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第23話 言葉を無くしたのは、HISAKAの方だった。
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ふう。
何度目かのため息が漏れる。
まだ録りが終わっていない曲のリハーサルのために、彼女もスタジオへは毎日通っていた。
それを一時間ばかりで終えてしまうこともあれば、意外にもはまって、延々続けていることも時にはある。
ただ、時々そんな風に時間を忘れてしまっている時に、くらり、と眩暈がすることがある。確かに昔から喘息持ちで、決して身体は強い方ではない。ただ不調な時も、そんな出方はしたことは無い。
どうしたんだろう。
さすがに物事をあまり気にしないP子さんでも、そんな状態が続くと、おかしいという気になってくるものである。
小休止。ギターを置いて、スタジオを出る。がらんとした廊下には、何種類かのヤシ科の観葉植物が西日を浴びていた。その横を通り過ぎ、自販機の前に立つ。
どれもそう好きというものではない。甘いものが多すぎる。
いっそ茶類を充実させておいてくれればいいのに、と思う。だがまあ、置かれているということは、ある程度需要があるのだろう、と思い直す。彼女は自分の好みが必ずしも一般的ではないことをいつも心に留めていた。そしてそれは仕方がないことだ、とも。
仕方なく、小振りな缶のコーヒーのボタンを押す。これとて甘くない訳ではないが、まだましな方だった。
がたん、と落ちてくる缶を取りながら、マリコさんが居たらなあ、とふと彼女は思う。
HISAKAやMAVOと少し前まで同居していた「マリコさん」は、確か医者の資格を持っていたはずだった。
詳しいことは知らないが、少し前、急に、何やら新しい勤め先が遠いから、と二人の住処を離れてしまったらしい。
まあ確かに優秀な医者だったら、探せば何かと勤め先はあるのだろう。それまで職らしい職についていなかったことが不思議なのだ。
だが彼女だったらきっと、今の自分に、ある程度有効な答えを出してくれるだろう。
何せ何かと身体の使いすぎでオーバーヒートしてしまうHISAKAのことも、生理が重くてへたばっているFAVも、どうしてそんなところに、という所に何かと打撲やねんざをしてくるTEARも、時々アタマが切れてしまうMAVOも皆同じ様に診てくれた彼女だ。P子さん自身も、久しぶりに喘息の発作が来た時に、世話になったことがある。
……まあその前に自分が医者に行けばいいのかな。
さすがにそう考える様になっただけでも、進歩と言えば進歩なのだが。
ぷち、と開けた缶コーヒーの匂いが鼻につくようじゃ、どうしようもないのだ。
よし、とP子さんは開けたばかりの缶コーヒーを手にしたまま立ち上がり、別のスタジオに入っているHISAKAの元へと向かった。
「居ますか?」
「ん?」
ひょい、とのぞき込むと、きらきらとリーダーの髪は輝いていた。
スタジオにはやはり西日が入り込んでいた。その真ん中で、グランドピアノを前に、HISAKAは何枚かの譜面を書き散らしている。いつものことだ。
「コーヒー、呑みません?」
言いながら、とん、とP子さんは缶コーヒーをピアノの上に置いた。
「コーヒー?」
「いや、買ったんですが、開けたらどうにも呑めなくて」
「呑めない?」
くるり、とHISAKAは椅子を回した。
「何っか鼻について。で、やっぱり調子悪いから、医者に行って来ようと思うんですが、今、いいですかね」
「いいも悪いも、調子悪いなら、行ってらっしゃいよ。うん、確かに顔色あまり良く無いわね。いつも私が行ってるとこに電話しておくわ」
「アナタかかりつけなんてあったんですね」
「そりゃあまあ、ある程度は…… じゃなくて、そう言えばP子さん、割と最近ずっと調子悪そうだったものね」
んー、とP子さんは首を傾げた。
