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21話目 「研修期間」の終わり

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 そして「研修期間」の終わりがやってきた。

 過ぎてみればあっけない、と思うのはアーランもカエンも同じらしい。最後の講義が終わったら、同時にため息がもれた。
 そのため息の正体が、「終わった」ことに対してなのか、これから起こるはずの物事の「始まり」に対してなのか、それはついた当人達にも判らないことだった。
 何はともあれ、厚手のパラフィン紙に包まれた固茶はそろそろ尽きかけていたし、結局買い出しに行かなかったビスケットとクッキーの缶はどちらも空になっていた。
 買い出しに行くことくらいはできたはずだが、アーランには元々嗜好品を買うという習慣はなかったし、カエンはビスケットを買いに行ったはずが帰ったら手には本ばかりだった、ということになりかねない。
 結果として、それまでカラシュが居たから何とかなっていた「暮らし」が「学生」味を濃くしてしまったのは否めない。だが残った固茶を無くなるまで入れ続けたアーランにはその腕が残った。

 一度、施設からアーランに手紙が来たことがある。
 差出人は寮母の一人だった。数人居る中でも一番要領が悪く、歳は寮母の中では一番上だったが、出世とは無縁で、よく遅くまで作業を続けているアーランを見かねて手伝ってくれたことがある。見つかって、後で倍の罰を食らったとしても、彼女に悪気がないから始末が悪かったということが多かったのだが。
 その彼女からだった。
 読んでみてアーランは驚いた。急に人事移動があったというのである。
 「不思議ですよね」と彼女はその人事移動で施設関係からは追放された人物の名を私事の後に並べていた。
 そしてアーランは再度驚いた。それは寄付金や物資を横流ししていたと彼女がにらんでいた人物達だった。気付いていたが、とりあえず身の安全のために黙ってはいた。その連中が一斉に飛ばされたとは。
 ちなみに、人事移動の後、彼女は寮母の筆頭になったという。茫洋とした彼女で大丈夫かと思ったが、二番手となった女性がしっかりとした公正な人物だったので安心した。少なくともこれで少しは居心地が良い所になればいいのだが、とアーランは思う。



「今までよく頑張りました。御苦労様」

 最後の夜に、二人は学長室に呼ばれた。
 ミシュガ夫人が入れる紅茶。
 それにアーランが生まれてこの方見たこともないような、ふわふわした黄色い雲のような焼き菓子が出された。黒いちごのジャムか、甘酸っぱいクリームを掛けて食べるのだという。
 さすがにアーランはどうやっていいのか判らず、戸惑った。それに気付いたのかどうか、カエンは珍しくさっさとジャムだのクリームだのを掛け始めた。それを見てあ、そうか、とアーランも真似した。

「どうでしたか? この一ヶ月間は」

 学長は訊ねた。アーランは慌ててハンカチで口をぬぐう。

「いろいろ勉強になりました」
「ワタシも」

 カエンは短く答える。

「何はともあれ、自分はそんなに間違ってないな、と感じられましたから」
「そう、それは良かった。アーランは?」

 学長はにっこりと笑う。

「何かいろいろあったようなんですが、ずいぶん早いような気もしました」
「確かにいろいろあったようね」
「……御存知でしたか」

 学長はうなづき、細く長い指を組む。

「カラシュに聞いたわ。なかなか災難だったようね。でも結果としてはそう災難でもなかったんじゃなくて?」

 結果としては。
 確かにそうだったかもしれない、とアーランは思う。
 まあ事件は事件だ。危険であったことには違いない。
 だが、おかげで今横に座っている――― 普通なら絶対に友達になれないはずの相手が、今横に居ることも事実なのだ。それも打算抜きの。
 ひどく不思議だった。それまで、何処に居ても打算はつきものだった。施設でもそうだった。学都でもそうだった。

 ああそうだ。アーランは気付く。

 私はいつでも先を読んでからしか人と付き合ってこなかったんだ。

 施設で上手く生きていくには、一緒に暮らすたくさんの少女の中でなるべく力を持つ子と仲良くなった方がいい。
 勉強ができると判るまで彼女は、悲しくなるほど不器用でみそっかすの烙印を押されてきた。出来ない作業のために食事の時間を無くしても、食事そのものを無くされないために、彼女は強い者に付かなくてはならなかった。
 勉強ができるからと待遇を良くされた時には、それを妬む者から自分を守るために、やはり強い者と付き合っていかなくてはならなかった。そして寮母の中でも強い者の機嫌をとって。
 学都では、灰色の制服を気にせずに付き合うような酔狂な少女はいなかった。進歩的であるはずの学都ですら、である。
 それを知った時、アーランは気にして同情してくれる少女に取り入った。そうすれば彼女達はとても慈悲深い心で、長期の休暇などには自分の別荘などに一夏招待してくれたりするからである。
 学都において、アーランは何はともあれ優等生だった。貧しい優等生を自分の娘が同情して食客として連れて行きたいと言うと、たいがいの有閑夫人は快く承諾した。アーランは感謝した。これで生活費が倹約できる。他に理由は無い。考える余裕などなかった。
 全ての物を利用しろ。たとえそれが自分にとっての恥でもだ。
 見抜くのだ。会った瞬間、これは自分に利用できる奴かどうか。

 ところが今この横にいる彼女は違っていた。
 今まで自分の境遇を話した時には、まず殆どと言っていい程同じ反応が現れた。アーランが最も嫌いな、軽蔑と、憐れみ。
 出会った時に、最初の会話で、そのどちらであるかを見抜くのだ。そしてそれによって相手への対応を決めてきた。
 だがしつこいようだが、カエンにはそのどっちも無かったのだ。
 無かったから、どう対応していいかひどく戸惑った。それはそれまで味わったことの無い感情だった。
 結果として、カエンには本性を現してしまうことになったのだ。
 忘れていた、いつの間にか。カエンが名家の令嬢であることなどすっかり。
 話の端々に出たとしても、気になることではなかった。―――第一中等の学生だったことはずっと気に留めていたとしても。

「かも、しれません」
「そう。なら良かった。もう気付いたんでしょ? あなた方二人が最初から留学生に決まっていたって」
「はい」

 二人してうなづく。

「事情があったのでしょう?」

 アーランが口をはさむ前にカエンはそう言った。学長はそうよ、と言った。

「事情があったのよ」

 そう言われてしまってはアーランは何も言えない。
 お代わりは? と学長は訊ねる。お願いします、とアーランは焼き菓子の方のお代わりを頼んだ。

「あ、そうそう。出発前にちょっとした見送りの式があるわ。その時にはうちの制服を二人とも着ていってくれない?」

 アーランはカエンをちら、と見た。判りました、とカエンはあっさり答えた。
 驚いた。カエンにとって第一中等の制服というのは、ある種誇りではなかったのか?

「カエン?」
「何?」
「いいの?」
「何が?」

 迷いの無い瞳。ああそうだ、とアーランは思った。
 彼女はいつもそうなのだ。 
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