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第10話 藤壷に逃げる仲忠
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その頃の仲忠だが。
彼は左近の幄で勝利の祝いとばかりに笛を楽しく吹いていた。
「珍しい、彼があんなに」
周囲もその妙なる音色を楽しんでいた。
そこへ。
「仲忠どの、帝のお召しらしいですぞ」
同僚が囁く。帝と涼の会話を聞きつけたらしい。
まずい、とばかりに仲忠は笛を持ったままその場からそっと抜け出した。
だが何処に隠れたものか、とばかりに彼はうろうろするばかりである。隠れたところで内裏の中である。何とかして人に見つからないところ―――
彼の足は、藤壺に向かっていた。
「まあ、仲忠さま」
彼の姿を見つけるが早いが、孫王の君が声を上げる。変わらない。しゃんとした姿勢。
「ああ久しぶり。元気だった?」
「元気でしたけど…… どういたしましたの? 只今は、まだ相撲が」
「うん、その話もしたいけど、ともかく今はちょっと匿って欲しいんだ」
「困ってらっしゃるのですか?」
兵衛の君も驚き、そう問いかける。
「ええそうなのです。帝の急なお召しで」
「それで逃げてらっしゃるのですか? 情けのうございますわ」
容赦の無い兵衛の君の口調に、仲忠は苦笑する。
「でもちょっと困るお召しなんだ。退出する訳にもいかないので、ちょっとだけ隠して欲しいなと思ったんだ」
「帝のお召しを困る、とかおっしゃる悪い方をどうして隠すことができましょう? 私達が他から言いがかりをつけられるのも嫌ですわ」
「別に悪いことをした覚えは無いよ。君こそこっちで一杯悪いことを覚えたのではない?」
「私は別に。でも中将さま、こことは言いませんわ。何処かで悪いことをなさってるのじゃあありませんこと? 火の無いところに煙は立ちませんわ」
それには答えず、仲忠は御簾と几帳の間に隠れて、下長押に寄りかかった。
そして奥に確実に居るだろう藤壺の方――― あて宮に向かって直接呼びかける。
「今日の様な晴れの日に参殿なさらない方は、ずいぶん罪深い方だと思いますよ。格別の行事でしたから」
「そんなに凄かったのですか?」
兵衛の君は問いかける。
「ええ勿論。ですから、あんなに結構な素晴らしい行事を御覧にならないなんて、並々ではない罪深い御方だ、と思うのです」
どうですか? とばかりに仲忠はあて宮に向かって問いかける。あて宮は兵衛の君を通して答える。
「あなたをここで私が見逃すのも、また罪になるのでは、とのことです」
「時々ここに伺候しているうちに、御方さまに僕も似てきたんだろうな」
まあ、と女房達はくすくすと笑う。
言う程彼はここにやって来ている訳ではない。
通っていると言えばむしろ、ここに仕えている孫王の君の元だ。それは女房達の皆が知っていることだった。
孫王の君はそれを顔にも出さないが、周囲の同僚達は、女一宮の婿として選ばれている彼との仲を皆心配していた。
「……というのは冗談ですが、ともかくあんな面白いものを御覧にならなかったのが残念でたまりません。いや、本当に面白かったんですよ」
「御方さまは、この頃ちょっと体調が優れないので…… ところで、どちらが勝ったのですか?」
兵衛の君は尋ねる。実は彼女もそれには興味津々だったのだ。
「何言ってるの。左近ですよ左近。僕が居る方なんだから」
「だから左では無かったんじゃないか、と思ってたのですわ」
「君もなかなか言うね。まあいいや。でもだからこそ、ぜひ御方さまには御覧になって欲しかったのですよ」
確かに、と女房達はうなづく。それに何と言っても、左近の大将はあて宮の父、正頼だ。そちらに勝って欲しいに決まっている。
「御方さまがいらっしゃると思っていたので、舞なども張り切っていたのですが、居ないと知った途端、まるで夜の錦の様に張り合いの無い話でした」
「仲忠さま、『ここで一曲演奏して欲しい』と御方さまが」
兵衛の君が伝える。どうだろう、とそれを聞いていた孫王の君は思う。おそらく彼は帝から演奏を強いられそうになったので逃げてきたのだ。
仲忠はふんわりと笑う。
「御方さまが合わせて下さるなら、いくらでも」
兵衛の君は主人の方を向く。言葉を伝える様に彼女は促される。
