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第二章
11.たがために
しおりを挟む父と老執事の注目を浴びたルーカスであったが、彼は特に緊張したようすもなく……むしろ、なにかを企んでいる顔で自分の意見を述べた。
「いますぐ捕らえて問答無用で送り返すという手もありますが……ぼくとしては……フォルトゥーナさまを傷つけた奴の顔、ちゃんと拝んでみたいから……ちちうえ、王子と謁見していただけますか?」
「城に招くか。いいのか?」
それは、老執事が挙げた“一番穏便に方を付ける”という案を採用することを意味した。魔法をかけ続けるからルーカスに負担がかかる。
それでいいのかと繰り返し問う辺境伯へ、ルーカスはあっさりと微笑み返した。
「ぼくはだいじょうぶですから。……でも、ぼくなりに奴を懲らしめたい気がするので『風の迷宮』で三日三晩は“砂漠の中を”彷徨ってもらいます。精も根も尽き果てた状態になったら城へ続く道に戻します。
……なぜクエレブレに来たのか理由をちゃんと聞きたいです」
王子の来訪目的がフォルトゥーナ嬢だというのは自分たちの推測にすぎない。
もしかしたら、他にちゃんとした理由があるのかもしれない。
たとえば……己を鍛え直す修行のためとか。……そんな殊勝なことを考える性格の王子なのか知らないが。
(聞いた話だけじゃあどんな為人なのか謎のままだ。百聞は一見に如かずというものね)
ルーカスの“王子を直接見てみたい”という意見を聞いた辺境伯は、おまえがそう思うならそうしようと了承した。
父の了解を得たルーカスはホッとしたようにあどけなく笑った。
“ディーネありがとう”と呟いた彼は空中に浮かんでいた『水鏡』を消す。
「じゃ、王都で王子がどんな扱いだったのか、この二ヶ月間どんなふうに過ごしていたのか『風の噂』で聞いてきますね」
(一見に如かずとはいえ、事前情報が多いに越したことはないもんね)
そう言うが早いか、辺境伯が止める間もなくルーカスは窓から飛び出した。
タン、タン、タンと、ルーカスが辿ったであろう場所(おそらく窓枠、城壁、屋根)を蹴る足音だけが響いた。
「待てルーカス! 無茶をするな……って、聞いちゃいないし……王都の情報収集だと? だいじょうぶなのか、あいつは……」
音が消えていく方角の天井を目で追いながら、辺境伯はなかば呆然と呟く。
「さあ、どうでしょう。さすがの若さまでも王都への『風の噂』、ですか……魔力枯渇で倒れることになるやもしれませんな」
いかんせん、王都とは距離があり過ぎる。
ただでさえ守護結界を張り巡らせているし、不審者への幻影もかけ続けている。そのうえの魔法だなんて、あきらかに負荷がかかり過ぎだと老執事は懸念する。
「まったくあいつは! いくら魔力過多だからといって、いつもいつも無理をしすぎる!」
辺境伯は立ち上がるとルーカスのあとを追った。
とはいえ、窓からひょいっと外へ飛び出したルーカスと違い廊下を抜けて、であるが。
彼の行き先は鐘楼のてっぺんであると察しはついている。
あんな場所にまっすぐ立ち続けるなんて、ルーカスにしかできない芸当である。
凡人を自認する辺境伯には、あそこへ一緒に立つことなどとうていできはしない。だが、魔力枯渇で倒れるかもしれないルーカスを助けることはできる。彼の姿を視認できる城の屋根の上を目指し急いで移動する。
「若さまは必死なのですよ。あなたさまのお役に立ちたくて」
主のあとを追いながら、老執事は言う。彼は辺境伯がまだ王都守備隊にいたころの副官を勤めた人間だ。老いたとはいえ、主と同じ速度で走ることくらい容易い。
辺境伯は老執事の顔を見ると、おかしくて堪らないという顔で笑った。
「だがな、セルバンテス。今回のこれは私のためではないだろう……いや広義には私の、というかクエレブレのためであろうが……令嬢を守るための行動だと思うのだが……思い違いだろうか」
「閣下……」
屋根裏を抜け、屋根の上に出る。そこから鐘楼の上にある尖塔のさらにてっぺんに立つルーカスの姿が見えた。すっくと爪先立ちするそのシルエットはまるで尖塔に作られたオブジェのようにも見える。
髪や衣服が風に吹かれて揺れている。そのさまが、もうすでに『風の噂』発動中なのだと窺えた。
「あいつはいつも“ちちうえがそうお望みなら”と言うが……今回は言わなかった」
どこか嬉しそうに語る主に、老執事はやや呆然と呟く。
「閣下……令嬢をお引き受けなさったのは、もしや……」
辺境伯は己と同じ年の老執事を見遣り、にやりと笑った。まるでイタズラが見つかった子どものように。
そして照れ臭そうにしながらも、視線を尖塔の先にいる息子へ戻す。
「どうなるかは分からんよ。だがあの令嬢がよいきっかけを与えてくれると、私は見込んだのだ」
多くの風の精霊に囲まれている息子の姿を見守りながら、辺境伯はそう呟いた。
■ ◇ ◆ ◇ ■
日が沈み、夜になった。
高い天井まである大窓から空を見上げていたフォルトゥーナは、ゆったりとした緩慢な動作で自分のいる部屋のようすを見回した。その動きに合わせ、彼女の肩から赤い髪がさらさらと零れるように揺れた。
