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第37話 DBの家の事情②
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それからもやはり、彼女と顔を合わせることは無かった。「兄」は自分を連れ回し、これでもかとばかりに自分の住むべき世界を見せつける。
広い車内の、斜め前に掛けた「兄」は、行く先々の資料を彼に見せて、その移動時の短い時間に頭に入れておくように、と言う。
彼は必死で覚える。必死だ。必死なのだ。
だが「兄」はそれを当然のことのようにふるまう。実際、「兄」は彼と同じ歳の時、「父親」に連れられて、同じことをしていたらしい。それももっと、易々と。
息切れがする。
夜中に目が覚める。すると「父親」の記憶が奇妙に闇の中に浮かび上がる。
お前は母親に良く似ているな。
そう言って、「父親」はやはりよく、彼の髪をかき回したものだった。
懐かしそうに、そんな仕草をした。
そんな記憶が浮かび上がるごとに、彼はふと、こう思うようになっていた。
もしかしたら。
もしかしたら、「父親」は、わざと愛人を――― 彼の母親を、この「妾宅」な離れに呼び寄せなかったのではないか、と。
既にこの家の正妻は居なかったはずである。あの「父親」の姉は、おそらくこの当主の言葉には逆らわないだろう。
細い眉をほんの1㎜寄せることがあったとしても、あのひとは、当主の決めたことそのものには逆らうことはないのだ。
だとしたら。「父親」は、この家に彼の母親が住むことは、決して彼女のためにならない、と思っていたのではなかろうか。
物心ついてから捨てられるまでのわずかな時間、それでも彼は、母親とその母親の記憶に関しては、暖かなものを感じていた。
捨てられたことを知っているのに、それでも二人に対して恨みごとの一つも言えない自分を知っている。それでも確実に、あの二人は自分を守ってくれていた。それは彼にとって確信だった。
*
そんなある日のことだった。
学校からの帰り道は、その頃の彼の僅かな自由の時間だった。決して学校は家から遠すぎはしない。バスで停留所数ヶ所、というところである。
送り迎えをする、という「兄」の申し出を、それは彼はもさりげなく断っていた。「兄」もそれに関しては強く自分の考えを押し進めはしなかった。
実際「兄」も、たかが公立の学校に送り迎えなど、恥ずかしい真似だ、と思ったのだろう。彼の自由時間はそうやって確保された。
その帰り道、家の少し前で、彼は呼び止められた。
「……大介君かな?」
突然名前を呼ばれ、ええ、と答えたかはい、と答えたか、彼には記憶がない。ただその時、彼の頭はめまぐるしい程のスピードで、その相手の素性を記憶の中から取り出そうとしていた。
このひとは確か「父親」の葬儀の時に見かけた。
「覚えているかな。私はこの家の顧問弁護士の鳥留というんだが」
とりとめさん、と彼は繰り返した。何となく座りの悪い名だ、と思う。
「今学校の帰りかい?」
「ええ」
今度はそう答えながらうなづいていた。
「そう、それは良かった」
鳥留氏はそう言いながら、にこやかに笑った。整えられた髪は、良い具合に黒と白が入り交じって、ロマンスグレイというものだろうか。口元の笑みが、古い洋画の主演男優を思わせる。
何が「良い」のか判らなかったが、ともかく中に用事があるようだったので、彼はそのまま弁護士を中に招き入れた。
それから、というものの、彼は時々家の敷地内でこの弁護士を見かけるようになっていた。
いつもこんな風に来る人だったろうか、と疑問には思った。だが顧問弁護士なのだから、良く来たとしてもまあおかしくはない。
もしかしたら、単に彼の視界に入っていなかっただけかもしれない。
彼は「父親」の死まで、自分のテリトリーである離れの周囲以外、そう出ることがなかった。確かにそちらにはこの弁護士氏は関係がなかったろう。
ただ、その氏が、やがて彼の離れにまで近づいて来た時には、妙な感じがした。
鳥留氏はずいぶんと彼に対して愛想が良かった。
土曜日の午後などに唐突にやってきては、縁側に腰掛け、庭の風情がいい、などとのんびりと感想を述べる。
まるで彼の居る時を狙っているかのように。
「父親」よりは若い―――だが、自分の父親と言ってもいいような年齢のこの男に、次第に彼は気を許していた。
そしてある日、問いかけた。
「鳥留さん」
何だい、と弁護士氏は振り向いた。
いつもの様に、二人して縁側で並んでぼんやりと庭を観賞していた。端から見れば奇妙な光景かもしれない。土曜の午後に、いい若い者が、父親くらいの年齢の男と、縁側で茶でも飲みながら話をしている。