仲忠は繰り返されるそのやり取りに、ふとこう口火を切った。
「高麗人などの様な外国人には通訳が必要ですが、ここもそうですか? 奇妙なことですね」
「『独楽/高麗を上手にお回しになる方でいらっしゃるからでございましょう』」
その様に通訳混じりの会話を交わすうちに、日も暮れてきた。
*
夕暮れどき。
秋風が涼しく彼らの側を行き過ぎる。
「―――秋風は涼しく吹くけど……」
などと上の句だけを詠んで、そこにあった箏の琴を引き寄せ、かき鳴らす。
「そうお詠みになるということは、頼みになる女性が何処かにお有りになるのでしょう?」
兵衛の君が笑って問いかける。
「ここ以外には何処も」
「けど、野にも山にも、というではありませんか」
古歌を引き合いに出す。「―――あなたのせいで、私の浮き名が春の霞の様に野にも山にも立ってしまったではないですか」と。
引用には引用を。仲忠もまた、古歌を引き合いに出して返す。
「それは『人の心の嵐』でしょう」
「だけど、『真風』とも言いますわ」
「けどそれは今は皆『木枯らし』になってしまったよ」
「それこそ、空一杯に声が広まりましょうよ」
「まず先に、立ってもいませんよ」
「春頃から何かと噂が立ってますわ。それは如何ですこと?」
「『秋霧の降る音』がどうして聞こえないことがあるかなあ?」
「その秋霧が『晴れない』のは見苦しいですわ」
「まあね。晴れないのは僕も侘びしいと思うのだけど」
「そう仰っても、仲忠さまのためなら、喜んで『宿を貸す人』もあるでしょうに」
「けど春の宮/東宮からはそういう訳にはいかないでしょう」
「宮中には御宿がありますでしょう」
「それを通り過ぎた/逃げてきたのは月影だって見たと思うのだけどね」
「それこそ白雲/知らないですわ」
「……じゃあ、ちょっと真面目に。何かと決心しかねることが、月日を増すごとに重くなって行くのはどうしたものでしょうか?」
兵衛の君は困った。懸想人の様ではないか、と。慌てて主人の方を見る。
だがあて宮は怒る様子も無い。兵衛の君は仕方なく冗談で返そうとするが、上手く言葉が出て来ない。
「真面目な話になると逸らしてしまうんですね」
それはそうでしょう、と兵衛の君は思う。そしてちら、と同僚を見る。孫王の君は動じていない。
何故! と彼女は思う。
その視線に気付いたのか、孫王の君は苦笑する。
「ああ、あなたのことではないんだ。世の中で侘びしいものと言えば独り棲みだよ。ねえ君、あの方に判って頂こうというのは無理ってことで」
にやりと仲忠は笑う。ああそうか、と兵衛の君はやっと気付く。言葉遊びだ、と。
「今となっては『結ぶ手もたゆくとくる下紐』と申し上げても甲斐のないということで」
と。
「『浮気な朝顔の花に下紐を解く』とか聞いてますよ。あなたは私に実を見せてくれるのですか?」
あて宮の声だった。女房達は驚く。
と同時に、これは遊びなのだ、ということが彼女達皆が納得できた。
「同じように吹くすれば、あなたのお役に立てる風になりたいと思います。
―――夕暮れの秋風よ、旅人の草の枕の露を乾かしておあげ―――
独り寝の淋しさに『涙で濡れない暁』はありません」
するとあて宮がそれに応える。
「―――色好みの人の枕を濡らす白露/涙は秋/飽き風で一層勝るでしょう。―――
あなたが飽きてお忘れになった女の方々は少なくないのでは?」
「そんなもの、ありませんよ。
―――『秋風のむなしき名』は秋風にとって無実の浮き名ですよ。その浮き名ばかりが有名になったものだな―――
目立つことでもないのに、ひどいですね。どちらがあだ人でしょう?」
「―――秋風が吹いてくれば、荻の下葉も色付くのに、どうして『むなしき名』と思うことが出来ましょうか―――
真面目には見えませんよ」
「それはあなたさまのことではありませんか。
―――秋風が荻の下葉を吹くと、人を待つ宿では女が心を騒がすだろう」
するとあて宮はころころと笑った。周囲の女房達は主人の珍しい類の笑いに驚いた。
「―――籬の荻のあたりをたとえ風が吹いても/私の元にどんな男が訪れても/どうして返事など致しましょう」
「それはまた、もどかしいことですね。
―――多くの下葉を吹く浮気な風に心を動かさず、私にいらっしゃいと言っていただきたいものです」
