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10(前編)
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リン……、リン……。
ピアノの上に置かれたスマートフォンの通知音が鳴る。
フロント画面には力也の名前が表示され、送られてきた文章の内容が表示されていた。
『終わったら飲みに行かないか。この間の………』
文章が長くてすべてを表示できていないが、この前の美佳という女性のことについて何か弁解したいのだろうと、ある程度の察しはつく。
力也からの連絡をまともに見ず、久はこれに返信する。
『ごめん、忙しいから。今は無理』
端的な文章でことを終わらせた。
7月に入り力也もレッスンを再開していた。先週も同じような連絡を力也から貰っている。が、今日と同じように久は素っ気ない返事をしていた。
力也と飲みに行くのはいつも決まって水曜日なのだが、先週から力也が出勤する度、曜日関係なしに連絡が来ていたのだった。
さっき断った連絡で、すでに4回目の力也からの連絡だ。
この態度は一方的だと思うかもしれない。けれど、これでいいんだと。そう自分に言い聞かせ、毎度送信ボタンを押している。
力也への気持ちに気付いてしまった以上、如何にこの気持ちを忘れて力也への思いに終止符を打つか。
そのことに全力を注ぐしかないのだと……。
久はため息をつきつつも部屋のノック音に反応し、「はーい、どうぞ」とドアに向かって声をかけた。
「先生、こんにちは。よろしくお願いします」と言う声と共に生徒が現れる。久は笑顔で生徒を出迎えた。
レッスンが始まれば、平常心を保つことができる。何も考えなくて済むのだ。そのことにありがたさを覚えながら、指先がおぼつかない生徒のピアノ演奏に耳を傾けた久であった。
精神的にまいっているときはピアノを弾くに限る。すべてのレッスンを終えた久はピアノに向き合う。
別に何の本番があるわけでもないので、とりあえず弾きなれた楽曲をおもむろに弾鳴らす。自然と動き出す指先。
目の前にパッと、何も考えなくていい空間が生まれた。
それは自分の指の動きと志向が乖離した空間で、奏でるピアノの音がBGMのように聴こえて来るのだ。
ーーーリスト:「愛の夢」第3番 変イ長調
流れるようなアルペジオと、重々しい低音が奏でるメロディの調和。
学生の頃からことあるごとにこの曲を弾いていた気がする。
これといってこの曲が好きというわけではないし、決して弾きやすいというわけでもない。そんな曲なのに、どこか落ち着く。
不思議なものだ。
一曲弾き終えた頃には幾分か、頭がすっきりとしていた。
力也に向ける後ろめたい気持ち、罪悪感も少し薄れたような気がする。
もう一曲くらい弾いてから帰ろうか。そう思いながら次の曲を思案していたその時、レッスン室のドアの小窓に人影がちらついた。
真正面から中を覗くわけでなく、中の様子をそっと伺うような仕草。こちらには背中を向けているので顔は分からないが、でも、あの見知った背中は……間違いなく、
ーーー力也だ。
弾いていればきっと中には入ってこないだろう。
そう思った久は、早々にピアノを弾き始める。
弾き始めてしまうと時間などあっという間に過ぎていく。あと一曲で終わらそうと思っていた時間も、時計を確認してみればもう一時間近くが経っていた。
窓の外はすでに真っ暗で、はす向かいに見える隣の棟の窓明かりもまばらになってきた。残っている教員や生徒も少ない時間帯だ。
さすがにもう力也はいないだろう。
ピアノを弾き、少しの気が晴れたところで久は荷物をまとめレッスン室を後にする。
ドアをそーっと開け、蛍光灯に照らされた廊下を覗く。ただ微かに、遠くの部屋からピアノの音が聴こえてくるだけ。辺りを見渡しても案の定、そこには人っ子一人いなかった。
久はほっと肩をなでおろし、レッスン室の鍵を締めた。今いる三階から鍵の返却場所の一階受付まで、校舎中央の螺旋階段を使って向う。一番の近道だった。
階段を降り、丁度二階に差し掛かったあたりで人影が見えた。その人影はこちらを確認し、まっすぐ久の方に歩いてくる。
薄暗い校舎の明かりでもわかる。向かってくるのは当然のごとく、力也だ。
段々と近づくにつれ、彼の表情がよくよく見えた。その顔は眉間にぎゅっとシワを寄せ、いかにもな不機嫌オーラをおでこから垂れ流す。そんな力也の形相に、久は正直面食らう。
向かってくる力也とは目を合わせないように、久は来た方向へと咄嗟に引き返す。
「おいっ! 待てっ!」
力也の声に、ピクっと身体が反応し一瞬体が硬直した。でもここで止まるわけにはいかない。今は何が何でも力也と顔をあわせるわけにはいかないんだ。
階段を駆け上がる久。だが、力也も必死に追いかける。
「おい! 久、待てってば」
二人とも音楽家であるが、力也の方がいくらか運動神経はいい方だ。ぐっと距離をつめられ力也に手首をつかまれ、引き止められる。
「俺の話を聞けって」
足を止めざる得ない久は無言のまま俯いた。
どうしても掴まれた手首を離したくて、無我夢中で上下に腕を無理やり振りたくって、力也の拘束を解く。
これは一方的な行動だし、態度だと思う。でも今はこうするしかないんだと、心の中で「力也、ごめん」と唱えながら、久はその場から走り去った。
さっきまで自分がいたレッスン室の前に戻って来るなり、はっと後ろを振り返えるが、追いかけてくる気配はない。
久はその場に崩れ落ちた。
先程すっきりさせたはずの頭の中も、またぐちゃぐちゃと絡まった糸のように簡単には解けなくなってしまった。
