクラシオン夫人に寄り添い、彼女のかさついた手を握っていっしょにじっと耐える。
令嬢がこちらに気がついてくれるまで、黙って待ち続けている。
◇
そんな日々が淡々と過ぎ、二ヵ月ほど経過したころ。
ふいに。
風の精霊が現れルーカスの耳元で忠告した。
『風の守護結界』の外に知らない人が近づいている、と。
ルーカスは急いで城の一番高い鐘楼のさらに上の尖塔のてっぺんにひょいひょいと身軽に飛び乗ると、『風の噂』を聞き集める。
辺境の地の周囲に張り巡らせた守護結界。
風の魔法による結界なので人の目には見えない。そして領地外からの目くらましと、不審なモノが近づくのをルーカスへ知らせるだけで、防御力などはつけていない。
不審人物は……王都の方角からきた人間。
人数は……ひとり。白馬に乗っている。
どんな様相の人物か……短い金髪に碧い瞳。若い男。苦悶の表情。豪華な衣服。
(だれ?)
王都方面から豪華な衣服で来るなら、貴族だと推測できる。しかし貴族ならば普通、単独で行動するだろうかと疑問が湧く。
これは辺境伯に持ち込むべき案件だとルーカスは考えた。
そして『風の守護結界』に手を加える。
侵入者が迷うように蜃気楼を見せ、辺境伯城へ辿り着く道筋を見誤らせる。
途中途中の風景は砂漠に見えるように術を掛け、ゆっくりぐるぐると彷徨っていてもらう。侵入者にとっては、砂漠で強い風に吹かれ続けている感覚だろう。
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彼が彷徨っている間、どんな人物か観察しつつ父と相談して対応を決める。
(時間稼ぎはこんなもんでいいか。あとはちちうえと相談だ)
尖塔のてっぺんから城の棟に飛び降りたルーカスは、そのままサルヴァドールの執務室を目指し屋根を蹴った。
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