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第59話 冷たい空気としゃぶしゃぶ
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放課後の廊下に冷たい風が窓の隙間から忍び込んでくる。
まるで冬の精が悪戯しているかのように、その風は容赦なく私の頬を撫でていく。
思わず肩をすくめ、マフラーをきつく巻き直す。
「寒い……」
独り言が漏れた、その瞬間。
「田所さん!」
突如、背後から元気いっぱいの声が響いた。
慌ただしい足音と共に駆け寄ってくる人影。
案の定、遠野だった。
彼女は寒さなど気にも留めない様子でいつもの笑顔を輝かせている。
「ねえねえ、今日さ、ちょっと寄り道しない?」
「またご飯?」
私の言葉に遠野の目がさらに輝きを増す。
「もちろん! しかも今日は特別! 寒いときこそぴったりなものを食べに行くんだよ!」
その瞳は、まるで宝石のようにキラキラと光っていた。
どうせ断っても追いかけてくるのは目に見えている。
私は観念したように頷く。
「で、何を食べに行くの?」
「しゃぶしゃぶ!」
その瞬間、私の頭に湯気の立つ鍋と薄切りの肉がくぐる光景が浮かんだ。
思わず喉が鳴る。
寒さが染みこむこの季節には確かにぴったりかもしれない。
「まあ、悪くはないかも」
「でしょ! しかもね、食べ放題のお店だからいっぱい食べられるんだよ!」
その言葉に私は少しだけ身構えた。
遠野と食べ放題に行くといつも無茶な量を食べさせられる羽目になるからだ。
でも今日は寒さに耐えかねていた私の理性が簡単に崩れ去っていった。
店に一歩足を踏み入れると、ほのかに灯された柔らかな照明が優しく迎えてくれた。
店内には落ち着いた雰囲気が漂い、壁際の棚には色とりどりの調味料や薬味が所狭しと並んでいる。
そのひとつひとつが、しゃぶしゃぶへのこだわりを物語っているようだった。
席に案内されると、すでに卓上には大きな二層の鍋がセットされていた。
まだ何も入っていない空の鍋を前に私はメニューを手に取る。
出汁の種類が豊富でどれにするか迷ってしまう。
「スープ、どれにする?」
「うーん、定番の昆布だしもいいけど……辛味噌スープも気になる!」
「私はさっぱり系がいいな。柚子塩とか」
「えー、だったら二種類選べるんだから、片方は私の辛味噌で決まり!」
「また強引に……まあ、いいけど」
注文を終えると、すぐに店員さんが二種類の出汁が入った大きな容器を運んできた。
テーブルの鍋に慎重に注がれると火が入れられ静かに湯気が立ち始める。
辛味噌の情熱的な赤と柚子塩の優雅な黄金色が、まるで陰と陽のように対照的だ。
見ているだけで食欲が目を覚ましていく。
「わあ、いい香り!」
遠野が嬉しそうに鍋を覗き込む姿はまるで子供のよう。
ぐつぐつと沸騰するのを待ちながら私はふと店内の隅にあるビュッフェコーナーに目を向けた。
「野菜も取りに行こうか」
「おお、そうだね!」
遠野と並んでビュッフェコーナーに向かうと色とりどりの野菜やきのこ、豆腐が整然と並べられていた。
まるで食材の展覧会のようだ。
トングを手に取り、それぞれ好きな具材を皿に盛っていく。
しかし、ふと横を見ると――。
「ちょっと、それだけ?」
遠野の皿には少量の白菜とネギが寂しげに乗っているだけだった。
「肉が待ってるから!」
彼女は満面の笑みを浮かべながら、そそくさと席へと戻っていく。
私は深いため息をつきながら、しっかりと野菜を皿に盛ることにした。
席に戻ると店員が持って来ていたらしき肉の皿を前に、満面の笑みを浮かべる遠野がいた。
「お肉はね、いっぱい食べられるからね!」
「いや、野菜も食べなよ」
「それは田所さんが食べてくれればいいんだよ!」
「そういう問題じゃないって……」
遠野はさっそく肉を一枚箸でつまみ、ぐるりと出汁の中にくぐらせた。
さっと色が変わるのを見計らってタレをつける。
その手つきは、まるでプロのよう。
「いただきまーす!」
一口食べると、彼女の顔が春の花のように明るく咲き誇った。
「んーっ! やっぱりしゃぶしゃぶは最高!」
その幸せそうな顔につられて私も肉を鍋にくぐらせて口に運んだ。
