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正式な婚約者
しおりを挟む『おまえが一番に望むことを。アンネローゼ』
アスラーンのうっとりするような優しい声が脳内に響く。
わたくしの、いちばん、望むこと……。
それは……。
わたくしは、本当はちっぽけな存在なの。
ただ王家に生まれただけで、女神の愛し子なんかじゃないの。
それでもみんなの役に立ちたくて、一生懸命お勉強して、なんとか王女としての矜恃を保っているだけ。
この国の為になにができるかって、どんなに考えても分からない。
本当に平凡でちっぽけな存在なの。
そんな平凡なわたくしが持つ、ちっぽけな願いがひとつだけあって……。
わたくしはアスラーンの瞳をまっすぐに見つめ返す。
【わたくしは、世界の版図を変えるなんて望まないわ。
他国の王の首も欲しくない。
わたくしが欲しいのは、お兄様たちみたいに愛し合って笑い合える伴侶と家族よ】
視界の端でレオニーが、拡声器をわたくしの口元に構えてくれている。
と、いうことはわたくしのこの声が、みんなに届いてしまったってこと?
アスラーンの深い森の色の瞳が、キラリと光ったように見えたわ。……もしかして泣いてる?
【それならば、すぐにでも! 俺は君の望むままに】
『俺のアンネローゼ!』
アスラーンが握っていたままだったわたくしの右手に唇を寄せた。
途端、おおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーーー!と、今までにない、凄まじい歓声が沸き上がったわ。
そうだった。今は舞台上で、観客付きだったのだわ。
一年まえの噴水広場でも公開求婚されたけれど、あれは放課後の一部の学生の前で行われたモノだった。
でも今は違う。
全学生と教職員、学園スタッフ、そして卒業式に来場した親族の爵位持ちの方々。
それらすべての人の前で、わたくし、とうとう彼の求婚に応えてしまったわ。
でもね。ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、悔しいの。
わたくしから申し込むつもりだったのに!
アスラーンに先を越されてしまった。あれこれ悩んでいた自分が馬鹿みたいじゃない。
アスラーンも望んでいたと知ることができて嬉しいけど。
そして。
一番反対しそうな厄介な人も、ここにはいて。
わたくしは、レオニーが持っていた拡声器を奪い取った。
そしてそれを三階講義室の窓からこちらを見下ろしているお兄様へ向けた。
【お兄様!】
わたくしが拡声器を通してお兄様へ語りかけたので、会場中が三階の窓を振り仰ぐ。
さきほどの歓声が嘘みたいにシン……と静まり返ったわ。
中には王太子の存在に、今さら気が付いて慌てている人もいたわね。
窓からこちらを見下ろすお兄様は、完璧な笑顔。
でもわたくしには分かっていてよ。
あれはよそ行き笑顔。
王族として、ただ笑みの形を作っているだけのお顔だって。内心はさっぱり分からない。
【ご心配おかけしているのは重々、承知しております! でも、わたくし、両国の架け橋に、ちゃんとなってみせますわ!】
説得するのは、わたくしを愛するがゆえに頭の固い実の兄。
【わたくし、お兄様とお義姉様が理想なのです!
おふたりのような夫婦に、アスラーンと、なります。なってみせますわ!
だから、どうか、この婚約、許してくださいませ!】
会場中のみんながお兄様の応えを待つ。ピンと張りつめた空気。
どうか、お願い! そうわたくしが祈ったとき。
客席の中から、ひとりの黒ガウン姿の女子学生が立ち上がった。
「恐れながら、殿下! わたくしからもお願いいたします! 真実お二人は想い合ってますわ!」
叫んだのはメルツェ様!
そしてそれを合図とするように、
「殿下! 俺からもお願いします! 許してあげて下さい!」
「殿下! 私からも!」「殿下!」「お願いします!」「殿下!」
メルツェ様の叫びを皮切りに、観客席の学生たちが次々と声を上げた!
それはやがて波のような大きな声となって、会場中を木霊する。
三方を校舎の壁に囲まれたこの中庭を舞台設置場所に選んだのは、音響効果が抜群だからなのだけど、ここまで声が響き渡るなんて!
まるで合唱のような。
もしくは地響きのような。
全学生による懇願の声が!
「「「お願いします!!!」」」
いつの間にか、アスラーンに肩を抱かれていた。
彼の顔を見上げれば、心からだと分かる、穏やかで甘い笑顔。
大好きなその深い森の色の瞳がわたくしだけを映し出す。そして、
『アンネローゼ。おまえが愛おしい』
また口を動かしていない!
心の声でそんな風に言わないでよ!
顔が熱くなっちゃうじゃない!
【あーあー、皆、静まれ】
拡声器を持ったお兄様のお声に、みんなが黙ったわ。
みんな、王太子殿下がどんな返答をするのか、待ち構えている。
お兄様は、ひとつ大きなため息を吐いたように見えたわ。
【アンネローゼ。ヨハンとの約束、憶えているか? あれを……破る気かい?】
わたくしも拡声器を持って、お兄様に応える。
【まさか! 大切な弟のお願い、叶えますわ!】
わたくしがそう言ったら、お兄様はやっといつもわたくしに見せる笑顔になった。
【なら、良い。私の名を持って、ふたりの婚約を許そう】
お兄様がそう言った途端、またしても、おおおおおおおおおーーーーーーーっ! という歓声と共に、卒業生たちが被っていた黒い帽子が一斉に投げ上げられて高々と宙を舞ったわ。
舞台の後ろからは、
「「「「「「やったーーーーーーーーーー!!」」」」」」
という学生会メンバーの叫び声が重複して聞こえて。
わたくしはどさくさに紛れたアスラーンの手でお姫様抱っこされていたわ。
アスラーンの嬉しそうな笑顔。
こんな朗らかに笑うのね。この顔、初めて見たのではないかしら。
でも待って、下ろしてちょうだい。
アスラーンがうん? と不審そうな顔をするけど、わたくしを舞台上に下ろす。
わたくしは舞台から降りて、観客席にいるあの人の元へ駆け出した。
「メルツェさま!」
あちこちから黒い帽子が落ちてくる中、メルツェさまの元に辿り着いたわたくしは、まっすぐ彼女の胸に飛び込む。
「メルツェ様! メルツェさま、めるつぇさまぁ……ありがとぅ……」
メルツェさまに抱き着いて、肩口に顔を埋めて。
わたくしはいつの間にか涙ぐんでいたけれど、仕方ないと思うの。
メルツェ様が初めに声を上げてくれたから、皆が同調してくれた。
メルツェ様が切っ掛けを作ってくれたおかげ。
嬉しかったし心強かったのよ、とても。
「はい……はい、アンネローゼさま……」
メルツェ様は優しくわたくしの頭を撫でてくれて、それも嬉しくて。
【ただいまを持ちまして、第一回、卒業記念祭は閉会とさせて頂きます。
みなさま、長い時間、ありがとうございました!】
【先輩方、ご卒業、おめでとうざいます!】
レオニーとカールが閉会の挨拶をしていたけど、わたくしはメルツェ様の優しい腕の中に居続けたのでした。
あら?
閉会の挨拶って、わたくしがやるんじゃなかったかしら? やばっ。
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