「別にこれと言って思い当たるフシは無いんですがねえ」
「疲れが出た、って言っても、今回は皆もうその波は過ぎているようなのにね。まあ暑くなってきたし、そのせいもあるのかしら。うん、ともかく連絡しておくわ。えーと」
HISAKAは白紙の譜面の一枚を取り出すと、裏返しにしてさらさらと何やら書き込む。
「そう遠くはないわ」
受け取ったそこには、住所と地図が書かれていた。よくまあさらさらと、とP子さんは感心する。
「確かに遠くないですね。でもいいんですか? 個人医院だったら混んでたりは」
「今日は基本的に休診のはずよ」
くす、とリーダーは笑った。
「休診のとこを叩き起こすんですかね」
「いいのよ」
P子さんは黙って肩をすくめた。
だがその数時間後、言葉を無くしたのは、HISAKAの方だった。
*
ノックの音が、スタジオの中に響いた。
はっと顔を上げると、時計の短針がいつの間にか何十度も動いていたりして、HISAKAを驚かせた。西日は既に全くなく、窓から見えるのは、遠くの灯りや車のライトばかりだった。ああもうこんな時間、とつぶやくが、誰に聞かせるということでもない。
扉の方を見ると、P子さんがぼんやりと立っていた。HISAKAは再びくるりと椅子を回す。
「何だP子さん。ノックだなんて珍しい」
「いやワタシ、何度かアナタ呼んだんですよ? でも気付かないから」
「あ、ごめんなさい。ちょっと集中してたから」
「まあそうでしょうねえ」
それはごくごくありふれたことだった。
このリーダーは、相棒のアタマの切れ方や飛び方を時々口にするが、当の本人にしたところで、決してそれを言える立場ではないのである。ただMAVOに比べたら、飛ぶ時のTPOをわきまえているだけのことだった。
「で、医者の方、どうだったの?」
「それがですねえ」
P子さんは腕を組む。
「何って言っていいんですかねえ」
「……って何か、あなた悪い病気でも」
「……いや、病気ではないんですが」
「病気じゃあないのね。ああ良かった」
「いや、でも」
「……何なのよ一体」
P子さんにしてみれば、その態度は珍しいことだった。
迷っている時には迷っている、と平たい言葉で表現するひとなのだ。それがあまりにも平たすぎて、本当にそうなのか、と問われることもあるのだが。
「ええと。言ってしまえば単純なんですが」
「単純なら早く言ってしまったほうがいいと思うけど。何にしろ対処が早くできるでしょう?」
「アナタのそういうとこ、好きですよ、HISAKA。何か、妊娠してるらしいんですが、ワタシ」
は?
途端、HISAKAの頭の中で「ラ・マルセイユーズ」が流れた。あ、逃避している、とこの賢いリーダーは瞬時にして気付く。
「えーと、もう一度、繰り返してくれないかしら? 何か私の頭が、勝手に逃避したみたいで」
「そんなことだろうと思いましたよ…… だからワタシ、子供が出来たらしいんですが」
「えーと」
「今度はちゃんと聞こえましたか?」
「聞こえた……」
しかしリーダーは、右を向き左を向き上を向いてなおかつ下まで向いて、それから聞いた言葉を噛みしめるようにして意味を確認しているようだった。これは完全に混乱しているな、と当のP子さんはそんなリーダーを見ながら、妙に冷静に考えていた。
いや無論彼女とて混乱しなかった訳ではない。
「そういえば」最近ナプキンを買った記憶が無い。忙しかったから忘れていた、と言ってしまえばおしまいなのだが、確かにそうなのだ。
無ければ無いで、まあ気楽でいいわ、という程度にしか彼女は考えていないから、つい忘れたら忘れっぱなしになっているのである。
しかし確かにそれはまずかった、と彼女も思わなくもない。
そして更によく考えてみれば、そういうことを考えてDBと寝ていた訳ではないのである。
回数が多い訳ではないが、その気になった時にだらだら、だから、当然用意もしていない。不注意とののしられても当然ではあるのだが。
のだが。
