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第七章
二
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霊山城を出立した顕家率いる北畠勢は、八月十九日に白河の関を越え、下野に入った。そこで南朝方の伊達行朝、中村経長を中心に足利方の小山城を攻略、城将小山朝郷を捕らえた。その後顕家に率いられた北畠勢は連戦連勝を重ね、十二月二十三日に鎌倉に迫り、翌二十四日にこれを陥(お)とした。尊氏から鎌倉を任されていた足利一門の斯波家長は討死し、尊氏の嫡男足利義詮、上杉憲顕、桃井直常、高重茂らは鎌倉を脱出した。
翌建武五年(一三三八)、一月二日、新田義貞の息子義興、北条時行らを加え、膨れ上がった北畠勢は鎌倉を出立し、一路京を目指して進軍を開始した。一説にはその数は五十万を超えたと言われている。恐らく誇張に過ぎないであろう。
北畠勢は十二日に遠江国、二十一日には尾張国に入った。
領国近江勝楽寺城に入っていた道誉は、本丸主殿の評定の間に家宰筆頭の吉田厳覚を呼び付けた。
「首尾はどうじゃ」
と道誉は単刀直入に尋ねる。
昨年暮れ、道誉は厳覚に命じ、領内の倉に兵糧米を蓄えて置いた。そのため、たとえ北畠勢が美濃の土岐勢を破り、近江に進軍して来ても、五十万という大軍を養うだけの兵糧を確保することが出来ない。
「仰せの通り、領内に流通する米は一粒足りともございません」
「上出来じゃ」
言い終えると、道誉は破顏して高笑いした。
「戦場にて神懸かりな活躍を見せても、所詮はまだまだ尻の青い小童よ」
道誉の言葉を受け、
「然様でござりまするな」
厳覚も相槌を打った。
「嘉兵衛っ、美濃との国境を固めよっ。それと、間者を使い新田が籠る越前に流言を広げよ。北畠と新田の間を引き裂くのじゃ」
「はっ、仰せの儀、承知仕った」
嘉兵衛は頭を下げると、早速道誉が下した命令を実行に移した。
南朝方の武将の中で、新田義貞という男と、道誉は気が合わなかった。先年の手越河原の戦いに敗北し、新田勢に降伏した折、義貞の傲慢な態度が気に入らなかったのだ。
それと、公家出身の北畠顕家とは、水と油のような関係で全く共通点がなかった。あちらは古き格式を重んじる公家出身であり、こちらはそれを根底から壊そうとする婆沙羅者だ。
「北畠の小童め、血祭りにしてやるっ」
道誉は薄い唇の端に悪辣なせせら笑いを浮かべた。
本拠地の勝楽寺城で道誉は、北畠顕家討伐のための軍勢を整えた。
近々、京にいる足利尊氏から陣触れが出される筈だ。
「厳覚」
と、出陣する前に道誉は彼を呼んだ。
「その方に命じておいた件は如何なっておる」
「旨く運んでござる」
「北畠の小童を、越前に向かわせてはならぬ」
道誉は厳覚に命じて領内の街道を封鎖し、北畠勢が近江に侵入出来ないように手を打ち、更に息の掛かった野盗、野伏などを北畠勢の中に忍び込ませ、流言を広げた。
万が一にも北畠勢と越前の新田勢が合流すれば、足利方に勝ち目はない。そうさせないためにも、敵方に紛れ込ませた間者を駆使し、北畠勢の雑兵どもが新田勢との合流を嫌うように仕向けた。事実、北畠勢の中には、北条得宗家の血を引く時行もおり、彼は一族の仇である新田義貞を蛇蠍の如く嫌っていた。
一月二十八日、美濃国青野原の戦いに於いて、顕家率いる北畠勢は、道誉と同様に婆沙羅大名の一人として数えられる美濃守護職の土岐頼遠率いる足利勢と戦い、それを撃破した。
一時は、総大将だった頼遠が行方不明になるほど、足利方は一方的な大敗を喫した。
