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第二章
五
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播磨に戻った官兵衛は、間もなくして姫路城の秀吉に呼び出された。
年明け早々のことだった。
「殿、何事でございましょうか」
官兵衛は眼前に座る秀吉に訊ねた。
すると、秀吉は少し困った顔付きなった。
また厄介ごとを仰せつかることになるのか、と官兵衛は覚悟した。
「宇喜多和泉守(直家の通称)が身罷った」
秀吉は、猿のような顔を苦しげに歪め皴を刻んだ。
西で播磨国と国境を接する備前国の太守、彼(か)の斎藤道三と並んで戦国の梟雄と称される宇喜多直家が、その波乱に満ちた生涯を閉じたのだ。
「それが如何したのでござる」
官兵衛は冷ややかに訊ねた。
「和泉守の倅、八郎殿に、宇喜多の家督を継がせる許しを請いに、儂は安土へ参らねば行かぬ」
官兵衛の体温の低い声よりも、更に秀吉の声は沈んでいた。
「安土の上様に、でござるか」
「ああ」
秀吉は憮然と頷くと、
「何とか致せ官兵衛っ。聞くところによると、上様は調略によって亡き信玄入道が娘婿を織田方に寝返らせ、近々甲州征伐を行われるおつもりじゃ。武田の次は毛利じゃ。早々と毛利との決着を付けねば、儂はあの佐久間右衛門尉(信盛の仮名)殿や、林佐渡守(秀貞の通称)殿のように上様から勘当されるっ」
謀臣官兵衛を前にして、秀吉は憚ることなく弱さを露呈し、泣き喚くのであった。
秀吉主従が仕える織田信長という人物は、家臣を家柄や血筋で区別すことはなかった。
使えるか使えないかで判断するのだ。
そのため、賤しき農民の身分の出であった秀吉もその実力を認められ、毛利攻めの総大将に抜擢された。
また、どこの馬の骨かも分からぬ牢人だった明智光秀を召し抱え、今や織田家随一の武将へ取り立てた。
その逆に、身分が高い者でもあっても、使えないと知ると、佐久間信盛や林秀貞と同じように追放される。
「ご心配には及びませぬ。殿にはこの官兵衛が付いておりまする故、お気を楽に遊ばせませ」
動揺する秀吉を前に、官兵衛は平然と告げた。
一呼吸間を置いてから、官兵衛は不安げな眼差しを向ける秀吉に、
「安土には某もお供仕る。万事この官兵衛にお任せ下され」
と伝えた。
「……官兵衛よ、頼りにしておるぞ」
秀吉は身を起こし、官兵衛に近寄って彼の手を握るのであった。
秀吉と謁見した広間を離れ、官兵衛は庭に面した広縁に出た。
山毛欅などの広葉樹は葉を落としていた。季節は極寒の時期に移っていた。
極寒の季節は特に古傷が疼く。官兵衛は痛めた左足を摩りながら廊下を歩いた。
目の前の柱の陰に、人影が見えた。官兵衛は目を凝らした。
秀吉の弟秀長だった。
「兄上の弱気にも困ったものじゃ」
秀長は呆れ果てた表情で言った。
「いつ、こちらにお戻りで」
「昨晩だ。これから儂も兄上に会うて来る」
「木曾の伊予守(義昌の官名)が織田に寝返ったそうで」
「うむ。聞くところによると、徳川殿を通じ既にあの穴山梅雪も寝返ったらしい」
「穴山までもが……」
官兵衛は唖然となった。
秀長が無言で頷いた。
武田信玄の娘婿二名が、既に織田方に寝返っているという俄かには信じ難い事実を知り、官兵衛は世の無常を感じた。
戦国最強と謳われたあの武田家が滅び去ろうとしている。
(此度の遠征で武田は滅ぶであろう。その次は越後の上杉と中国の毛利、四国の長曾我部か……)
この時、小田原の北条は徳川を通じて織田と盟約を結んでいた。東北、九州の諸大名は織田に靡いており、敵対勢力は、武田、上杉、毛利、長曾我部の四つのみとなっていた。
上杉には柴田勝家を中心とした諸将を当たらせ、長曾我部は明智が担当していた。
武田を今回の遠征で滅ぼしたあと、信長は残りを一気に片付けるつもりだった。
「我らもぐずぐずはしておられぬ。急がねばのぉ官兵衛殿」
「然様でござるなご舎弟殿」
官兵衛は秀長に一礼し、その場を去った。