まあ、とあて宮は再びころころと笑い、仲忠もそれにならった。
そのまま仲忠は軽く箏をかき鳴らすに留めた。
彼は左近の幄で勝利の祝いとばかりに笛を楽しく吹いていた。
「珍しい、彼があんなに」
周囲もその妙なる音色を楽しんでいた。
そこへ。
「仲忠どの、帝のお召しらしいですぞ」
同僚が囁く。帝と涼の会話を聞きつけたらしい。
まずい、とばかりに仲忠は笛を持ったままその場からそっと抜け出した。
だが何処に隠れたものか、とばかりに彼はうろうろするばかりである。隠れたところで内裏の中である。何とかして人に見つからないところ―――
彼の足は、藤壺に向かっていた。
「まあ、仲忠さま」
彼の姿を見つけるが早いが、孫王の君が声を上げる。変わらない。しゃんとした姿勢。
「ああ久しぶり。元気だった?」
「元気でしたけど…… どういたしましたの? 只今は、まだ相撲が」
「うん、その話もしたいけど、ともかく今はちょっと匿って欲しいんだ」
「困ってらっしゃるのですか?」
兵衛の君も驚き、そう問いかける。
「ええそうなのです。帝の急なお召しで」
「それで逃げてらっしゃるのですか? 情けのうございますわ」
容赦の無い兵衛の君の口調に、仲忠は苦笑する。
「でもちょっと困るお召しなんだ。退出する訳にもいかないので、ちょっとだけ隠して欲しいなと思ったんだ」
「帝のお召しを困る、とかおっしゃる悪い方をどうして隠すことができましょう? 私達が他から言いがかりをつけられるのも嫌ですわ」
「別に悪いことをした覚えは無いよ。君こそこっちで一杯悪いことを覚えたのではない?」
「私は別に。でも中将さま、こことは言いませんわ。何処かで悪いことをなさってるのじゃあありませんこと? 火の無いところに煙は立ちませんわ」
それには答えず、仲忠は御簾と几帳の間に隠れて、下長押に寄りかかった。
そして奥に確実に居るだろう藤壺の方――― あて宮に向かって直接呼びかける。
「今日の様な晴れの日に参殿なさらない方は、ずいぶん罪深い方だと思いますよ。格別の行事でしたから」
「そんなに凄かったのですか?」
兵衛の君は問いかける。
「ええ勿論。ですから、あんなに結構な素晴らしい行事を御覧にならないなんて、並々ではない罪深い御方だ、と思うのです」
どうですか? とばかりに仲忠はあて宮に向かって問いかける。あて宮は兵衛の君を通して答える。
「あなたをここで私が見逃すのも、また罪になるのでは、とのことです」
「時々ここに伺候しているうちに、御方さまに僕も似てきたんだろうな」
まあ、と女房達はくすくすと笑う。
言う程彼はここにやって来ている訳ではない。
通っていると言えばむしろ、ここに仕えている孫王の君の元だ。それは女房達の皆が知っていることだった。
孫王の君はそれを顔にも出さないが、周囲の同僚達は、女一宮の婿として選ばれている彼との仲を皆心配していた。
「……というのは冗談ですが、ともかくあんな面白いものを御覧にならなかったのが残念でたまりません。いや、本当に面白かったんですよ」
「御方さまは、この頃ちょっと体調が優れないので…… ところで、どちらが勝ったのですか?」
兵衛の君は尋ねる。実は彼女もそれには興味津々だったのだ。
「何言ってるの。左近ですよ左近。僕が居る方なんだから」
「だから左では無かったんじゃないか、と思ってたのですわ」
「君もなかなか言うね。まあいいや。でもだからこそ、ぜひ御方さまには御覧になって欲しかったのですよ」
確かに、と女房達はうなづく。それに何と言っても、左近の大将はあて宮の父、正頼だ。そちらに勝って欲しいに決まっている。
「御方さまがいらっしゃると思っていたので、舞なども張り切っていたのですが、居ないと知った途端、まるで夜の錦の様に張り合いの無い話でした」
「仲忠さま、『ここで一曲演奏して欲しい』と御方さまが」
兵衛の君が伝える。どうだろう、とそれを聞いていた孫王の君は思う。おそらく彼は帝から演奏を強いられそうになったので逃げてきたのだ。
仲忠はふんわりと笑う。
「御方さまが合わせて下さるなら、いくらでも」
兵衛の君は主人の方を向く。言葉を伝える様に彼女は促される。
仲忠は繰り返されるそのやり取りに、ふとこう口火を切った。
「高麗人などの様な外国人には通訳が必要ですが、ここもそうですか? 奇妙なことですね」