あっさりした出汁が肉の旨みを引き立て、思わず箸が進む。
「うん、美味しい」
「でしょでしょ!」
しかし私はすぐに気がついた。
遠野の箸がまるでマグネットに引き寄せられるように肉ばかりを追いかけていることに。
「ちょっと、野菜も食べなよ」
「えー? お肉だけでいいよ」
「バランス考えなよ」
「じゃあ、田所さんが食べさせてくれるなら食べる」
遠野はニヤリと笑い、私のほうへ椀を差し出した。
その目はまるで策略が成功した狐のよう。
「……は?」
「あーんってしてくれたら、野菜食べる!」
「子供か」
「ほらほら、早く!」
私は軽くため息をついたが仕方なく白菜を取り、彼女の前に差し出す。
「ほら、あーん」
「わーい!」
遠野は満面の笑みを浮かべながら、ぱくっと野菜を口に入れた。
その仕草があまりにも無邪気で思わず笑みがこぼれる。
「おいしい!」
「だから最初から食べればいいのに」
「田所さんに食べさせてもらうと、さらにおいしくなるんだよ!」
そんなわけがあるはずないと思いながらも、私は何も言わずに自分の皿に目を落とした。
頬がほんのり熱くなる。
結局その後も遠野は肉を食べ続け、私は適度に野菜と肉を楽しんだ。
鍋の中の具材が少なくなる頃には私たちのお腹もすっかり満たされていた。
「はぁー、幸せ……!」
遠野は満足そうにお腹をさすりながら椅子にもたれかかった。
その表情は、まるで極楽にいるかのよう。
「これで明日からまた頑張れるね!」
「いや、またすぐ食べること考えるでしょ」
「バレた?」
遠野はケラケラと笑い、私は思わず小さくため息をついた。
でも、その息は温かかった。
寒さを忘れるほどに温かく美味しい時間。
しかし、ふと外の寒さを思い出して憂鬱な気持ちになる。
暖かい鍋を囲んでいた時間は束の間の楽園で、いずれこのぬくもりから離れ、あの冷たい夜道を歩いて帰らなければならない。
縮こまる肩や凍えた指先の感覚が容易に想像できてしまい、私は心の中でそっとため息をついた。
でも、不思議と心は温かいままだった。
たぶんそれは遠野という太陽のおかげなのだろう。
寒い冬の夜も彼女と過ごす時間は特別な輝きを持っている。
そう思うと少しだけ外の寒さも怖くなくなった気がした。
まるで冬の精が悪戯しているかのように、その風は容赦なく私の頬を撫でていく。
思わず肩をすくめ、マフラーをきつく巻き直す。
「寒い……」
独り言が漏れた、その瞬間。
「田所さん!」
突如、背後から元気いっぱいの声が響いた。
慌ただしい足音と共に駆け寄ってくる人影。
案の定、遠野だった。
彼女は寒さなど気にも留めない様子でいつもの笑顔を輝かせている。
「ねえねえ、今日さ、ちょっと寄り道しない?」
「またご飯?」
私の言葉に遠野の目がさらに輝きを増す。
「もちろん! しかも今日は特別! 寒いときこそぴったりなものを食べに行くんだよ!」
その瞳は、まるで宝石のようにキラキラと光っていた。
どうせ断っても追いかけてくるのは目に見えている。
私は観念したように頷く。
「で、何を食べに行くの?」
「しゃぶしゃぶ!」
その瞬間、私の頭に湯気の立つ鍋と薄切りの肉がくぐる光景が浮かんだ。
思わず喉が鳴る。
寒さが染みこむこの季節には確かにぴったりかもしれない。
「まあ、悪くはないかも」
「でしょ! しかもね、食べ放題のお店だからいっぱい食べられるんだよ!」
その言葉に私は少しだけ身構えた。
遠野と食べ放題に行くといつも無茶な量を食べさせられる羽目になるからだ。
でも今日は寒さに耐えかねていた私の理性が簡単に崩れ去っていった。
店に一歩足を踏み入れると、ほのかに灯された柔らかな照明が優しく迎えてくれた。
店内には落ち着いた雰囲気が漂い、壁際の棚には色とりどりの調味料や薬味が所狭しと並んでいる。
そのひとつひとつが、しゃぶしゃぶへのこだわりを物語っているようだった。
席に案内されると、すでに卓上には大きな二層の鍋がセットされていた。
まだ何も入っていない空の鍋を前に私はメニューを手に取る。
出汁の種類が豊富でどれにするか迷ってしまう。
「スープ、どれにする?」
「うーん、定番の昆布だしもいいけど……辛味噌スープも気になる!」
「私はさっぱり系がいいな。柚子塩とか」
