愛よりも深い情

及川雨音

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悪霊 前編

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 本を読んでいるだけでも、男はどこまでも美しい。

 膝枕をしてもらいながら、じっと男を観察する。
 長い睫毛は瞬きの度にぱさりと重なる。端正な顔は表情を作らずとも優しい印象を受ける造りだ。

 私はこのひとになりたい。

 齢を重ねても老けこまぬ肉体。曲がらぬ背筋。豊かな髪。穏やかさを強調するだけの目尻のしわ。風呂上がりのような体臭。汗のかかない冷めた肌。ひっそりと紡がれる言霊。書物に創った独自の世界、その創造性。世の適合者である証の伴侶。普通の烙印。まともと判断された人生。
 私が望んだ、欲しかった、諦めた、いや最初から無理だと決めつけ求めなかった、理想が、存在していた。
 いや、そうじゃない。
 私が私である限り、やはり駄目だったのだ。世間よりも自分自身が赦せなかったのだから、この自我がある限り赦しは与えられない。救いなど無い。

 ほんとうの自分なんて。

 歌が流れ、祈りに溢れていた。慈愛に満ちた顔で女性は微笑んでいた。優しいその場所で私は異端だった。
 女は男と交わるのが世の理なのだ。
 結婚し子供を産み育て関わりを増やしていく。世間に正常だと認識されるには定められた暗黙のルールに従うしかない。
 家族に異常者だと知られたら絶縁されるだろう。それを受け入れる強さが無いのなら、露見する前に自ら関わりを絶ち孤独に生きて死ぬべきなのだ。看とる者などなく独り、老いて醜くなった肉体を腐らせる。なんと惨めな死に様だろう。憐れむものなどいない。生きている限り秒毎に選択の日は容赦なく近づいてくる。

 そんな時大事故が起きた。
 大勢の人は生き残ろうと必死だった。あっという間に生存の枠が埋まっていく。残りひとりが通れる生への出口に、最も私は近かった。本能的に光に向かった瞬間、泣き声が近づいてきた。振り返ると妊婦がいた。絶望的な状況でも、まだ諦めずに走ってくる。その姿に圧倒された。
 母とはなんと強いのだろう。
 
 身体が、動くのをやめた。

 女がすれ違い様振り返る。驚いた顔をしている。涙で濡れた瞳と目が合った。何か言おうとしたのか、薄く開いた唇が声を発する前に光に消えた。

 ああ。
 不自然でなく、正常者として死ねるのだ。

 己を犠牲に他者の命を救った私を、父と母は褒めてくれるだろう。誇ってくださるだろう。
 身体が震える。死ぬのは怖い。だがもう疲れた。楽になりたかった。自己が消えぬ限り苦痛は無くならない。自分は、要らない。この世に必要ない。最善の結末だと、無理矢理思い込む。

 轟音と共に周りが暗くなっていく。

 この痛みは罰だ。いや試練だ。息が苦しくなる。感覚が麻痺していく。

 新しく誕生する生命は祝福を受け愛されるだろう。
 異常者は滅びるしかない。

 それしか、ない。


 男の長く美しい指が頬を拭う。むずかるように胸元にすがりついた。赤子をあやすように頭を撫でられる。優しい手つきに更に涙があふれた。
 私が突然泣き出しても、男はいつも黙って慰めてくれる。その心音を聴いて、消えてしまった自分の命を想う。

 なぜまだ私は在るのだろう。

 いまさら命を惜しんでいるのだろうか。もう亡くしたものなのに。後悔しているのだろうか。決断を。未練がましく。いつまで苦しめばいいのだろう。いつになれば赦されるのか。名誉の死すら意味がなかった。他に何をしろというのだ。苦悶し続けろと仰るのか。

 男はぬくもりを惜しみ無く与え、精神の疲弊を抑えようとしてくれる。守ろうとしてくれる。足掻き喚く自分とは大違いだ。同じ異常者のくせに。在ってはならない存在のくせに。
 苛立ち嫉妬しながらそれでも、すがりつき癒しを乞うのは男だけだ。この男しかあり得ない。このひとでないと駄目なのだ。

 男の服を脱がしながら押し倒し、布に隠されていた色っぽい肢体を真上から検分する。
 厚い胸板も割れている腹筋も男性の象徴である。しかし肉体に触れれば男の異常さは直ぐに発覚する。
 掴んだ胸は柔らかく、指が沈む。筋肉よりも脂肪が多いからだ。小さな突起を摘まんで弄ると、熱い吐息が唇から漏れた。聖母のように包みこんでくれたそこが、淫乱な娼婦のように感度が高いことを自ら自白している。
 胸だけでイける肉体だと、私は知っている。
 授乳のようにむしゃぶりつきながら、張りのある尻を下って中心に向かっていけば、肛門と柔らかい包みの間のぬかるみに辿り着く。
 女にしかない性器だ。
 私がこの男に触れられるのは、これが有るからだ。
 異形の存在になっても尚、変わらない自分のどうしようもなさを嘆きながら、胎内に向かって進んでいく。濡れた灼熱の内部は、人型でなくなった私を、すべて受け入れてくれる。
 子宮の門を開いて滑り込むと、男が潮を吹いたのが伝わってきた。甘やかな痙攣の振動が心地好い。

 いま男は私を孕んでいるのだ。
 産まれることのない死人の魂を。

 男が皮膚越しに撫でてくれる。

 つかの間の安息に、私は身を委ねた。
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