静かな、庭だった。「離れ」というだけあって、人の気配もしない。
「一つお聞きしたいことがあるんですが」
広い車内の、斜め前に掛けた「兄」は、行く先々の資料を彼に見せて、その移動時の短い時間に頭に入れておくように、と言う。
彼は必死で覚える。必死だ。必死なのだ。
だが「兄」はそれを当然のことのようにふるまう。実際、「兄」は彼と同じ歳の時、「父親」に連れられて、同じことをしていたらしい。それももっと、易々と。
息切れがする。
夜中に目が覚める。すると「父親」の記憶が奇妙に闇の中に浮かび上がる。
お前は母親に良く似ているな。
そう言って、「父親」はやはりよく、彼の髪をかき回したものだった。
懐かしそうに、そんな仕草をした。
そんな記憶が浮かび上がるごとに、彼はふと、こう思うようになっていた。
もしかしたら。
もしかしたら、「父親」は、わざと愛人を――― 彼の母親を、この「妾宅」な離れに呼び寄せなかったのではないか、と。
既にこの家の正妻は居なかったはずである。あの「父親」の姉は、おそらくこの当主の言葉には逆らわないだろう。
細い眉をほんの1㎜寄せることがあったとしても、あのひとは、当主の決めたことそのものには逆らうことはないのだ。
だとしたら。「父親」は、この家に彼の母親が住むことは、決して彼女のためにならない、と思っていたのではなかろうか。
物心ついてから捨てられるまでのわずかな時間、それでも彼は、母親とその母親の記憶に関しては、暖かなものを感じていた。
捨てられたことを知っているのに、それでも二人に対して恨みごとの一つも言えない自分を知っている。それでも確実に、あの二人は自分を守ってくれていた。それは彼にとって確信だった。
*
そんなある日のことだった。
学校からの帰り道は、その頃の彼の僅かな自由の時間だった。決して学校は家から遠すぎはしない。バスで停留所数ヶ所、というところである。
送り迎えをする、という「兄」の申し出を、それは彼はもさりげなく断っていた。「兄」もそれに関しては強く自分の考えを押し進めはしなかった。
実際「兄」も、たかが公立の学校に送り迎えなど、恥ずかしい真似だ、と思ったのだろう。彼の自由時間はそうやって確保された。
その帰り道、家の少し前で、彼は呼び止められた。
「……大介君かな?」
突然名前を呼ばれ、ええ、と答えたかはい、と答えたか、彼には記憶がない。ただその時、彼の頭はめまぐるしい程のスピードで、その相手の素性を記憶の中から取り出そうとしていた。
このひとは確か「父親」の葬儀の時に見かけた。
「覚えているかな。私はこの家の顧問弁護士の鳥留というんだが」
とりとめさん、と彼は繰り返した。何となく座りの悪い名だ、と思う。
「今学校の帰りかい?」
「ええ」
今度はそう答えながらうなづいていた。
「そう、それは良かった」
鳥留氏はそう言いながら、にこやかに笑った。整えられた髪は、良い具合に黒と白が入り交じって、ロマンスグレイというものだろうか。口元の笑みが、古い洋画の主演男優を思わせる。
何が「良い」のか判らなかったが、ともかく中に用事があるようだったので、彼はそのまま弁護士を中に招き入れた。
それから、というものの、彼は時々家の敷地内でこの弁護士を見かけるようになっていた。
いつもこんな風に来る人だったろうか、と疑問には思った。だが顧問弁護士なのだから、良く来たとしてもまあおかしくはない。
もしかしたら、単に彼の視界に入っていなかっただけかもしれない。
彼は「父親」の死まで、自分のテリトリーである離れの周囲以外、そう出ることがなかった。確かにそちらにはこの弁護士氏は関係がなかったろう。
ただ、その氏が、やがて彼の離れにまで近づいて来た時には、妙な感じがした。
鳥留氏はずいぶんと彼に対して愛想が良かった。
土曜日の午後などに唐突にやってきては、縁側に腰掛け、庭の風情がいい、などとのんびりと感想を述べる。
まるで彼の居る時を狙っているかのように。
「父親」よりは若い―――だが、自分の父親と言ってもいいような年齢のこの男に、次第に彼は気を許していた。
そしてある日、問いかけた。
「鳥留さん」
何だい、と弁護士氏は振り向いた。
いつもの様に、二人して縁側で並んでぼんやりと庭を観賞していた。端から見れば奇妙な光景かもしれない。土曜の午後に、いい若い者が、父親くらいの年齢の男と、縁側で茶でも飲みながら話をしている。
静かな、庭だった。「離れ」というだけあって、人の気配もしない。
「一つお聞きしたいことがあるんですが」
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