「えー、だったら二種類選べるんだから、片方は私の辛味噌で決まり!」
「また強引に……まあ、いいけど」
注文を終えると、すぐに店員さんが二種類の出汁が入った大きな容器を運んできた。
テーブルの鍋に慎重に注がれると火が入れられ静かに湯気が立ち始める。
辛味噌の情熱的な赤と柚子塩の優雅な黄金色が、まるで陰と陽のように対照的だ。
見ているだけで食欲が目を覚ましていく。
「わあ、いい香り!」
遠野が嬉しそうに鍋を覗き込む姿はまるで子供のよう。
ぐつぐつと沸騰するのを待ちながら私はふと店内の隅にあるビュッフェコーナーに目を向けた。
「野菜も取りに行こうか」
「おお、そうだね!」
遠野と並んでビュッフェコーナーに向かうと色とりどりの野菜やきのこ、豆腐が整然と並べられていた。
まるで食材の展覧会のようだ。
トングを手に取り、それぞれ好きな具材を皿に盛っていく。
しかし、ふと横を見ると――。
「ちょっと、それだけ?」
遠野の皿には少量の白菜とネギが寂しげに乗っているだけだった。
「肉が待ってるから!」
彼女は満面の笑みを浮かべながら、そそくさと席へと戻っていく。
私は深いため息をつきながら、しっかりと野菜を皿に盛ることにした。
席に戻ると店員が持って来ていたらしき肉の皿を前に、満面の笑みを浮かべる遠野がいた。
「お肉はね、いっぱい食べられるからね!」
「いや、野菜も食べなよ」
「それは田所さんが食べてくれればいいんだよ!」
「そういう問題じゃないって……」
遠野はさっそく肉を一枚箸でつまみ、ぐるりと出汁の中にくぐらせた。
さっと色が変わるのを見計らってタレをつける。
その手つきは、まるでプロのよう。
「いただきまーす!」
一口食べると、彼女の顔が春の花のように明るく咲き誇った。
「んーっ! やっぱりしゃぶしゃぶは最高!」
その幸せそうな顔につられて私も肉を鍋にくぐらせて口に運んだ。
あっさりした出汁が肉の旨みを引き立て、思わず箸が進む。
「うん、美味しい」
「でしょでしょ!」
しかし私はすぐに気がついた。
遠野の箸がまるでマグネットに引き寄せられるように肉ばかりを追いかけていることに。
「ちょっと、野菜も食べなよ」
「えー? お肉だけでいいよ」
「バランス考えなよ」
「じゃあ、田所さんが食べさせてくれるなら食べる」
遠野はニヤリと笑い、私のほうへ椀を差し出した。
その目はまるで策略が成功した狐のよう。
「……は?」
「あーんってしてくれたら、野菜食べる!」
「子供か」
「ほらほら、早く!」
私は軽くため息をついたが仕方なく白菜を取り、彼女の前に差し出す。
「ほら、あーん」
「わーい!」
遠野は満面の笑みを浮かべながら、ぱくっと野菜を口に入れた。
その仕草があまりにも無邪気で思わず笑みがこぼれる。
「おいしい!」
「だから最初から食べればいいのに」
「田所さんに食べさせてもらうと、さらにおいしくなるんだよ!」
そんなわけがあるはずないと思いながらも、私は何も言わずに自分の皿に目を落とした。
頬がほんのり熱くなる。
結局その後も遠野は肉を食べ続け、私は適度に野菜と肉を楽しんだ。
鍋の中の具材が少なくなる頃には私たちのお腹もすっかり満たされていた。
「はぁー、幸せ……!」
遠野は満足そうにお腹をさすりながら椅子にもたれかかった。
その表情は、まるで極楽にいるかのよう。
「これで明日からまた頑張れるね!」
「いや、またすぐ食べること考えるでしょ」
「バレた?」
遠野はケラケラと笑い、私は思わず小さくため息をついた。
でも、その息は温かかった。
寒さを忘れるほどに温かく美味しい時間。
しかし、ふと外の寒さを思い出して憂鬱な気持ちになる。
暖かい鍋を囲んでいた時間は束の間の楽園で、いずれこのぬくもりから離れ、あの冷たい夜道を歩いて帰らなければならない。
縮こまる肩や凍えた指先の感覚が容易に想像できてしまい、私は心の中でそっとため息をついた。
でも、不思議と心は温かいままだった。
たぶんそれは遠野という太陽のおかげなのだろう。
寒い冬の夜も彼女と過ごす時間は特別な輝きを持っている。
そう思うと少しだけ外の寒さも怖くなくなった気がした。
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