九年セフレ

三雲久遠

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七話

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 眠れないまま翌日を迎えた。
普段通りに一限目から講義に出たが、階段教室の板書の文字は意味を結ばず、口パクのような講師の声が空気を伝い素通りしていく。
そんな風に四限までをやり過ごして、帰り際、俺の足はまっすぐ学食へと向かっていた。

 壁面いっぱいのガラス窓から夕日が見える。
昨日と同じ窓際で新堂は本を読んでいる。

 このまま踵を返し、さっさと家に帰れ。
サークルには退会届を出して、あいつとはもう二度と口を利くな。
もっともらしい理性が耳元で囁いてくるが、所詮は俺の本音の上っ面に過ぎなかった。

 誰もいない食堂をまっすぐに近づいていくと、新堂は本から顔を上げた。
いつもなら微笑んでくれるその顔は、真顔のまま俺を見ている。
昨日と同じように真向かいの席に、俺もすとんと腰を下ろした。 
俯いたまま、目線を上げられずにいた。
新堂は、手にした本をトートバッグに滑り込ませ、ゆっくり立ち上がる。
出口の方へと歩き出す、それに付いて行こうとしたのだが、俺は急にガタガタ震え出し、一歩を踏み出すことができなかった。

 もたもたしている俺を振り返り、新堂は立ち止まる。
無理に動かした足と同じぐらい、俺の顔は強張っていたと思う。
ぎくしゃく近づいてきた俺を見下ろし、新堂は心配そうな顔をした。

「やっぱり、止めよう」
「え……?」

 新堂はじっと俺の顔を見る。その表情は、痛々しいものを目の前にして、とても困っているように見えた。

「経験……ないんだろ?」

 俺の反応を窺いながら、一言一言とても言いにくそうに切り出された。

「俺じゃ……、ダメって……こと?」

 喉から絞り出した俺の声は、情けないほど憐れっぽく聞こえる。
新堂は、膝から崩れそうになる俺の二の腕を掴んで支えてくれた。
そして、まるで観念したかのように、こんなことを言い出した。

「昨日はあんなこと言って、俺が悪かった」

 柔らかな声音は、昨日とはまるで違う。
俺をまっすぐ見て、真剣な顔をしている。

「おまえが俺を『イイやつ』なんて言うから、おまえも俺の上っ面だけ見てんのかって思った。
 俺のことなんて何も知らないくせにって、何だか無性に腹が立って……」

 新堂は、辛そうな顔をして俺に頭を下げる。
上っ面しか見ていないと言われれば、確かにその通りだ。
カッコよくて『イイやつ』だから好きになった。
俺の何を知っているんだと言われてしまうと、何も言い返せない。

「むしゃくしゃして、つい酷いことを言いたくなった。
『イイやつ』じゃない『悪いヤツ』になってやる、なんて、バカなことを考えた。
 八つ当たりだよな。悪かった……」

 八つ当たりと言われて、はっとした。
噂では、新堂の実父は事業に失敗し、多額の負債を遺して亡くなったのだと聞いていた。
笑顔の裏にある、想像を超えた深い悲しみや苦しみ。
それを知ろうともせず、単純に『イイやつ』と言ってしまった俺が悪かったのだ。

