38 / 51
第38話 DBの家の事情③
しおりを挟む
そう口にしながら、彼の心臓は次第に鼓動を早めつつあった。静まれ、と彼は自分自身に命ずる。だが気持ちの冷静さに比べ、身体は正直だった。
「私に答えられることなら何でも」
「……権利の放棄、ってどうすればいいんですか?」
君、と鳥留氏は弾かれた様に彼の方を向いた。
「……ふざけるのは止したまえ、大介君」
「ふざけている、とお思いですか?」
彼はまっすぐ、弁護士氏の方を向いた。ううむ、と相手は眉を軽く寄せた。
「無論、方法を知らない訳ではないが、そういうことは、軽々しく言うものではないよ」
初めから馬鹿なことを、と言わないあたり、このひとには脈がある。彼はそう感じていた。
「僕は」
彼は年長者の意見を受け流し、口を開く。心臓の鼓動はどんどん早く、大きくなっていく。大事なことだ。これは自分にとって、大切なことなのだ。
どうしても答えが欲しい、大事なことなのだ。
「兄は…… あのひとは、僕を自分の片腕にしようと思っているのでしょうか」
「当然それは考えられるね。何しろ現在、あの一朗君にとって、最も近しい肉親は君だけなのだから。たとえ母親が異なったとしても、同じ父親の血を引くものとしてね」
「そうかもしれません。でも」
一度彼は、そこで言葉を切る。
「僕と彼は、違うんです」
「そりゃあ、人間皆違う」
「しかしあのひとは、自分と僕を混同しています。僕はあのひとのように、あの会社や…… そういった中で、上に立つ人間としてやっていく才能は無いです」
「自分でそうやって言い切ってしまうのかい?」
「はい」
「それは逃げじゃないのかい?」
彼は一瞬詰まる。だがそこで踏みとどまらなくてはならないのだ。
「……鳥留さんは、どうして弁護士になろうと思いましたか?」
質問をした側は苦笑する。
された側は、何をいきなり、と目を大きく広げる。そしてあの感じのいい口元だけの笑みを浮かべた。
「さあ、もう遠い昔のことだから忘れたよ」
「でも、自分がやったから、できたから、ってきょうだいにまで、同じ職業を選べ、とは言わなかったんではないですか?」
「……私には、きょうだいは無いんだよ、大介君」
ははは、と鳥留氏は笑った。彼はあ、と言って口を押さえる。決めつけているのは自分も同じじゃないか。
「いや、でもまあ、君の言いたいことは判るよ。そう、きょうだいは居ない。だが娘と息子が一人ずつ居る。確かに、どちらも弁護士どころか、文系とは縁の無いことをしているな」
その言葉を聞いて、彼は少しだけほっとする。
「だがそれは、二人とも、その分野にしたいことがあったからだ。私がそれならあれこれ口出すことでもないだろう。だが君は、何かその、会社に関わるのが嫌だというのなら、他にしたいことがあるのかい?」
彼は詰まった。つまりはそれが自分のネックなのだ。
人にこうと主張できる程の強い肯定的な「何か」が無い。
「嫌だから」という消極的な理由だけでは、あまりにも理由としては弱すぎるのだ。たとえそれが、自分にとって最も大きな理由であったとしても!