「『独楽/高麗を上手にお回しになる方でいらっしゃるからでございましょう』」
その様に通訳混じりの会話を交わすうちに、日も暮れてきた。
*
夕暮れどき。
秋風が涼しく彼らの側を行き過ぎる。
「―――秋風は涼しく吹くけど……」
などと上の句だけを詠んで、そこにあった箏の琴を引き寄せ、かき鳴らす。
「そうお詠みになるということは、頼みになる女性が何処かにお有りになるのでしょう?」
兵衛の君が笑って問いかける。
「ここ以外には何処も」
「けど、野にも山にも、というではありませんか」
古歌を引き合いに出す。「―――あなたのせいで、私の浮き名が春の霞の様に野にも山にも立ってしまったではないですか」と。
引用には引用を。仲忠もまた、古歌を引き合いに出して返す。
「それは『人の心の嵐』でしょう」
「だけど、『真風』とも言いますわ」
「けどそれは今は皆『木枯らし』になってしまったよ」
「それこそ、空一杯に声が広まりましょうよ」
「まず先に、立ってもいませんよ」
「春頃から何かと噂が立ってますわ。それは如何ですこと?」
「『秋霧の降る音』がどうして聞こえないことがあるかなあ?」
「その秋霧が『晴れない』のは見苦しいですわ」
「まあね。晴れないのは僕も侘びしいと思うのだけど」
「そう仰っても、仲忠さまのためなら、喜んで『宿を貸す人』もあるでしょうに」
「けど春の宮/東宮からはそういう訳にはいかないでしょう」
「宮中には御宿がありますでしょう」
「それを通り過ぎた/逃げてきたのは月影だって見たと思うのだけどね」
「それこそ白雲/知らないですわ」
「……じゃあ、ちょっと真面目に。何かと決心しかねることが、月日を増すごとに重くなって行くのはどうしたものでしょうか?」
兵衛の君は困った。懸想人の様ではないか、と。慌てて主人の方を見る。
だがあて宮は怒る様子も無い。兵衛の君は仕方なく冗談で返そうとするが、上手く言葉が出て来ない。
「真面目な話になると逸らしてしまうんですね」
それはそうでしょう、と兵衛の君は思う。そしてちら、と同僚を見る。孫王の君は動じていない。
何故! と彼女は思う。
その視線に気付いたのか、孫王の君は苦笑する。
「ああ、あなたのことではないんだ。世の中で侘びしいものと言えば独り棲みだよ。ねえ君、あの方に判って頂こうというのは無理ってことで」
にやりと仲忠は笑う。ああそうか、と兵衛の君はやっと気付く。言葉遊びだ、と。
「今となっては『結ぶ手もたゆくとくる下紐』と申し上げても甲斐のないということで」
と。
「『浮気な朝顔の花に下紐を解く』とか聞いてますよ。あなたは私に実を見せてくれるのですか?」
あて宮の声だった。女房達は驚く。
と同時に、これは遊びなのだ、ということが彼女達皆が納得できた。
「同じように吹くすれば、あなたのお役に立てる風になりたいと思います。
―――夕暮れの秋風よ、旅人の草の枕の露を乾かしておあげ―――
独り寝の淋しさに『涙で濡れない暁』はありません」
するとあて宮がそれに応える。
「―――色好みの人の枕を濡らす白露/涙は秋/飽き風で一層勝るでしょう。―――
あなたが飽きてお忘れになった女の方々は少なくないのでは?」
「そんなもの、ありませんよ。
―――『秋風のむなしき名』は秋風にとって無実の浮き名ですよ。その浮き名ばかりが有名になったものだな―――
目立つことでもないのに、ひどいですね。どちらがあだ人でしょう?」
「―――秋風が吹いてくれば、荻の下葉も色付くのに、どうして『むなしき名』と思うことが出来ましょうか―――
真面目には見えませんよ」
「それはあなたさまのことではありませんか。
―――秋風が荻の下葉を吹くと、人を待つ宿では女が心を騒がすだろう」
するとあて宮はころころと笑った。周囲の女房達は主人の珍しい類の笑いに驚いた。
「―――籬の荻のあたりをたとえ風が吹いても/私の元にどんな男が訪れても/どうして返事など致しましょう」
「それはまた、もどかしいことですね。
―――多くの下葉を吹く浮気な風に心を動かさず、私にいらっしゃいと言っていただきたいものです」
まあ、とあて宮は再びころころと笑い、仲忠もそれにならった。
そのまま仲忠は軽く箏をかき鳴らすに留めた。
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