「……ごめ……、新堂……、俺……」

 俺の失策にも拘らず、昨日は悪魔じゃないかと思った男は、すっかり元通りの優しい新堂に戻っている。

「おまえみたいな純情なヤツに、あんなこと……。
 本当にごめん。だから、こういうのは止めておこう」

 俺の顔を覗き込み、やんわり諭すように、でもその優しさは、この時の俺には完全に突き放されたと感じられた。

「経験……ない…から、俺じゃダメ?」

 俺は尚も、優しい新堂に追い縋った。

「そうじゃなくて……、もっと大事に……」
「俺相手じゃ、できない?」

 男とのセックスに興味があるって言ったじゃないか。
実験台で体を使われるマウスでいい。
そこに、何の感情もなくていい。

「一度でいい、一度だけでいいんだ……!」

 必死の願いが、胸を切り裂き溢れ出る。一度でいい。俺は新堂に抱かれてみたかった。

「……」

 新堂は俺を見つめて、辛そうな顔で黙り込む。その表情に、困らせてしまっていることに気付いた。

「ごめん、迷惑……だよね……」

 はっきり悪意だったと言われているのに、しつこくしがみついている。
分かっているのに諦め切れない。
つくづく自分が無様に思え、涙を堪えて唇を噛んだ。

「……分かった。言い出したのは俺だ。言ったことの責任は取るよ」

 掠れた声で、新堂が低く呟いた。
ぐいっと肩を引き寄せられ、新堂は大股で歩き始める。
俺は引きずられるようにして、一緒に学食から外に出た。

 春の夕暮れに、緩んだ風が頬をひと撫でしていく。
キャンパスを出て坂を下っていくと、駅前通りの賑やかな電飾が灯り始めていた。
忙しなく行き交う人に紛れ、新堂に抱えられて歩く。

 途中、ドラッグストアの前でちょっと待ってろと言われた。新堂は一人で店に入って行き、程なくして小さい紙袋を手に出てきた。
俺はよっぽど頼りない様子だったのだろうか、硬い表情で、また新堂は俺の肩に腕を回した。

 踏切を渡り、静かな住宅街に入る。
周囲に人影が無くなると、俺を抱える新堂の体の感触が、服の上から生々しく感じられた。

「入って……、散らかってるけど」

 大学に入学して一年一か月、すっかり馴染んだ自分の城の玄関に新堂がいる。
こんなことになるなんて、夢にも思わなかった。
信じられない思いで、その光景を見る。

「きちんと片付いてる。緒方らしいね」

 新堂はごく普通に遊びに来た友達の顔でお世辞のようなことを口にする。

「適当に座って。あ、そうだ……、何か飲む?」

 釣られて俺も、他の友達に言うのと同じことを言った。

「俺、あんまり遅くまで居られないんだ。
 手っ取り早く済ませよう。シャワー借りていい?」

 女の子が相手なら、きっとこんな言い方はしないだろう。
手っ取り早くなどと言われて、モルモットの立場を思い出し、一瞬浮かれた自分が惨めになる。

「そのドアが、バスルーム。あ……、そっか、バスタオル……」

 あたふたとクローゼットの中をかき回し、比較的新しいタオルを選んで手渡した。
ありがとうと律儀に言って、新堂は風呂場に消えた。

 この待ちの時間は、本来何をするべきなのか。
シャワーの音を聞きながら、じっと待っていられなくて、檻の中のクマのようにうろうろ立ち歩いた。
ベッドの上の枕の位置を変えるとか、どうでもいいことしかできない。
途中で、自分もシャワーを浴びるべきだと気づいて、急いで着替えを用意した。

 ひとりでバタバタしていたら、新堂はすぐに出てきた。
シャツのボタンは開いていたが、一応服を着ていてくれてほっとした。

「俺も……」

 俯いたまま、ギコシャコとユニットバスの中へ。
もしかしたら、右手右足が揃って前へ出ていたかもしれない。
だとしたら、めちゃくちゃカッコ悪い。
髪の毛は洗うべきなのかと迷っているうちに、習慣でシャワーを頭からかぶってしまった。
急いでシャンプーを付けて洗い、凄い勢いで体中をせっけんで擦り倒し、バスタブから外に出る。
そして、大慌てで濡らしてしまった髪を乾かした。

 せっかくシャワーを浴びたのに、余計に汗を掻くような勢いで外に出たら、新堂はベッドに腰掛け俺を待っていてくれたようだった。

「ごめ……、待たせた……?」

 変なことを言ってしまった気がして、はっと口を噤んだ。
新堂がこの先の行為を、それほど心待ちにしているはずがない。
湯上りで火照った頬、乾かし切れていないとっちらかった髪、部屋着にしている着古したTシャツとバスケパンツ。
色気や可愛さとはまったく無縁。
こんなの絶対に、その気になってはもらえまい。

「こっち来いよ」

 新堂はベッドの上に上がって胡坐をかいた。
にっこり笑って自分の隣をぽんぽんと叩く。
言われるままに、ごそごそとにじり寄って行ったら、手首を掴んでひっぱられた。
膝を立てた新堂の足の間に座らされ、背後から腕を回して抱きかかえてくる。
俺の肩に新堂の顎が乗っかってきた。

「緒方、細いなぁ。腕の中にすっぽり入る」

 背中にぴたりと温もりを感じ、抱き締められていることに動揺して、しばらく呼吸を忘れた。
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