だから彼はいいえ、と答えた。
「だったら、もう少し続けてみたまえ。その中で、自分に向いたものがあるのかもしれない」
あるのだろうか。ぽん、と置かれた鳥留氏の手は大きくて暖かい。少しはそれを信じてみてもいいのかもしれない、と彼は思った。
だが。
*
「どういうつもりだ?」
あああの目だ、と彼は思った。頬が痛い。どうして自分が床に転がっているのか、彼にはすぐには理解できなかった。
ああそうだ、自分は「兄」に殴られたのだ。
その勢いが強すぎて、大したウエートもない自分は吹っ飛ばされてしまったのだ。
「……何の、ことですか?」
「空とぼけるんじゃない」
彼は床でこすれた頬を撫でる。擦り傷までは行っていないが、それでもひりひりと痛む。
「お前、鳥留に何を言った」
「何を、とは」
「権利を放棄したい、と言ったそうだな」
鳥留氏が言ったのだろうか。彼は考える。いや、どうだろう。
「鳥留さんが…… 言われたのですか?」
「そんなことはどうでもいいだろう」
なるほど。
彼は奇妙に冷静な頭で納得した。
鳥留氏が言った訳ではない。おそらく、この家の中の誰かが、自分達の会話を聞いていたのだ。
それが誰であるかはどうでもいいことだ。問題は、誰かしらが自分達の会話が聞こえる所に居た、ということだ。
「冗談にしても程がある」
「兄」は吐き捨てる様に言った。
「……冗談ではないです」
彼はぼそ、と言った。だがその言葉は果たして届いたのかどうか。
「今度そんなことを口にしてみろ。お前を今の学校から転校させる」
そんな無茶な、と彼は思った。既に三年も半分まで行ったというのに。そんな時期に転校する馬鹿も転校させる馬鹿もいないだろう。
だがそんなことが、きっとできるのだ。出来なければこの男はそれを口にはしないだろう。
わかりました、と彼は乾いた声で答えた。判ったならいい、と「兄」は言った。
「今日のうちに、身の回りの荷物をまとめておけ。明日から、離れではなく、お前は本宅の方に移れ」
はい、と彼は答えた。そしてその晩、彼は身の回りの荷物をまとめた。
だがそれは、本宅に移るためではなかった。
「私に答えられることなら何でも」
「……権利の放棄、ってどうすればいいんですか?」
君、と鳥留氏は弾かれた様に彼の方を向いた。
「……ふざけるのは止したまえ、大介君」
「ふざけている、とお思いですか?」
彼はまっすぐ、弁護士氏の方を向いた。ううむ、と相手は眉を軽く寄せた。
「無論、方法を知らない訳ではないが、そういうことは、軽々しく言うものではないよ」
初めから馬鹿なことを、と言わないあたり、このひとには脈がある。彼はそう感じていた。
「僕は」
彼は年長者の意見を受け流し、口を開く。心臓の鼓動はどんどん早く、大きくなっていく。大事なことだ。これは自分にとって、大切なことなのだ。
どうしても答えが欲しい、大事なことなのだ。
「兄は…… あのひとは、僕を自分の片腕にしようと思っているのでしょうか」
「当然それは考えられるね。何しろ現在、あの一朗君にとって、最も近しい肉親は君だけなのだから。たとえ母親が異なったとしても、同じ父親の血を引くものとしてね」
「そうかもしれません。でも」
一度彼は、そこで言葉を切る。
「僕と彼は、違うんです」
「そりゃあ、人間皆違う」
「しかしあのひとは、自分と僕を混同しています。僕はあのひとのように、あの会社や…… そういった中で、上に立つ人間としてやっていく才能は無いです」
「自分でそうやって言い切ってしまうのかい?」
「はい」
「それは逃げじゃないのかい?」
彼は一瞬詰まる。だがそこで踏みとどまらなくてはならないのだ。
「……鳥留さんは、どうして弁護士になろうと思いましたか?」
質問をした側は苦笑する。
された側は、何をいきなり、と目を大きく広げる。そしてあの感じのいい口元だけの笑みを浮かべた。
「さあ、もう遠い昔のことだから忘れたよ」
「でも、自分がやったから、できたから、ってきょうだいにまで、同じ職業を選べ、とは言わなかったんではないですか?」
「……私には、きょうだいは無いんだよ、大介君」
ははは、と鳥留氏は笑った。彼はあ、と言って口を押さえる。決めつけているのは自分も同じじゃないか。
「いや、でもまあ、君の言いたいことは判るよ。そう、きょうだいは居ない。だが娘と息子が一人ずつ居る。確かに、どちらも弁護士どころか、文系とは縁の無いことをしているな」
その言葉を聞いて、彼は少しだけほっとする。
「だがそれは、二人とも、その分野にしたいことがあったからだ。私がそれならあれこれ口出すことでもないだろう。だが君は、何かその、会社に関わるのが嫌だというのなら、他にしたいことがあるのかい?」
彼は詰まった。つまりはそれが自分のネックなのだ。
人にこうと主張できる程の強い肯定的な「何か」が無い。
「嫌だから」という消極的な理由だけでは、あまりにも理由としては弱すぎるのだ。たとえそれが、自分にとって最も大きな理由であったとしても!
