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魔術師団研究員リズベス嬢の逃避

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 茜色の空を、だんだんと夜の藍色が侵食していく。二つの色が混じり合い、不可思議な色合いが出現する。
 この時間、こうして空を見上げるのが、リズベスは好きだった。
 熱心に空を見上げるリズベスの桃色の唇からは、自然と感嘆のため息が漏れる。
 周囲の木々のざわめきも、どこか遠くから風に乗せられてくる人々の話し声も、段々と意識から遠ざかっていく。ただ、目の前に広がる、この時間だけの美しさに心を奪われていた。
 どれくらいそうしていただろう。最初は茜色が勝っていた空の色は、今ではその占有権のほとんどを藍色に譲り渡して、うっすらと辺りが暗くなり始めている。その藍色の中に光る星を、一つ見つけた――と思った瞬間、リズベスの背後でがさりと植え込みが揺れた。
「だっ――」
 誰、と誰何の声をあげようとするのと、腕を掴まれるのはどちらが早かっただろう。気がつくと、リズベスは逞しい腕の中に引き込まれていた。
 ――この腕を、私は知っている。
 突然抱きしめられたにも関わらず、リズベスはほっと安堵のため息をつく。一瞬緊張した身体から力が抜けて、リズベスは目の前の胸板にそっと頬を寄せた。
「遅くなって済まなかった」
 耳元で、優しい低音が響く。その場所からじんわりと暖かさが身体中に染み渡っていく。
「いいえ、空を見ていましたから……」
「でも、こんなに冷えてしまっている。……ほら、ここも」
 背中に回されていた手が離れて、リズベスの耳をそっと撫でる。暖かな掌が、そのまま頬を撫でると顔を上に向かせた。
 ようやく、愛しい人の顔がリズベスの視界に入る。
 彫刻のように端正な顔立ち。翠色の美しい瞳が、優しげな光を湛えてリズベスを見つめている。薄茶色の髪は、急いで来たからだろうか、少し乱れてしまっていた。
 ぴったりと寄り添ったまま、二人の視線はお互いを映して動かない。周囲の音も風景も、全てが消えて、ただお互いのことだけを見つめていた。
 どれくらい、そうして見つめ合っていただろう。慈しむように頬を撫でていた手が、その動きを止める。
「リズ……」
 熱っぽい声に促されるように、リズベスはそっと目を閉じた。
 顔の近づいてくる気配がする。その唇が、重なろうとする寸前、たまらなくなってリズベスは彼の名を呟いた。
「ヒューバートさま……」



 ◇

 そこで、急激に意識が浮上する。閉じていた目を開いて、二、三度瞬きを繰り返した。
「……ゆ、夢……?」
 リズベスは呆然と呟いた。辺りを見回しても、見慣れた寝室のベッドの上にいることは間違いない。
 それを確認して、リズベスは枕にぼすりと顔を埋めた。起きた時に抱きしめていた枕だ。
「そうよね、夢よ……ね……」
 ほんのちょっとがっかりしている自分に気づいて、リズベスは顔を赤くした。同時に、腕の中の枕をなぜ抱きしめていたかに思い至り、慌ててそれを放り出す。
(私ったら……なんてことを!)
 火照る頬をおさえながら、リズベスは悶えた。恥ずかしい。猛烈に恥ずかしい。
 一体なんだって、こんな夢を見てしまったのだろう。あれは、まるで――
 リズベスは、ちらりと枕元に置いた本を見た。昨日の夜、なかなか寝付けなかったリズベスが、行儀悪くベッドに持ち込んだ本。
 それは、あの日ヒューバートが手にしていた小説の、第一巻だった。

 その本をリズベスの元に持ち込んだのは、同好の士であるアデリンだ。何日も根を詰めているリズベスを心配して――そう、あくまでも心配して「息抜きにでも」といって、何日か前に置いていった何冊かの恋愛小説。その中に混じっていたものだ。
 昨日の夜、どれを読むか迷って机の上に本を並べた時、リズベスはその中の一冊に目を止めた。
(この本……)
 あの日、ヒューバートを見かけた時に手元にあったのは、確かこの本ではなかったか。装丁に気を取られて、タイトルはうろ覚えだったけれど、よく似ている。
 自然と、リズベスの手はその本に伸びた。
 恋愛小説特有の、可愛らしい――その中にも、少しだけ大人びた雰囲気を醸し出す装丁。いつも、ふわふわとした砂糖菓子のような甘い恋愛ものを勧めてくるアデリンが選んだにしては、ちょっと異色だ。
 どきん、と胸が大きく鳴ったような気がした。
 もしかしたら。
 今までの小説の中には、ヒューバートに触れられた時に感じる、あの全身を駆け抜けるような感覚には言及はなかったけれど、この本には、あるのかもしれない。
 ごくり、と唾を飲みこむ音がやけに大きく耳の中に響いた。

 その物語は、城下町で起こる連続誘拐事件から始まっていた。捜査を任された騎士は、夜の見回りの最中に一人の少女と出会う。姉を誘拐されたという少女は、捜査に協力したいと申し出る。やがて二人の間には恋が芽生え――簡単に言えば、そういった内容だった。
 リズベスは、夢中になってページをめくった。
 とにかく展開が早い。第一章の最後を迎える頃には、騎士と少女はすっかり恋人同士になっている。
(は、早くない?)
 リズベスは、本を閉じるとため息をついた。息つく間もないほど色々なことが起きすぎる。普段読んでいる小説なら、二人の間にやっと恋の芽がでるくらいの間に、この小説の二人ときたら……!
 ごろんと仰向けになると、リズベスは目を閉じた。
(この先、二人はどうなるのかしら……)
 うつらうつらしながら、この先の展開に想いを馳せる。誘拐事件だって、まだ捜査を開始して手がかりが一つ見つかったかどうかなのだ。
(恋人が危険な目にあったりしたら、彼女は……)
 とりとめもない思考。できれば目をあけて、もう一度読書を再開したい。しかし、睡魔は抗い難くリズベスを捉えて離さなかった。
(ヒューバート様だったら、どう……)
 敢えて考えないようにしていたはずのことを思い出して、リズベスの胸が疼く。
 少数で向かう極秘任務。未だ内容も明かされていないそれは、もうあと2日後に迫っているのだ。もしかしたら、とひやりとするような思考が、とろとろとした睡魔の向こうから顔を出す。
 危険なことも、あるかもしれない。
(――私、まだ……)
 そこで、リズベスの意識は闇に飲み込まれていった。

 夢に出てきたのは、その小説の中とそれほど変わらないシチュエーションだ。
 リズベスは、それを思い出して息をつく。
(寝る前にこんな本を読んだりするからね……)
 リズベスは、手にした本をもう一度枕元に戻すと、ベッドから降りた。やらなければならないことは、今日も山積みのはずだ。報告書を作って、それから後は。
 やるべきことを一つ一つ頭の中で組み立てていく。
 身支度をすませると、全身が映る鏡でおかしいところがないか確認する。
「――よし!」
 気合いを入れるために、ぱちんと両手で頬を叩く。
 ちらり、と走らせた視線の先には、枕元に置いた本。
(仕事が終わったら、ね)

 ――寝る前に考えていたことは、リズベスの頭の中からはすっかり抜け落ちていた。
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