愛よりも深い情

及川雨音

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悪霊 後編

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 包みこまれる癒しを享受できたのは少しの間だった。
 男の低く喘ぐ声を胎教のように聴いていたが、他者が近づいてくる気配が雑念となり、穏やかな時間は終わった。
 外に向かって這いずると、その刺激で愛液が分泌され、羊水を纏っているようになった。ある場所に触れると、肉襞が不規則に激しく収縮し、肉と肉の間に挟まれた粘液はその衝撃で泡立ち、くぷくぷと淫らな音を立てる。
 産道から出る間際、濡れた内部と繋がっていた透明な糸が、へその緒のように切れた。
 胎児の夢は終わった。

 「よく眠れた?」

 それはもう覚めたくないくらいに、と応えると、男は笑った。来客を教えれば、気だるげにシャツを羽織ったが薫り立つ色気が抑えられていない。潤んだ瞳に肉欲の燻りがまだ残っている。きっとあそこはとろとろに蕩けたままで、侵入するものを拒まず歓迎してしまうだろう。邪魔者がこの肉体を貪る者でなければいいと思った。



 「今年は豊作で。これ、お裾分けです」

 少女は半袖のセーラー服姿で、夏の陽射しの下、眩しく笑っている。抱えている籠の中には数種類の夏野菜が入っている。なすときゅうり、トマトが特に多い。

 「いつもすまないね。よかったら、麦茶でも?」

 男に招かれて少女は嬉しそうに頷き、お邪魔します、と家に上がった。

 氷入り麦茶を飲み干す間、少女の目線はずっと男の姿を追っていた。シャツ越しでも分かる筋肉はしなやかで逞しい。さぞかし雄の魅力にあふれて見えるだろう。現に少女は暑さのせいでなく頬を赤らめ、そわそわと落ち着きがない。

 異性として意識している。男を性的に見ているのだ。

 顔立ちも愛らしく若々しい肌も魅力的な筈なのに、冷たい感情しか湧いてこない。冷気に当てられたのか、一瞬身体を震わせて不思議そうに首を傾げている。
 男は茶の間に隣接する部屋の襖を開けた。続く部屋は仏間である。頂き物を仏壇に置き男が手を合わせる。少女も失礼します、と隣に座り手を合わせた。

 「私、ちょっと羨ましいです。奥さまが。こんなにもずっと大事にされていて」

 綺麗に磨かれた仏具。瑞々しく露を光らせる花。供えられたもぎたての夏野菜。遺影の横には夫婦の記念写真が飾られている。写真の中で仲睦まじげに二人は笑っている。夫は慈愛の瞳で妻を見つめ、妻はそんな夫を慕っている、理想の夫婦。そんな印象を持つだろう。
 ほんとうなんて外からは分からないのだ。過去も内情も知るすべなどなく、遺された物が判断基準となる。
 仏壇のみが置かれているこの部屋は彼女だけの部屋だ。仏さま専用の部屋。仏間。死して尚、この世に用意されている居場所。大切にされていた、いやされていると誰もが感じるに違いない。

 幸せでしょうね、と少女が暗く呟いた。

 「もう帰りますね。麦茶、ご馳走さまでした」

 少女は俯いて足早に去っていく。虚構に騙され傷ついていても憐れには思わなかった。
 男は素知らぬ顔で少女を見送っている。

 男の擬態は完璧だった。憎たらしいほど、自然にやってのける。欠陥品だと気づくものはそういない。亡き妻と共謀して世間を欺き健常者の顔をして生きている。強かで狡猾な男だ。罵られても弁明など出来やしない。いやしようともしないであろう。

 賢く生きられる男が妬ましい。

 邪悪な想いに呼応し、髪が蛇の如くうねりながら伸びていく。捕らえられた男は動揺ひとつ見せず、感心したように己を拘束する黒縄のような髪を眺めている。邪魔な衣服を剥ぎ、編み込むように首からくるぶしまで縛った。芸術的な肉体には複雑に絡む黒が映えて、よく似合っている。
 吊るした脚を左右に開けば、秘所はまだ濡れていた。指をそっと挿れると、肉が悦びに震える。
 こんな発情した状態で普通に振る舞えていたのだから次は入ったままでいいと考え、その悪魔のような思考に戦慄し、そして自分は悪霊になってしまったのだと気づいた。