だから彼はいいえ、と答えた。
「だったら、もう少し続けてみたまえ。その中で、自分に向いたものがあるのかもしれない」
あるのだろうか。ぽん、と置かれた鳥留氏の手は大きくて暖かい。少しはそれを信じてみてもいいのかもしれない、と彼は思った。
だが。
*
「どういうつもりだ?」
あああの目だ、と彼は思った。頬が痛い。どうして自分が床に転がっているのか、彼にはすぐには理解できなかった。
ああそうだ、自分は「兄」に殴られたのだ。
その勢いが強すぎて、大したウエートもない自分は吹っ飛ばされてしまったのだ。
「……何の、ことですか?」
「空とぼけるんじゃない」
彼は床でこすれた頬を撫でる。擦り傷までは行っていないが、それでもひりひりと痛む。
「お前、鳥留に何を言った」
「何を、とは」
「権利を放棄したい、と言ったそうだな」
鳥留氏が言ったのだろうか。彼は考える。いや、どうだろう。
「鳥留さんが…… 言われたのですか?」
「そんなことはどうでもいいだろう」
なるほど。
彼は奇妙に冷静な頭で納得した。
鳥留氏が言った訳ではない。おそらく、この家の中の誰かが、自分達の会話を聞いていたのだ。
それが誰であるかはどうでもいいことだ。問題は、誰かしらが自分達の会話が聞こえる所に居た、ということだ。
「冗談にしても程がある」
「兄」は吐き捨てる様に言った。
「……冗談ではないです」
彼はぼそ、と言った。だがその言葉は果たして届いたのかどうか。
「今度そんなことを口にしてみろ。お前を今の学校から転校させる」
そんな無茶な、と彼は思った。既に三年も半分まで行ったというのに。そんな時期に転校する馬鹿も転校させる馬鹿もいないだろう。
だがそんなことが、きっとできるのだ。出来なければこの男はそれを口にはしないだろう。
わかりました、と彼は乾いた声で答えた。判ったならいい、と「兄」は言った。
「今日のうちに、身の回りの荷物をまとめておけ。明日から、離れではなく、お前は本宅の方に移れ」
はい、と彼は答えた。そしてその晩、彼は身の回りの荷物をまとめた。
だがそれは、本宅に移るためではなかった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
二重のカーテン (スカートの下の黒い意志)
MisakiNonagase
青春
洗濯物の隙間に隠したのは、母としての祈りと、娘のプライド。
かつて、女子高生という生き物はもっと無防備で、自由だった。
44歳の主婦、愛子が朝のベランダで手にするのは、娘たちが毎日履き替える漆黒のオーバーパンツ、通称「黒パン」。それは、令和を生きる娘たちが自らの尊厳を守るために身に着ける、鉄壁の「鎧」だった。
小学校時代のママ友たちとのランチ会。そこで語られるのは、ブルセラショップに下着を売っていた奔放な50代、無防備なまま凛と歩くしかなかった40代、そして「見せないこと」に命を懸ける10代の、あまりに深い断絶。さらには、階段で石像のように固まる父、生徒の背後に立たないよう神経を削る教師……。
一枚の黒い布を通して浮き彫りになる、現代社会の歪さと、その根底にある不器用なまでの「優しさ」。
ベランダに干された黒いカーテンの向こう側に、あなたは何を見ますか?
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる