傾国の女 於市

西村重紀

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第一章

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 今川義元の許へ走った松平監物家次は、信光の妹を正室として迎えた松平内膳正清定の嫡男であった。そして清定は、信光の岳父に当たる桜井松平当主信定の嫡男に当たり、北の方にとっても甥という関係だった。
 家次の祖父信定、父清定の代まで桜井松平家は、岡崎松平家と惣領の座を賭け争い、織田方と誼を結んでいた。ところが、信光の兄信秀が小豆坂の合戦で敗れ、その後死亡すると、他の三河の豪族同様手のひらを返し今川義元の許へ走ったのだ。
 そのことを踏まえた上で、信光は北の方に問い掛けた。
「室よ。どう思う。我が甥三郎殿の器量は、其方の目にどのように映った」
「彼の蝮の道三と謳われた御仁が、愛娘を嫁した程の人物、ただのうつけではありません」
「御母上、うつけとは一体何方のことを……?」
 キョトンとした表情で、於市が怪訝そうに問い掛けた。
 すると北の方は、娘の顏を見て笑みを浮かべた。
「姫、其方が気を揉むことありません」
「おいっ」
 話しが込み入って来たので、信光は於市をこの場から遠ざけるよう侍女に顎で命じた。
「姫様、私と一緒にあちらで遊びましょう」
「でも妾はもっと御母上たちと一緒にいたい」
「姫、駄々を捏ねてはなりませぬ。お栄が困っておりまする。さあ、お行きなさい」
 駄々っ子の於市を諭し、侍女に預けると、夫婦は那古屋城の本丸主殿で今後の尾張の行く末を占い始めた。
「うつけ殿はこの儂に、下尾張四郡をやると申しおった。されど、既に知多は今川の手中に落ちた。それを今川から奪い取るなど至難の業……」
「うつけ殿にまんまと乗せられましたな殿」
 北の方は、扇子を口に当てせせら笑った。
「ああ、してやられたわ。あのうつけ殿に……公家かぶれのお歯黒殿が兵を尾張に差し向けたら、真っ先にぶつかるのはこの那古屋じゃ。あ奴はそれを分かっておってこの儂を那古屋に入れたのじゃ」
 信光は憮然と言うと、歯軋りした。
「ならばいっそのこと、この城ごと今川方に寝返ってみては」
「おいっ室よ、其方は何と恐ろしいことを申すのじゃ。もしあの信長の耳に入ったらただでは済まされぬぞ。それに、先年今川方に奔った鳴海の山口左馬助とその倅は、信長めの計略に引っ掛かった義元殿の命により、詰め腹を切らされた」
 ここまで一気に語ると、信光は溜め息を吐き、再び語り出した。
「あれをうつけと思っていた者は皆、彼奴め計略に陥り、全てを失う」
「ならば殿はどうなさるおつもりですか、妾にこのまま黙って指を咥えていろと仰るのでしょか」
 北の方は如何にも不満そうな顔をしていた。
「今思えば、信長に付かず彦五郎殿に付いた方がよかったのか……」
 弱音を吐く夫信光を、北の方は怪訝そうに見やった。
「何を今更……」
「儂は信長と心中する気はない」
 妻の前で本音を口した信光は、眉間に皺を寄せた。
「彦五郎殿と同じように信長も殺めてしまっては如何でしょうか」
「もしも企てが露見すれば、あのうつけのことだ、この儂はおろか、其方や倅どもはもとより姫まで磔にされようぞ」
 やや興奮気味に捲くし立てると信光はかっと眸を見開いた。
「まさか……? あの信長と言えど、そこまでやるとは妾には思えませぬ」
「信長ならやり兼ねぬ。現に、彼奴めに無礼を働いたと言う観内とか申す茶坊主を、長谷部国重が鍛えた業物にて、膳棚ごとへし切りおったそうじゃ」
 信光は、信長の近習から聞いた話を北の方に身振り手振りを交え語った。
「なんと恐ろしい……膳棚ごとへし切ったとはぁ!?」
 その妖艶な美貌を恐怖で震わせながら、北の方は慄然とした表情になった。
「暫くは様子を見ると致そう。動くのはそれからじゃ」
 言い終わると信光は、徐に鼻毛を抜き、風と息を吹き掛けた。
 北の方は夫の仕草をただ黙って見詰め、至極残念そうに顔を顰めた。
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