彼女はゆっくりと首を傾げる。
「……るぅ?……」
ぽつりと呟いたか細い声は、暗い部屋の中で響かず消えた。
■ ◇ ◆ ◇ ■
老執事セルバンテスはため息をついた。
城の屋根で腕組みしながら威厳と威嚇をにじませどっしりと立ち続ける彼の主へ、水や食べ物、外套などを差し入れしたのだがすべて断られてしまったからだ。彼自慢の口ひげもため息と一緒に項垂れる。
主曰く「ルーカスも飲まず食わずだ」
彼の息子であるルーカスが尖塔の先に立って『風の噂』を発動させてからすでに数時間経過し、今は真夜中過ぎだ。さすがに夜は冷える。
いくら息子が心配だからと言って、辺境伯閣下まで飲まず食わずで見張り続けなくてもよかろうものをと老執事は憂う。
そんなことはないだろうが、万が一辺境伯が倒れでもしたら彼の巨躯を移動させるのにどれだけの人員を配置すればいいのだろうと脳内で見積もってまたため息をつく。
(そういえば、以前戯れに若さまが閣下を抱き上げたことがありましたが……)
テーブルの上に立った小さなルーカスにお姫さま抱っこされる大きな辺境伯の図なんて世にも珍しい光景、後にも先にもあれしかないなと思うセルバンテスである。
あのとき、これからさき辺境伯に介護が必要になってもこれは安泰だなと思ったのだ。
(若さまが倒れられても……閣下が倒れられても……どちらにしてもクエレブレの民には大打撃です……)
ため息をつきつつ自分の部屋に戻ろうとした彼は、珍しい人物と出会った。
「クラシオン夫人?」
いつもはフォルトゥーナ嬢のいる特別室からほとんど出てこないソンリッサ・クラシオン夫人が、執事の部屋の前の廊下をうろついていたのだ。
「あぁ、執事長さま」
呼ばれた夫人はほっと安堵したように顔を綻ばせた。
はて。自分に用事でもあったのかと老執事が問えば、夫人はルーカスの行方を尋ねた。今日は一度も彼の姿を見ていないと。
なるほど、今日のルーカスは令嬢の部屋を訪ねる前に尖塔のてっぺんへ行ってしまったのかと合点した老執事だったが、彼の行方を正直に伝えたものか悩ましいと感じた。
「若さまは諸用で……なにか不都合でもございましたか? わたくしめがご用件を承りますが」
クラシオン夫人は少女のように瞳を輝かせて老執事へ報告した。
「お嬢さまが、フォルトゥーナお嬢さまがお声を発したのです! それも、ルーカス坊ちゃまをお探ししていたようなのです!」
「どういうことでしょう」
「日が沈み、夜の帳が降りてお部屋の中が暗くなったので灯りをつけようとしましたところ、お嬢さまのお声が聞こえたのです。“るぅ”と。何ヶ月ぶりでしょう! 悲鳴や泣き声以外でお嬢さまのお声を聞いたのは……!」
感極まったのか、夫人の眦から涙が零れ落ちた。
夫人は自分の涙に構わず、報告し続ける。
慌てて部屋を明るくし令嬢のようすを見てみれば、ゆっくりとした動作であったがなにかを探すように視線が動いていた。そして小首を傾げると“……るぅ……”と呟いた。その姿はルーカス少年の不在を不思議がっているようであったと。
「あぁ! 神官長様のおことばに従ってこの地に来てよかった! 竜神さまっ! ルーカスさま! ありがとうございます!」
これは令嬢にとって良い兆候だろうとセルバンテスは考えた。
ルーカスの諸用が済んだら必ずその朗報を伝えると夫人に約束し、彼女を部屋へ送り届ける。もう時刻は真夜中すぎなのだから。
すべての物事がいい方向へ進みますようにと願いながら、セルバンテスは眠れぬ夜を過ごした。
思っていたより長時間、ルーカスが『風の噂』にかかりきりになっていたからである。
◇
『我が主よ。そろそろ主の魔力が尽きるぞ』
ひときわ大きな風の精霊に話しかけられたルーカスは、瞑っていた瞼をぱちりと見開いた。
ルーカスの紅玉のような瞳に写ったのは澄み渡った空の果て。王都の方角から昇るまばゆい朝日のようすであった。
澄んだ空気の中、黄金に煌めく朝日。その陽の光に照らされて風の精霊たちが楽しげに舞う。一日のうちで一番清涼な風が吹いている。
(あれ? ゼフィー? もう朝? っていうか、いつのまに夜が過ぎちゃったの?)
ゼフィーと呼ばれた青年の姿をしたうつくしい風の精霊が呆れたようにため息をついた。
『相変わらず世話が焼ける主よの……わが眷属もおおかた帰還した。そろそろ地上に降りよ』
その大きな精霊の周りを小さな精霊たちがぐるぐると飛び回りながらひっきりなしに話し続ける。
『もう降りよー。バカはバカってみんなに呼ばれてるよー』
『もう降りよー。バカは名誉回復せねばって焦ってるよー』
『もう降りよー』
『もう降りよー。おなかぺこぺこー』
ルーカスはちび精霊たちのことばに、そういえばと空腹と喉の渇きを覚えた。意図していなかったが、夜どおし魔法を発動させたままであった。
(あー。そういえば、お昼ごはんも食べてなかった……ような)
我ながらマヌケだと反省したとき、ゼフィーが囁きながら城の方向を指差した。
『ほれ、主の養父殿があそこで心配そうに見上げておるぞ』
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