途中、振り返ってみると、秀長もこちらを覗っていた。もう一度官兵衛は頭を下げた。そして頭を上げると、何事もなかったかのように痛む左足を引き摺って歩き出した。
年明け早々のことだった。
「殿、何事でございましょうか」
官兵衛は眼前に座る秀吉に訊ねた。
すると、秀吉は少し困った顔付きなった。
また厄介ごとを仰せつかることになるのか、と官兵衛は覚悟した。
「宇喜多和泉守(直家の通称)が身罷った」
秀吉は、猿のような顔を苦しげに歪め皴を刻んだ。
西で播磨国と国境を接する備前国の太守、彼(か)の斎藤道三と並んで戦国の梟雄と称される宇喜多直家が、その波乱に満ちた生涯を閉じたのだ。
「それが如何したのでござる」
官兵衛は冷ややかに訊ねた。
「和泉守の倅、八郎殿に、宇喜多の家督を継がせる許しを請いに、儂は安土へ参らねば行かぬ」
官兵衛の体温の低い声よりも、更に秀吉の声は沈んでいた。
「安土の上様に、でござるか」
「ああ」
秀吉は憮然と頷くと、
「何とか致せ官兵衛っ。聞くところによると、上様は調略によって亡き信玄入道が娘婿を織田方に寝返らせ、近々甲州征伐を行われるおつもりじゃ。武田の次は毛利じゃ。早々と毛利との決着を付けねば、儂はあの佐久間右衛門尉(信盛の仮名)殿や、林佐渡守(秀貞の通称)殿のように上様から勘当されるっ」
謀臣官兵衛を前にして、秀吉は憚ることなく弱さを露呈し、泣き喚くのであった。
秀吉主従が仕える織田信長という人物は、家臣を家柄や血筋で区別すことはなかった。
使えるか使えないかで判断するのだ。
そのため、賤しき農民の身分の出であった秀吉もその実力を認められ、毛利攻めの総大将に抜擢された。
また、どこの馬の骨かも分からぬ牢人だった明智光秀を召し抱え、今や織田家随一の武将へ取り立てた。
その逆に、身分が高い者でもあっても、使えないと知ると、佐久間信盛や林秀貞と同じように追放される。
「ご心配には及びませぬ。殿にはこの官兵衛が付いておりまする故、お気を楽に遊ばせませ」
動揺する秀吉を前に、官兵衛は平然と告げた。
一呼吸間を置いてから、官兵衛は不安げな眼差しを向ける秀吉に、
「安土には某もお供仕る。万事この官兵衛にお任せ下され」
と伝えた。
「……官兵衛よ、頼りにしておるぞ」
秀吉は身を起こし、官兵衛に近寄って彼の手を握るのであった。
秀吉と謁見した広間を離れ、官兵衛は庭に面した広縁に出た。
山毛欅などの広葉樹は葉を落としていた。季節は極寒の時期に移っていた。
極寒の季節は特に古傷が疼く。官兵衛は痛めた左足を摩りながら廊下を歩いた。
目の前の柱の陰に、人影が見えた。官兵衛は目を凝らした。
秀吉の弟秀長だった。
「兄上の弱気にも困ったものじゃ」
秀長は呆れ果てた表情で言った。
「いつ、こちらにお戻りで」
「昨晩だ。これから儂も兄上に会うて来る」
「木曾の伊予守(義昌の官名)が織田に寝返ったそうで」
「うむ。聞くところによると、徳川殿を通じ既にあの穴山梅雪も寝返ったらしい」
「穴山までもが……」
官兵衛は唖然となった。
秀長が無言で頷いた。
武田信玄の娘婿二名が、既に織田方に寝返っているという俄かには信じ難い事実を知り、官兵衛は世の無常を感じた。
戦国最強と謳われたあの武田家が滅び去ろうとしている。
(此度の遠征で武田は滅ぶであろう。その次は越後の上杉と中国の毛利、四国の長曾我部か……)
この時、小田原の北条は徳川を通じて織田と盟約を結んでいた。東北、九州の諸大名は織田に靡いており、敵対勢力は、武田、上杉、毛利、長曾我部の四つのみとなっていた。
上杉には柴田勝家を中心とした諸将を当たらせ、長曾我部は明智が担当していた。
武田を今回の遠征で滅ぼしたあと、信長は残りを一気に片付けるつもりだった。
「我らもぐずぐずはしておられぬ。急がねばのぉ官兵衛殿」
「然様でござるなご舎弟殿」
官兵衛は秀長に一礼し、その場を去った。
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