傾国の女 於市

西村重紀

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第一章

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 天文四年(一五三五)十二月五日早暁。尾張国、森山城。
 江戸時代初期の旗本大久保彦左衛門忠教の著書『三河物語』によると、この日、尾張森山城主織田備前守孫三郎信光は、実兄である織田弾正少忠三郎信秀打倒を目指す隣国三河の松平次郎三郎清康に内応して、彼を居城の森山城に呼び寄せた、となっている。
 この時、森山城外曲輪にあった松平陣中で異変が生じた。俄かに数頭の馬が暴れ出したのだ。生憎、辺り一面は濃霧に包まれ、視界が定かではなかった。まだ、軍馬の暴走は続いている。
 不意に、背後から何者が近づく気配を感じ、清康は手綱を握ったまま首だけで振り向いた。濃い霧の中、三つ葉葵の幟旗が揺らぐのが見えた。一人の騎馬武者が近づいて来る。
「誰か」
「新六にござる」
「おう、新六か……」
 清康は、濃霧の中から現れた近習の一人、植村新六郎氏明の甲冑姿を視界に捉え、軽く頷いた。
 馬の鳴き声が先ほどから途切れることなく聞こえている。
「馬が暴れておりまする」
 清康に併走する新六郎が答えた。
「左様か……」
 納得がいった清康は頷くと、再び正面を向いた。
 濃霧の中に、薄っすらと森山城の本丸御殿の影が浮かんでいた。
「父の仇っ、次郎三郎、覚悟致せっ!」
 突如、背後から叫び声が聞こえた。
「何っ!?」
 振り向き様、清康は右脇腹に激しい痛みを覚えた。
 清康を襲った暗殺者の刃は、彼の右脇腹を貫いていた。因みにこの凶行に使用された刀が村正であった。
 鮮血が師走の寒空に舞い上がった。
 薄れゆく意識の中で、清康は修羅の如き阿部弥七郎正豊の姿を見た。
 清康の身体は、ゆっくりと崩れ落ちた。

 弥七郎は、先ほどの軍馬の暴走を、主君清康の手によって父阿部大蔵定吉が討たれたのだと勘違いして、背後から主君清康を襲ったのだ。
 異変の遠因は、父定吉と主君清康の不仲にあった。以前から定吉が清康を見限り尾張織田方に寝返るのではないか、という好からぬ噂が流れ、清康はそれをあっさりと信じ込んでしまった。
 出陣するに当たり定吉は、嫡男弥七郎を側に呼びつけ、
「もし儂が、謀反の濡れ衣で殺されるようなら、これを殿に見せて潔白を証明致せ」
 と誓書を弥七郎に手渡していた。
 しかし、父定吉の願いも虚しく、勘違いの末に弥七郎は主君清康を手に掛けてしまったのだ。
 この時、主君松平清康を弑逆した阿部弥七郎正豊は、偶々この場に居合わせた植村新六郎氏明の手によって即座に討ち取られた。
 これが世にいう森山崩れのことの顛末である。
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