これを受けて京にいる尊氏は、畿内の諸将を招聘する。
「嘗てのように、北畠顕家を京に入れてはならぬ」
尊氏にとって先年、顕家相手に手痛い敗北を喫したことがトラウマとなっていたのだ。気鬱な尊氏にとって北畠顕家の名は鬼門だった。
「上様、身共にお任せ下され」
と最初に言葉を発したのは、今や足利政権を支える大黒柱の一人となった高師直であった。
北畠顕家追討の軍勢には、道誉も加わっている。他には佐々木一門の棟梁の地位を父六角時信から引き継ぎ、六角氏の家督を継いだ佐々木左衛門佐氏頼の顔もあった。更に足利一門から細川頼春が加わった。因みに頼春は、細川嫡流の京兆家の祖とされる人物である。
「三郎(氏頼の仮名)殿。万事この佐渡めにお任せあれ」
この頃の道誉は、まるで自分が佐々木一門の棟梁であるかのような振る舞いが目立った。
二月四日、北畠勢を討つため、足利勢五万が京を出撃する。
その内訳は、高師直、師泰、細川頼春、六角氏頼、そして佐々木道誉の五名だった。
両軍は、美濃・近江国境を流れる血黒川で会敵し、戦端を開いた。
日本史上、道誉は北畠勢とのこの青野原の戦いで初めて背水の陣を敷いたとされる。
「父上っ、我が方が圧されおりまするっ」
嫡男秀綱が血相を変え、平四つ目結の家紋を記した陣幕に覆われた、佐々木京極氏の本陣に飛び込んで来た。
「狼狽えるなっ、源三郎(秀綱の仮名)、これしきのことでっ」」
大鎧を身に着け、床机に腰掛ける道誉は、息子の顔を凝視した。
「これも戦法の一つじゃ……態と圧され、敵を油断させる」
「されど父上……」
「案ずるな。まあ、そちも座れ」
と言って、道誉は顎をしゃくり、傍らに設えた床机に腰掛けるよう勧めた。
「はっ」
秀綱は小さく頷き、床机に腰を下ろした。
「源三郎、敵の狙いは何だと思う」
道誉は我が子の双眸を見詰めながら訪ねた。
「我が領国を通り抜け、上洛することにある、と存じ上げます」
「それもあるが、敵方は陸奥国霊山を発って以来、連戦が続き雑兵どもが疲弊しておる。そろそろどこぞで休息を取り、疲れを癒したいと思っておるに違いない」
「はぁ……?」
「されど、我が領内には米など一粒足りとも残っておらん。昨年来、彼奴めが霊山を発った折に、全て買い占めてやった。近江だけではないぞ。美濃、伊賀、伊勢の米も押させ、巷に流れるのを止めた。兵糧が欲しくば乱取りするしか他に手はあるまいて」
「されど、斯様な乱暴狼藉を働けば人心が離れまする……ん!? もしやして父上の狙いとは」
「然様、人心を離れさすことよ」
道誉は息子秀綱を見やり、冷笑を浮かべた。
道誉の思惑通り、疲弊した北畠勢は北上し新田勢と合流することを諦め、顕家の父親房がいる伊勢へと転戦した。
十四日から十六日に掛けて、北畠勢は伊勢国雲出川、櫛田川にて足利勢と戦い、勝敗の付かぬまま大和国へ向かった。
道誉の作戦通り、兵糧の入手が困難となった北畠勢は士卒の統率が取れなくなった。
辰市、三条口では辛くも勝利し大和国を占領することが出来たが、二十八日般若坂の戦いに於いて桃井直常率いる足利勢に敗れた。
そこで顕家は、万が一に備え、義良親王を後醍醐天皇がいる吉野へ逃した。この時点で彼は、自分が足利方に敗れ死ぬことを予感していたのだろう。
大和国を占領した北畠勢は、般若坂の戦いで桃井勢に敗れたあと、河内国に転戦した。再建を図った顕家は、伊達行朝や田村輝定らと共に天王寺に軍を進めた。
三月八日、天王寺の戦いで勝利したが、その後の戦いで連敗し、顕家は自身に従う僅かな将兵を従え、和泉国に逃れた。
尊氏は、顕家討伐の手を緩めず高師直、師泰兄弟を派遣した。