まあそれもありだよなあ、と考えている自分に、実はP子さん自身、静かに、実に静かに驚いているのだ。
それはおそらく、そんな身体の事実そのものより、彼女を驚かせるものだったに違いない。
何度目かのため息が漏れる。
まだ録りが終わっていない曲のリハーサルのために、彼女もスタジオへは毎日通っていた。
それを一時間ばかりで終えてしまうこともあれば、意外にもはまって、延々続けていることも時にはある。
ただ、時々そんな風に時間を忘れてしまっている時に、くらり、と眩暈がすることがある。確かに昔から喘息持ちで、決して身体は強い方ではない。ただ不調な時も、そんな出方はしたことは無い。
どうしたんだろう。
さすがに物事をあまり気にしないP子さんでも、そんな状態が続くと、おかしいという気になってくるものである。
小休止。ギターを置いて、スタジオを出る。がらんとした廊下には、何種類かのヤシ科の観葉植物が西日を浴びていた。その横を通り過ぎ、自販機の前に立つ。
どれもそう好きというものではない。甘いものが多すぎる。
いっそ茶類を充実させておいてくれればいいのに、と思う。だがまあ、置かれているということは、ある程度需要があるのだろう、と思い直す。彼女は自分の好みが必ずしも一般的ではないことをいつも心に留めていた。そしてそれは仕方がないことだ、とも。
仕方なく、小振りな缶のコーヒーのボタンを押す。これとて甘くない訳ではないが、まだましな方だった。
がたん、と落ちてくる缶を取りながら、マリコさんが居たらなあ、とふと彼女は思う。
HISAKAやMAVOと少し前まで同居していた「マリコさん」は、確か医者の資格を持っていたはずだった。
詳しいことは知らないが、少し前、急に、何やら新しい勤め先が遠いから、と二人の住処を離れてしまったらしい。
まあ確かに優秀な医者だったら、探せば何かと勤め先はあるのだろう。それまで職らしい職についていなかったことが不思議なのだ。
だが彼女だったらきっと、今の自分に、ある程度有効な答えを出してくれるだろう。
何せ何かと身体の使いすぎでオーバーヒートしてしまうHISAKAのことも、生理が重くてへたばっているFAVも、どうしてそんなところに、という所に何かと打撲やねんざをしてくるTEARも、時々アタマが切れてしまうMAVOも皆同じ様に診てくれた彼女だ。P子さん自身も、久しぶりに喘息の発作が来た時に、世話になったことがある。
……まあその前に自分が医者に行けばいいのかな。
さすがにそう考える様になっただけでも、進歩と言えば進歩なのだが。
ぷち、と開けた缶コーヒーの匂いが鼻につくようじゃ、どうしようもないのだ。
よし、とP子さんは開けたばかりの缶コーヒーを手にしたまま立ち上がり、別のスタジオに入っているHISAKAの元へと向かった。
「居ますか?」
「ん?」
ひょい、とのぞき込むと、きらきらとリーダーの髪は輝いていた。
スタジオにはやはり西日が入り込んでいた。その真ん中で、グランドピアノを前に、HISAKAは何枚かの譜面を書き散らしている。いつものことだ。
「コーヒー、呑みません?」
言いながら、とん、とP子さんは缶コーヒーをピアノの上に置いた。
「コーヒー?」
「いや、買ったんですが、開けたらどうにも呑めなくて」
「呑めない?」
くるり、とHISAKAは椅子を回した。
「何っか鼻について。で、やっぱり調子悪いから、医者に行って来ようと思うんですが、今、いいですかね」
「いいも悪いも、調子悪いなら、行ってらっしゃいよ。うん、確かに顔色あまり良く無いわね。いつも私が行ってるとこに電話しておくわ」
「アナタかかりつけなんてあったんですね」
「そりゃあまあ、ある程度は…… じゃなくて、そう言えばP子さん、割と最近ずっと調子悪そうだったものね」
んー、とP子さんは首を傾げた。
「別にこれと言って思い当たるフシは無いんですがねえ」
