紬ぐ想いの場

翠華

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第三章(中半) 名前

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バイトの帰り、駅前の本屋に寄った。
 閉店前の空気は少し冷たくて、
 通りの明かりがガラス越しに滲んでいた。

 参考書の棚を見ていると、
 視界の端に、見覚えのある横顔が映った。

 ――湊。

 淡いグレーのシャツ、
 手にした文庫を静かにめくる指先。
 あのときカフェで見た姿と、まるで同じだった。

 けれど彼はすぐに本を閉じて、
 レジに向かい、そのまま店を出ていった。

 私はしばらくその背中を目で追って、
 それから何事もなかったように、
 また参考書の背表紙に視線を戻した。


会計を済ませて、袋を受け取る。
 外に出ようとした瞬間、ガラス越しに雨粒が落ちてきた。
 さっきまで晴れていたのに、街の空気が一気に湿って色を変える。

 通りを歩く人たちが、慌てて傘を広げたり、軒下に駆け込んだりしていた。
 ビルのネオンが雨ににじんで、地面に光の模様を描いている。
 どこか懐かしいような、でも切ない匂いのする夕方。

 スマホを取り出して天気予報を確認する。
 “降水確率30%”。
 ――こういうときに限って、当たるんだ。

 鞄の中を探ってみるけど、折りたたみ傘はない。
 ポケットティッシュの横にレシートが何枚か丸まって入っているだけ。
 どうしようかと迷いながら、店の軒下で立ち尽くした。

 そのとき、視界の端を何かが横切る。
 透明な傘。

 ほんの一瞬、その傘の下に見えた横顔に、目が止まった。
 昼間、本屋の棚の向こうにいた彼――湊。
 手に小さな紙袋を下げて、静かに歩いている。
 雨の中なのに、どこか落ち着いた足取りだった。

 ふと、目が合ったような気がした。
 でも次の瞬間には、湊は傘の向こう側に視線を戻していた。
 私も、ただその場に立ち尽くすだけ。

 声をかけようか、と思う間もなく、
 頭の中では“どうするか”ばかりを考えていた。
 このまま雨が弱まるのを待つか、走って帰るか。
 それとも――。

 透明な傘の内側で、彼がふっと前髪を払う。
 その仕草に、胸の奥がかすかにざわついた。
 ――どこかで、見たことがある。

 記憶のどこかを、指先でなぞられるような感覚。
 でも、思い出せそうで思い出せない。
 目を細めても、雨の粒が光を反射して、輪郭がぼやけてしまう。

 湊の背中が、次第に雨の向こうへ溶けていく。
 透明な傘の輪郭がぼやけて、やがて見えなくなった。

 ――やっぱり、走って帰ろう。

 そう決めて、鞄の口をぎゅっと閉じる。
 でも、胸の奥のざわめきだけは、まだ静まらなかった。

 それが何なのか、自分でもよくわからないまま、
 私は濡れた街へ一歩、足を踏み出した。
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