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11話目 「窓を開けないと空気は動こうとはしないんだ」

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 アーランは困った。彼女はカエンが自分に何と言わせたいのか判らなかった。
 答えないアーランにカエンのに表情が、やや苛立ちを隠せなくなる。
 カップの中のコーヒーを飲み干そうと思うが、既にカップの中は空だった。
 仕方なし、カラシュのそばのティーポットに手を出し、コーヒーの香りが残っているカップにそのまま乳茶を入れる。
 カラシュはため息をつく。
 そのままカエンは乳茶をぐっと飲み干した。そのカップを掲げて言う。

「全く。それじゃまるで同じだ。それこそ上つ方から裾の方まで、全部同じだ。それが当然それが当然、それが当然! そこで止まってしまうんだ。窓を開けようって気がさらさらない。全然空気は動こうとはしないんだ」
「そうね」

 カラシュはカエンの前からポットを奪い取り、自分のカップにももう一杯入れた。

「だけどカエンはアーランの立場に立った訳ではないわ。私だって大きなことは言えない。何よりもまず、無事に過ごすことが第一でしょうね、普通は。カエンは兄上が居るから、さほどの責任を家に対して追わずに済んだんでしょうけど、長女だったらどう? もっとお父上が石頭だったらどお?」
「それでも、勉強するのを選んだのはワタシ自身だ」
「だけどそれを黙認したのはお父上ではなくて?」
「それはそうだ。それしかなかったからな。事実だからしゃくだか認めない訳にはいかない。事実が全てだ。道理が立とうと立つまいと、事実起こったことが真理なんだ。だけどワタシは何もしなかった訳じゃない。父上にこうしたい、ととにかく当たってはみた。だがそれすらしない奴が殆どじゃないか」
「そうよ」

 きっぱりとカラシュは言った。

「だから私達は何に対しても、口に出して説得することが必要なのよ。誰に対してもね。もちろんそれ以前に気付くことが必要なんだけど」

 アーランはそれを聞いて首を横に振る。

「そう簡単に気付ける訳ないわ」

 そうよ。アーランは思う。絶対そうだわ。
 だってそうだった。
 初めは気がつくのよ。男の子に無条件で頭を下げなくちゃならないってことが何処かおかしいってことに。だけどそれを普通と思いこまされてしまうのよ。
 施設の少女にも年長年少、力関係、様々な上下関係が存在する。
 上の子達は、下の子達が罰を受けるのは可哀そうだから、とか無事に過ごしてほしいから、と寮母の言うことを無条件に聞くように仕向ける。
 向こうが悪いことは私がよく知ってるわ。だけどあなたのためなのよ。そういうものなのよ。男がどれだけ何をしても、私達女ってのは、そういうものなのよ。
 優しい顔で上の子は言った。中には意地悪な顔で言った子も居た。
 親切のつもりだったのかもしれない。
 無知な年下の子に対する軽蔑だったのかもしれない。
 下の子が下手に反抗的だと嵐が自分に降りかかるのを避けていただけかもしれない。
 だが中身はどうあれ、同じことを言っているのだ。
 そうアーランは早くから気付いてはいた。
 だが気付いたからと言って、それは口に出せることではないのだ。自分の身が可愛ければ。

「でも気付かなくては変わらないのよ。風が起こらない所に風を起こそうとするなら、気付いた人がまず窓を開けなくちゃ。風を入れなきゃ」

 ふーん、と感心した表情でカエンはカラシュを見た。

「君は本当に珍しい奴だな。カラシュ。そこまで言うとは。大人しい顔の割には」
「あなたにそう言われる程ではありませんが?」

 もう一杯いれましょう、と空になったポットを持ってカラシュは台所へ立った。カエンはその様子と、空になった自分のカップを交互に眺めながらぼそっとつぶやいた。

「つまりは反対派とは、現在の常識を体現した奴でしかない、ということか」
「常識を体現?」

 アーランは繰り返す。

「常識が変わらない限り、反対派は必ず居る、ということになる。行動に移すかどうかは別として」
「だったら常識を変えればいい」

 アーランは自分の言葉に驚いた。無意識だったのだ。

「アーラン?」

 そして、無意識のはずの言葉は止まらなかった。

「住みにくい所に居続けるなんて、嫌だもの。言われたから仕方なく従ってきたわ。でも」
「本当は嫌だった?」
「うん」
「それを聞いて安心した」

 くす、と軽くカエンの顔に笑いが浮かぶ。あ、珍しい、とアーランはきょとんとする。そしてどういう意味、と問い返した。

「あのさ、アーラン」

 逃げないように、と言わんばかりにカエンはアーランの肩を掴んだ。いきなりのことだったので、心臓が不規則に鳴り出すのを感じる。

「あいにくワタシは、世辞も上手い嘘も下手な嘘も美辞麗句も阿諛追従も敬語もたくさんだ。聞き飽きている。生まれた時から耳にたこができるくらい聞いてきた。本心かどうかなんて簡単に聞き分けがつく」

 アーランは絶句した。何と切り返せばいいか困った。頬が赤くなるのが判る。
 失態だ。
 だがそれはそれほど居心地悪いものではなかった。
 とは言え視線のやり場に困る。肩を掴んだカエンは自分を実に真っ直ぐ見据えているのだから。
 彼女は本当に困ったように視線をめぐらせ…… ふと一点で止めた。

「どうして窓が開いているの?」
「え?」

 それは割と当たり前の光景だった。
 部屋の窓が開いている。当たり前だったので、それがおかしいことに気付くまで時間がかかった。
 ベランダへ出られる扉にもなっている窓が、ほんの少し開いていた。
 そしてそのすき間から何かがころころと転がり込んできた。

「……ボール?」

 黒い、小さな球だった。

「どうしたの?」

 入れ直したお茶のポットを手に、カラシュは近付く。
 は、と彼女が息を呑む気配をアーランは感じた。カラシュの目が小さな侵入者に釘付けになる。

「向こうのドアへ!」

 ぽん、と。

 間に合わなかった。その瞬間、黒い球は軽い音を立てて白い煙になった。
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