師直は自ら手勢一万八千を率い、顕家討伐のため堺浦に出陣したのだ。
たとえ天才的な戦略家であっても寡兵ではどうすることも出来ず、生き残った僅かな将兵二百と共に吉野へ逃れる途中顕家は落馬し、名もなき士卒に討ち取られたのだ。
五月二十二日のことであった。
享年二十一歳であった。
翌建武五年(一三三八)、一月二日、新田義貞の息子義興、北条時行らを加え、膨れ上がった北畠勢は鎌倉を出立し、一路京を目指して進軍を開始した。一説にはその数は五十万を超えたと言われている。恐らく誇張に過ぎないであろう。
北畠勢は十二日に遠江国、二十一日には尾張国に入った。
領国近江勝楽寺城に入っていた道誉は、本丸主殿の評定の間に家宰筆頭の吉田厳覚を呼び付けた。
「首尾はどうじゃ」
と道誉は単刀直入に尋ねる。
昨年暮れ、道誉は厳覚に命じ、領内の倉に兵糧米を蓄えて置いた。そのため、たとえ北畠勢が美濃の土岐勢を破り、近江に進軍して来ても、五十万という大軍を養うだけの兵糧を確保することが出来ない。
「仰せの通り、領内に流通する米は一粒足りともございません」
「上出来じゃ」
言い終えると、道誉は破顏して高笑いした。
「戦場にて神懸かりな活躍を見せても、所詮はまだまだ尻の青い小童よ」
道誉の言葉を受け、
「然様でござりまするな」
厳覚も相槌を打った。
「嘉兵衛っ、美濃との国境を固めよっ。それと、間者を使い新田が籠る越前に流言を広げよ。北畠と新田の間を引き裂くのじゃ」
「はっ、仰せの儀、承知仕った」
嘉兵衛は頭を下げると、早速道誉が下した命令を実行に移した。
南朝方の武将の中で、新田義貞という男と、道誉は気が合わなかった。先年の手越河原の戦いに敗北し、新田勢に降伏した折、義貞の傲慢な態度が気に入らなかったのだ。
それと、公家出身の北畠顕家とは、水と油のような関係で全く共通点がなかった。あちらは古き格式を重んじる公家出身であり、こちらはそれを根底から壊そうとする婆沙羅者だ。
「北畠の小童め、血祭りにしてやるっ」
道誉は薄い唇の端に悪辣なせせら笑いを浮かべた。
本拠地の勝楽寺城で道誉は、北畠顕家討伐のための軍勢を整えた。
近々、京にいる足利尊氏から陣触れが出される筈だ。
「厳覚」
と、出陣する前に道誉は彼を呼んだ。
「その方に命じておいた件は如何なっておる」
「旨く運んでござる」
「北畠の小童を、越前に向かわせてはならぬ」
道誉は厳覚に命じて領内の街道を封鎖し、北畠勢が近江に侵入出来ないように手を打ち、更に息の掛かった野盗、野伏などを北畠勢の中に忍び込ませ、流言を広げた。
万が一にも北畠勢と越前の新田勢が合流すれば、足利方に勝ち目はない。そうさせないためにも、敵方に紛れ込ませた間者を駆使し、北畠勢の雑兵どもが新田勢との合流を嫌うように仕向けた。事実、北畠勢の中には、北条得宗家の血を引く時行もおり、彼は一族の仇である新田義貞を蛇蠍の如く嫌っていた。
一月二十八日、美濃国青野原の戦いに於いて、顕家率いる北畠勢は、道誉と同様に婆沙羅大名の一人として数えられる美濃守護職の土岐頼遠率いる足利勢と戦い、それを撃破した。
一時は、総大将だった頼遠が行方不明になるほど、足利方は一方的な大敗を喫した。
これを受けて京にいる尊氏は、畿内の諸将を招聘する。
「嘗てのように、北畠顕家を京に入れてはならぬ」
尊氏にとって先年、顕家相手に手痛い敗北を喫したことがトラウマとなっていたのだ。気鬱な尊氏にとって北畠顕家の名は鬼門だった。
「上様、身共にお任せ下され」
と最初に言葉を発したのは、今や足利政権を支える大黒柱の一人となった高師直であった。
北畠顕家追討の軍勢には、道誉も加わっている。他には佐々木一門の棟梁の地位を父六角時信から引き継ぎ、六角氏の家督を継いだ佐々木左衛門佐氏頼の顔もあった。更に足利一門から細川頼春が加わった。因みに頼春は、細川嫡流の京兆家の祖とされる人物である。
「三郎(氏頼の仮名)殿。万事この佐渡めにお任せあれ」
この頃の道誉は、まるで自分が佐々木一門の棟梁であるかのような振る舞いが目立った。
二月四日、北畠勢を討つため、足利勢五万が京を出撃する。
その内訳は、高師直、師泰、細川頼春、六角氏頼、そして佐々木道誉の五名だった。
両軍は、美濃・近江国境を流れる血黒川で会敵し、戦端を開いた。
日本史上、道誉は北畠勢とのこの青野原の戦いで初めて背水の陣を敷いたとされる。
「父上っ、我が方が圧されおりまするっ」
嫡男秀綱が血相を変え、平四つ目結の家紋を記した陣幕に覆われた、佐々木京極氏の本陣に飛び込んで来た。
「狼狽えるなっ、源三郎(秀綱の仮名)、これしきのことでっ」」
大鎧を身に着け、床机に腰掛ける道誉は、息子の顔を凝視した。
「これも戦法の一つじゃ……態と圧され、敵を油断させる」
「されど父上……」
「案ずるな。まあ、そちも座れ」
と言って、道誉は顎をしゃくり、傍らに設えた床机に腰掛けるよう勧めた。
「はっ」
秀綱は小さく頷き、床机に腰を下ろした。
「源三郎、敵の狙いは何だと思う」
道誉は我が子の双眸を見詰めながら訪ねた。
「我が領国を通り抜け、上洛することにある、と存じ上げます」
「それもあるが、敵方は陸奥国霊山を発って以来、連戦が続き雑兵どもが疲弊しておる。そろそろどこぞで休息を取り、疲れを癒したいと思っておるに違いない」
「はぁ……?」
「されど、我が領内には米など一粒足りとも残っておらん。昨年来、彼奴めが霊山を発った折に、全て買い占めてやった。近江だけではないぞ。美濃、伊賀、伊勢の米も押させ、巷に流れるのを止めた。兵糧が欲しくば乱取りするしか他に手はあるまいて」
「されど、斯様な乱暴狼藉を働けば人心が離れまする……ん!? もしやして父上の狙いとは」
「然様、人心を離れさすことよ」
道誉は息子秀綱を見やり、冷笑を浮かべた。
道誉の思惑通り、疲弊した北畠勢は北上し新田勢と合流することを諦め、顕家の父親房がいる伊勢へと転戦した。
十四日から十六日に掛けて、北畠勢は伊勢国雲出川、櫛田川にて足利勢と戦い、勝敗の付かぬまま大和国へ向かった。
道誉の作戦通り、兵糧の入手が困難となった北畠勢は士卒の統率が取れなくなった。
辰市、三条口では辛くも勝利し大和国を占領することが出来たが、二十八日般若坂の戦いに於いて桃井直常率いる足利勢に敗れた。
そこで顕家は、万が一に備え、義良親王を後醍醐天皇がいる吉野へ逃した。この時点で彼は、自分が足利方に敗れ死ぬことを予感していたのだろう。
大和国を占領した北畠勢は、般若坂の戦いで桃井勢に敗れたあと、河内国に転戦した。再建を図った顕家は、伊達行朝や田村輝定らと共に天王寺に軍を進めた。
三月八日、天王寺の戦いで勝利したが、その後の戦いで連敗し、顕家は自身に従う僅かな将兵を従え、和泉国に逃れた。
尊氏は、顕家討伐の手を緩めず高師直、師泰兄弟を派遣した。
師直は自ら手勢一万八千を率い、顕家討伐のため堺浦に出陣したのだ。
たとえ天才的な戦略家であっても寡兵ではどうすることも出来ず、生き残った僅かな将兵二百と共に吉野へ逃れる途中顕家は落馬し、名もなき士卒に討ち取られたのだ。
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