しばらくはそのままで少し経ってから、久はその場を後にしたのだった。
ピアノの上に置かれたスマートフォンの通知音が鳴る。
フロント画面には力也の名前が表示され、送られてきた文章の内容が表示されていた。
『終わったら飲みに行かないか。この間の………』
文章が長くてすべてを表示できていないが、この前の美佳という女性のことについて何か弁解したいのだろうと、ある程度の察しはつく。
力也からの連絡をまともに見ず、久はこれに返信する。
『ごめん、忙しいから。今は無理』
端的な文章でことを終わらせた。
7月に入り力也もレッスンを再開していた。先週も同じような連絡を力也から貰っている。が、今日と同じように久は素っ気ない返事をしていた。
力也と飲みに行くのはいつも決まって水曜日なのだが、先週から力也が出勤する度、曜日関係なしに連絡が来ていたのだった。
さっき断った連絡で、すでに4回目の力也からの連絡だ。
この態度は一方的だと思うかもしれない。けれど、これでいいんだと。そう自分に言い聞かせ、毎度送信ボタンを押している。
力也への気持ちに気付いてしまった以上、如何にこの気持ちを忘れて力也への思いに終止符を打つか。
そのことに全力を注ぐしかないのだと……。
久はため息をつきつつも部屋のノック音に反応し、「はーい、どうぞ」とドアに向かって声をかけた。
「先生、こんにちは。よろしくお願いします」と言う声と共に生徒が現れる。久は笑顔で生徒を出迎えた。
レッスンが始まれば、平常心を保つことができる。何も考えなくて済むのだ。そのことにありがたさを覚えながら、指先がおぼつかない生徒のピアノ演奏に耳を傾けた久であった。
精神的にまいっているときはピアノを弾くに限る。すべてのレッスンを終えた久はピアノに向き合う。
別に何の本番があるわけでもないので、とりあえず弾きなれた楽曲をおもむろに弾鳴らす。自然と動き出す指先。
目の前にパッと、何も考えなくていい空間が生まれた。
それは自分の指の動きと志向が乖離した空間で、奏でるピアノの音がBGMのように聴こえて来るのだ。
ーーーリスト:「愛の夢」第3番 変イ長調
流れるようなアルペジオと、重々しい低音が奏でるメロディの調和。
学生の頃からことあるごとにこの曲を弾いていた気がする。
これといってこの曲が好きというわけではないし、決して弾きやすいというわけでもない。そんな曲なのに、どこか落ち着く。
不思議なものだ。
一曲弾き終えた頃には幾分か、頭がすっきりとしていた。
力也に向ける後ろめたい気持ち、罪悪感も少し薄れたような気がする。
もう一曲くらい弾いてから帰ろうか。そう思いながら次の曲を思案していたその時、レッスン室のドアの小窓に人影がちらついた。
真正面から中を覗くわけでなく、中の様子をそっと伺うような仕草。こちらには背中を向けているので顔は分からないが、でも、あの見知った背中は……間違いなく、
ーーー力也だ。
弾いていればきっと中には入ってこないだろう。
そう思った久は、早々にピアノを弾き始める。
弾き始めてしまうと時間などあっという間に過ぎていく。あと一曲で終わらそうと思っていた時間も、時計を確認してみればもう一時間近くが経っていた。
窓の外はすでに真っ暗で、はす向かいに見える隣の棟の窓明かりもまばらになってきた。残っている教員や生徒も少ない時間帯だ。
さすがにもう力也はいないだろう。
ピアノを弾き、少しの気が晴れたところで久は荷物をまとめレッスン室を後にする。
ドアをそーっと開け、蛍光灯に照らされた廊下を覗く。ただ微かに、遠くの部屋からピアノの音が聴こえてくるだけ。辺りを見渡しても案の定、そこには人っ子一人いなかった。
久はほっと肩をなでおろし、レッスン室の鍵を締めた。今いる三階から鍵の返却場所の一階受付まで、校舎中央の螺旋階段を使って向う。一番の近道だった。
階段を降り、丁度二階に差し掛かったあたりで人影が見えた。その人影はこちらを確認し、まっすぐ久の方に歩いてくる。
薄暗い校舎の明かりでもわかる。向かってくるのは当然のごとく、力也だ。
段々と近づくにつれ、彼の表情がよくよく見えた。その顔は眉間にぎゅっとシワを寄せ、いかにもな不機嫌オーラをおでこから垂れ流す。そんな力也の形相に、久は正直面食らう。
向かってくる力也とは目を合わせないように、久は来た方向へと咄嗟に引き返す。
「おいっ! 待てっ!」
力也の声に、ピクっと身体が反応し一瞬体が硬直した。でもここで止まるわけにはいかない。今は何が何でも力也と顔をあわせるわけにはいかないんだ。
階段を駆け上がる久。だが、力也も必死に追いかける。
「おい! 久、待てってば」
二人とも音楽家であるが、力也の方がいくらか運動神経はいい方だ。ぐっと距離をつめられ力也に手首をつかまれ、引き止められる。
「俺の話を聞けって」
足を止めざる得ない久は無言のまま俯いた。
どうしても掴まれた手首を離したくて、無我夢中で上下に腕を無理やり振りたくって、力也の拘束を解く。
これは一方的な行動だし、態度だと思う。でも今はこうするしかないんだと、心の中で「力也、ごめん」と唱えながら、久はその場から走り去った。
さっきまで自分がいたレッスン室の前に戻って来るなり、はっと後ろを振り返えるが、追いかけてくる気配はない。
久はその場に崩れ落ちた。
先程すっきりさせたはずの頭の中も、またぐちゃぐちゃと絡まった糸のように簡単には解けなくなってしまった。
しばらくはそのままで少し経ってから、久はその場を後にしたのだった。
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