 誘惑に負けて魂までも堕ちた。
 だから救済は訪れない。
 きっとそうだ。

 聖者でさえ、倒錯の色を宿したこの肉感的な身体には、腰を振るだろう。

 本数を増やしある部分を重点的に責めると、腿の筋肉に力がこもり、男は悩ましげに目を閉じ空を仰いだ。腹が数度、上下に動く。
 余韻に揺れる睫毛を軽く食みつつ一気に指を引き抜くと、衝撃に腹奥を痙攣させ、糸を引きながらぽたぽた、と蜜が溢れ落ちた。
 間近にある見開いた瞳は蕩けて、快楽に染まっている。定まらぬ視線に愛液まみれの指を見せつける。どれだけ感じて、気をやったかの証拠だ。音が鳴るよう動かし、聴覚から分からせる。耳まで犯す。
 ゆっくりと、薄い形の良い唇から肉厚の舌が覗く。白い歯と赤の対比が酷く淫靡だ。差し出された自分の蜜を丁寧に舐め取っていく様は、見る者の欲情を引き摺り出す。

 どこまでも、淫らで、美しい。

 口端から溢れた体液は、ひとつの筋となり肌の上を滑り落ち、豊満な胸を縛る髪に染み込む。
 膨らみを揉みしだきながら、鮮やかな朱を柔く噛んで舐ると、息荒く仰け反った。全身の拘束を強めれば、絞まる圧迫感は軽い窒息を男に与え、喉が細く鳴いた。尖を両方同時に引っ張ると、肩を揺らし腹の筋肉が波打った。出したままの舌から唾液が垂れた。
 乱れた髪が、眉間を綺麗に通る鼻筋に掛かった。いつもは柔らかい手触りが、水分を含んでしっとりとしている。元に戻すように何度か後ろに梳くと、心地良さそうに目を細めた。
 
 いくら女の性器が有ろうと形は男だ。それでも触れたくなるのは、性別を超越した魅力がこの男にあるからか。それとも、同性に惹かれることへの嫌悪感や罪悪感を薄める為に都合が良いから利用しているだけなのだろうか。

 切なくなり、どうしようもなくなって誤魔化すように髪に鼻を潜らせ匂いを嗅げば、くすぐったそうに男が笑う。
 人外の力を恐れず、鬼畜の行いをその身に受けても私を否定し拒絶しないことに脱帽して、男を解放した。
 名残惜しげに縛り跡をなぞれば、皮膚の下を巡る血を感じる。
 確かなのは、この存在に魅了され囚われて、自分はいま、ここに在るということだ。

 胸に顔を埋めて目を閉じた。



 ぱちぱち、と油の跳ねる良い音がする。
 濃い黒紫色をしたなすが鍋の中で踊っている。軽く揚げたら、余分な油を落とし、特製だしに漬けていく。一晩寝かせればなすの煮浸しの完成だ。
 男の作る物は何でも美味しい。
 パスタに絡むたっぷりのミートソースも男の手作りである。私の好物のひとつだ。出来立て熱々を頬張る。トマトの濃厚さと玉ねぎの甘み、牛肉の食べごたえに手が止まらない。
 男は私が食べているのを嬉しそうに見ている。
 
 「何がそんなに楽しいんだ」

 すべて台無しにする声がした。
 縁側に青年が勝手に侵入して立っている。何故か分からないが、この青年の気配を読めたことが無かった。毎回来る度にポケットに忍ばせる、偉そうな紙くずのせいではない。

 「食べもせず眺めて。……まるで、誰か居るみたいに」

 目の前には手つかずのパスタが皿に盛られたままだ。フォークも未使用のまま置かれている。何も、なかったように。
 味も湯気の立つ熱さも覚えているけれど、現実では何も起こっていない。実際は体験していない。干渉することはもう出来ない。
 少女も青年も他に訪れる人たちも、私が視えたことはない。それが、男が特別なのか、他が素質が無いからなのかは分からない。

 男とは見て触れて話せるから、虚しさに目を背けられるならば生者の真似事が出来てしまう。ふたりで築く偽りの世界は、しかし他者の介入によって容易く崩れる。一言で瓦解する。客観的事実に壊れる。
 自分は死人だと、思い知らされる。
 肉体を失っても苦しみは続き、逆に逃げ場を無くした。身動きはもう取れぬ。魔に救いはない。祓われて消滅するまでのたうち回るしかない。
 
 青年は視えずとも何かを感じているようだ。
 勇気を出して探りを入れても、男に軽くあしらわれるだけなのに。無駄だと知っていてそれでも繰り返すのは、青年が、男のことを。
 
 手を伸ばし、縛り跡を撫でる。感覚を思い出しているのか、男の雰囲気がより艶めいていく。青年は狼狽し、無言になった。喉仏が大きく動く。握った拳が震えている。青年の葛藤が伝わってくる。男は気づかぬふりをしている。
 時が止まったかのように無音になった。

 動くつもりはない男と動く覚悟のない青年。

 それでいい、と私は嗤った。



 悪霊・終わり
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