「疲れが出た、って言っても、今回は皆もうその波は過ぎているようなのにね。まあ暑くなってきたし、そのせいもあるのかしら。うん、ともかく連絡しておくわ。えーと」
HISAKAは白紙の譜面の一枚を取り出すと、裏返しにしてさらさらと何やら書き込む。
「そう遠くはないわ」
受け取ったそこには、住所と地図が書かれていた。よくまあさらさらと、とP子さんは感心する。
「確かに遠くないですね。でもいいんですか? 個人医院だったら混んでたりは」
「今日は基本的に休診のはずよ」
くす、とリーダーは笑った。
「休診のとこを叩き起こすんですかね」
「いいのよ」
P子さんは黙って肩をすくめた。
だがその数時間後、言葉を無くしたのは、HISAKAの方だった。
*
ノックの音が、スタジオの中に響いた。
はっと顔を上げると、時計の短針がいつの間にか何十度も動いていたりして、HISAKAを驚かせた。西日は既に全くなく、窓から見えるのは、遠くの灯りや車のライトばかりだった。ああもうこんな時間、とつぶやくが、誰に聞かせるということでもない。
扉の方を見ると、P子さんがぼんやりと立っていた。HISAKAは再びくるりと椅子を回す。
「何だP子さん。ノックだなんて珍しい」
「いやワタシ、何度かアナタ呼んだんですよ? でも気付かないから」
「あ、ごめんなさい。ちょっと集中してたから」
「まあそうでしょうねえ」
それはごくごくありふれたことだった。
このリーダーは、相棒のアタマの切れ方や飛び方を時々口にするが、当の本人にしたところで、決してそれを言える立場ではないのである。ただMAVOに比べたら、飛ぶ時のTPOをわきまえているだけのことだった。
「で、医者の方、どうだったの?」
「それがですねえ」
P子さんは腕を組む。
「何って言っていいんですかねえ」
「……って何か、あなた悪い病気でも」
「……いや、病気ではないんですが」
「病気じゃあないのね。ああ良かった」
「いや、でも」
「……何なのよ一体」
P子さんにしてみれば、その態度は珍しいことだった。
迷っている時には迷っている、と平たい言葉で表現するひとなのだ。それがあまりにも平たすぎて、本当にそうなのか、と問われることもあるのだが。
「ええと。言ってしまえば単純なんですが」
「単純なら早く言ってしまったほうがいいと思うけど。何にしろ対処が早くできるでしょう?」
「アナタのそういうとこ、好きですよ、HISAKA。何か、妊娠してるらしいんですが、ワタシ」
は?
途端、HISAKAの頭の中で「ラ・マルセイユーズ」が流れた。あ、逃避している、とこの賢いリーダーは瞬時にして気付く。
「えーと、もう一度、繰り返してくれないかしら? 何か私の頭が、勝手に逃避したみたいで」
「そんなことだろうと思いましたよ…… だからワタシ、子供が出来たらしいんですが」
「えーと」
「今度はちゃんと聞こえましたか?」
「聞こえた……」
しかしリーダーは、右を向き左を向き上を向いてなおかつ下まで向いて、それから聞いた言葉を噛みしめるようにして意味を確認しているようだった。これは完全に混乱しているな、と当のP子さんはそんなリーダーを見ながら、妙に冷静に考えていた。
いや無論彼女とて混乱しなかった訳ではない。
「そういえば」最近ナプキンを買った記憶が無い。忙しかったから忘れていた、と言ってしまえばおしまいなのだが、確かにそうなのだ。
無ければ無いで、まあ気楽でいいわ、という程度にしか彼女は考えていないから、つい忘れたら忘れっぱなしになっているのである。
しかし確かにそれはまずかった、と彼女も思わなくもない。
そして更によく考えてみれば、そういうことを考えてDBと寝ていた訳ではないのである。
回数が多い訳ではないが、その気になった時にだらだら、だから、当然用意もしていない。不注意とののしられても当然ではあるのだが。
のだが。
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